第2話 迷走はまだまだ続く
だがそれでも、事業部の迷走は止まらなかった。
今度は本格的に浮動小数点演算チップFPUの製作に挑戦が始まった。
人員不足にようやく気付いたのか、今度はもっと多くのメンバーで再開された。今度のリーダーは燃えるワーカーホリックのF主任。
作業現場も変わった。本社の一部が借り上げられ、そこで行われることになったのだ。
地獄の十三番館と呼ばれる場所だ。この会社には『地獄の・・』と呼ばれる古い建物がたくさんある。
この本社のある場所は昔は僻地も僻地であり手狭になった会社を拡張するために、会社が丸ごと移転してきた場所である。
この本社のために新しく駅が新設されたという曰くがあり、その余りの不便さに当時の社員の三割が辞めたという経緯がある。
その通り、社員軽視にも程がある。
元々はこの場所で半導体を作っていた。やがて周囲の開発につれて車などの振動が半導体製造に悪影響を与え始め、最終的に本社は事務の機能だけを持つようになった。
その結果、本社のあちらこちらには元工場の建物がいくつも残ることになった。
この十三番館も元々は工場で、工場内部を監視するための浮いた二階が存在している。つまりこの部屋から工場の機械群が眺められるようになっている。
その監視所を転用した部屋だ。床は油がしみ込んだ板張りである。
何故、こんな場所が割り当てられたのかは判らない。いじめの一種なのかもしれない。
巨大な換気扇が監視所の横でいつもうるさく回っている。そこにF主任と一緒に閉じ込められての仕事だ。私語をすると、お前ら何さぼっているんだ、とばかりにF主任が睨んでくる。
結果、換気扇の音だけが部屋を支配する。朝から晩まで自分の机から離れることはできない。
そんな中でS先輩がパソコンにソフトを入れた。キーを叩くと音が出るソフトだ。もしかしたら自分で作ったのかも知れない。
そのままS先輩が軽快にキーボードを叩いていると、うるさいぞ、キーボードの音を消せ、とF主任の罵声が飛ぶ。それに応えて、本当に嫌味なんだから、とS先輩がわざと聞こえるように呟く。幸い殴り合いには発展しなかった。
この最悪の空気の中で仕事は進んだ。
私の仕事はモトローラ社のFPUに関する英文特許の調査だ。
特許文書に特有の回りくどい表現で、一つの特許を百のバージョンに分けて定義してあるほどの徹底ぶりだ。このうち一つでも今設計している回路に合致したら設計はやり直すことになる。特許戦争は広大な大地に埋設された地雷原と考えれば良い。一つでも踏んだら、はいそれまでよ、である。
全文英語の文書を元にして、一つずつ丁寧に図に起こす。こちらの設計図と照らし合わせて合致するところが無いかを目で検査する。
気が狂いそうだ。狂いそうだが、仕事はすべからくこのような地道な部分を持ち、それを片づけないと先に進むことはできない。そう信じて我慢する。
百項目を片づけるのに二週間がかかった。これを報告書に仕上げて提出する。
「どこか抵触していたか?」報告書をじろりと睨んでF主任が訊く。
「問題ありません」緊張して答える。
「そうか」
その一言だけが、ねぎらいの言葉だ。
報告書には一瞥すら与えない。
もし、私が間違えていたらこの人はどうするのだろう?
そう思った。
何億円、何十億円もかけて物を作り、出来上がった頃に特許に抵触していることが判ったらどうするのだろう?
特許料を払って使わせて貰えるならばまだ幸運だ。特許の使用を拒否されれば製品を売ることはできない。開発費は丸々損となる。
新人を信じていました。その言葉で失敗の言い訳になるのか?
ならば最低でも報告の内容を自分で精査しなくてはいけないはずだ。
つまりF主任は仕事をしていたわけではない。仕事のフリをしているだけなのだ。
心中深く軽蔑したが、口にも表情にも出さない。
一か月後、このプロジェクトは中止になった。
ようやく上の連中がFPU作りがどれほどの難度か理解したのだろうと思う。
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