第2話
「こんなところで何してるの?」
誰もいない教室でひとり静かに絵を描いていると前にある扉から声が聞こえてきた。
いじめっ子たちが来たのかと私は身体をビクつかせながら前を見ると、見知らぬ生徒がそこにはいた。髪の長い細身の女子生徒。絵のモチーフになりそうなほど背景に合う整った容顔、容姿だった。
「えっと、どちらさま?」
朗らかな笑みを浮かべながら近づいてくる彼女に、私は恐る恐ると声をかける。
私の問いかけに対して、彼女は笑みを浮かべたまま足を止める。それから数秒後に机に手をつき、明らかにテンションの下がった様子で顔をうつむけた。
「そっか〜。でも、仕方ないよね。同じクラスとはいえ、一学期中は休んでいたから。私の名前はナルミヤユウカ。『成長したら王宮にいる王子様の婿になって、優雅で心癒される香りに包まれながら生活するのが夢』でナルミヤユウカだよ」
長すぎてどの漢字を拾ったら良いのかわからなかったが、おそらく成宮優香だろう。ややこしい説明の仕方だ。独特で個性的な子というのが彼女の第一印象だ。
私は授業中の風景を思い浮かべる。確かに、いつもなら空いている窓側最前列が今日は埋まっていたような気がしないでもない。
「ああ〜。私はサメジマミヅキ。『鮫に囲まれた島で観測する月は綺麗』で鮫島観月」
「すごい島だね。確かに、死際に見る月は綺麗かもね」
「いや……成宮さんが言ったから合わせただけで、別に深い意味は……」
「ふふっ。冗談冗談。よろしくね、鮫島さん。ところでこんなところで何やってるの?」
互いの自己紹介を終えると、成宮さんは脱線した話を元に戻す。
私は手に触れていた自由帳を半回転させると彼女へと見せた。今の会話で彼女への警戒心は完全に消滅していた。
「うわぁ。すっごい上手。これ、鮫島さんが描いたの?」
「う、うん」
「すごいね。将来は有望な画家になりそうだ」
無邪気にはしゃぐ成宮さんに私はどう反応して良いかわからず、ただただ薄っぺらい笑みを浮かべた。とはいえ、別に悪い気はしなかった。むしろ嬉しかった。他の誰にも褒めてもらえたことがなかったのだ。
「教室では描かないの?」
成宮さんは隣の席に腰掛ける。綺麗な髪から流れるシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
「静かな場所で描きたかったから」
流石に虐められるからなんて言えるはずもなく、もっともらしい嘘をつく。
「そっか〜。ひょっとして、わたし邪魔だったりする?」
「いや、別に。成宮さんは居ても悪い気はしない」
今の言葉は本心だった。味方がいてくれると、いじめっ子もへたに来れなくなるので、何かと都合がいい。
「ほんと! じゃあ、居座ります。私のことは気にしないで描いてくれた大丈夫だからね」
成宮さんは両肘を突きながら私の自由帳を眺める。
「隣でまじまじと見つめられるのはちょっとやりにくい」
「あっ! ごめん! もうちょっと離れるね」
すぐに席を立ち上がり、二つ分くらい開けて再び席に座る。実に謙虚だ。
これくらいの距離ならば申し分ないか。私は机に視線を移すと手に持った鉛筆を自由帳に走らせた。これが成宮優香とのファーストコンタクトだった。
****
それ以降、成宮さんは毎日のように私のいる空き教室へとやってきた。
いろいろな場所を転々としていた私だが、成宮さんが来るようになってからは一箇所に固定するようにした。思惑どおり、成宮さんが来るようになったことでいじめっ子たちは空き部屋に来ることがなくなったからだ。それに下手に移動すると、今度は成宮さんが来れなくなってしまう。
「観月。昨日はメッセージありがとうね。おかげで忘れずに済んだよ」
毎日のように一緒にいるからかいつしか成宮さんは私を下の名前で呼ぶようになった。だから私も自ずと成宮さんのことを優香と呼ぶようになった。
「私が連絡するまでは?」
「もちろん忘れてました」
優香はそう言って、ぶりっ子のように「てへっ」と舌を出して笑って見せた。
学校での彼女は見た目どおり『天然』だった。よく宿題や提出物を忘れて先生に謝罪している。常習犯なのか、先生は呆れてモノも言えない様子で怒ることはない。
「ま、そういう私も優香から返信もらうまで気づかなかったんだけど」
「えっ! じゃあ、どうやってメッセージを送ったの! もしかしてマジック?」
「違う違う。チャットに『予約送信機能』があるからそれを使ったの」
私はポケットにしまっていたスマホを取り出し、優香とのチャット画面を開いた。適当なメッセージを打って送信ボタンを長押しすると、予約送信時間設定という画面が出てきた。そこで優香へと画面を見せる。
「へえー、こんな機能があるんだ。良いこと聞いちゃった。これ、時間設定はいつでもできるんだね」
「そっ。小学校の頃に、それを利用して自分だけのチャット部屋で、十年後の自分に宛てたメッセージを書くみたいなことをしたんだ」
「最先端! もう紙で書く時代も終わったんだね。なら、これも書かなくていいのでは?」
優香は自分の座る机に置かれた『進路希望調査』の紙に視線を向けた。紙には名前だけが記入されている。
「そんなわけないでしょ。ちゃんと書かないとまた謝ることになるよ」
「ちぇ〜、観月はなんて書いたの?」
「私は普通に今の成績で入れる高校を書いただけ。みんなそんなもんじゃない? 流石に中学卒業で就職は早いし」
「美術学校には行かないの?」
「高校のうちは普通科かな。大学になったら考えるよ」
「今の将来の夢は!?」
優香はインタビュアーになったように仮想のマイクを手で握って、私の口元に向ける。
「……一応、イラストレーター」
「なら、美術学校に行けばいいのに。早めに行ったほうが早く上手くなれると思うよ。子供の頃の成長って早いって言うし」
「まあ、絵なんてどこでも描けるから。それに、もしイラストレーターになれなかった時のために保険はかけておきたいから」
「現実的だね〜」
「そう言う優香は将来何になりたいの?」
「私は……普通に高校・大学行って、好きな人と結婚して、良いお嫁さんになるかな」
「そっちのほうが現実的でしょ……」
「てへへ」
優香はまたぶりっ子のように舌を出して戯けてみせた。
彼女の笑みにつられるように私も笑みを溢す。今までこんな感じで雑談ができる友達はいなかったので、二人でいるこの教室の空気感は結構好きだった。
****
優香との楽しい学校生活は、ある日を境に少しずつ変化していくこととなった。
「なんでそんな酷いことをするの!?」
用を足し終え、教室に戻っていく途中、聞き馴染みのある声での怒号が廊下を超えて聞こえてきた。私は何事かと小走りに教室へと戻っていった。
見るといじめっ子の三人と優香が向かい合って対峙していた。いじめっ子のリーダー的存在である女子生徒は片手を頬に添えている。優香は、普段は見せない剣幕で睨みつけていた。
彼女たちの間を引き裂くように私の机がポツンと健在している。机に入った教科書やノートは嘔吐したかのように乱雑に床に転げ落ちていた。その中で、私がいつも使用している自由帳が明らかに浮いた位置に置かれている。
視界に映った光景から、そこに至るまでの流れを汲み取るのはそんなに難しいことではなかった。いつものように私の自由帳に悪戯をしようとしたいじめっ子たちを、優香が目撃して止めに入ったのだ。
一触即発の雰囲気に、教室にいた生徒全員が石像のように動かない。
沈黙を破ったのは頬を殴られた女子生徒だった。舌打ちを一回打ち、席から離れると私のいる方へ歩いてきた。
私もまたゴーゴンによって石化されたように立ち止まった場所から動くことはできなかった。いじめっ子たちと目が合うと、鋭い目つきで睨まれはしたものの、何もされることなく彼女たちは私とすれ違った。
その鋭い目つきが皮肉にも石化を解く魔法となり、動けるようになった私は優香の元へと走っていった。教室もそのタイミングで何事もなかったかのように雑談の声が広がり始める。
「優香、大丈夫?」
「私は別に。それよりも……」
優香はそう言って、下へと顔を向ける。視線の先を見ると自由帳があった。いつものようにページが破れている。だが、いつもと違ってそれは中途半端だった。きっと優香が殴ったことでいじめっ子たちは動作をやめざるをえなかったのだろう。
「ごめん。せっかく描いてた絵を……」
「うんうん。なんてことないよ。絵なんてまた描けばいいから」
私は腰を下ろし、机から吐き出された教科書とノートを綺麗に片付ける。優香はただその場に立ち止まるばかりで壊れたかのように「ごめんね」と謝罪を繰り返した。その度に私は「いいよ」と励ましの言葉を送る。被害を受けたのは私なのに私が励ますと言うのはなんだかおかしかった。
それから騒ぎを聞きつけた先生たちが優香といじめっ子の三人、それから私を呼びつけて事情を聞いてきた。優香はことの顛末を話し、いじめっ子たちは私が無視するから悪戯をしたと言った。先生はいじめっ子たちを叱った。その様子を見ていた私は、なんだか嫌な予感がして胃が痛くなるのを感じた。
その日からだ。いじめの対象が私から優香に明確的に変わったのは。
下劣で悪質ないじめ。
優香の机に小さく描かれた悪口。トイレのドアの下から吹き出し、靴下とスリッパを濡らす水。冬の寒い時期に隠される体操服の上着。言葉だけで書くと小さないじめのように思えるが、塵も積もれば山となる。日に日に続く小さないじめというのは徐々に傷口を広げていき、やがて崩壊させる。
最初は気にしない様子を見せていた優香だが、時を重ねるごとに考え事が多くなっていた。表情も元気な時に比べて、やつれていったように思う。
私は彼女の好きな絵を描いて励まそうとしたが、それ以上のことはできなかった。正確にはしなかったというのが正しい。下手に私が手を出せば、また標的が移る。一度味わっているから、それがとても恐ろしく感じた。
そうして薄暗く包まれた日が重なっていく。それは日に日に濃さを増していき、やがて漆黒となり、心に刻まれる。二学期も終わりに近づいた頃、担任の先生から優香の訃報を知らされた。
優香の訃報が知らされた時、教室はとても閑散としていた。それに反比例するように職員室はとても慌ただしかった。PTAや警察への対応で忙しかったんだろう。校長先生も担任の先生同様、朝礼の挨拶の際、涙を流してみんなに話した。
生前、優香は何も残さなかったようで、何が彼女を自殺に追い込んだのかは、私といじめっ子たちを含めて誰も知りはしなかった。私は先生たちにどうしてこうなったのか、ことの顛末を全て洗いざらいに話したかった。
『絶対誰にも言わないでね』
でも、この言葉が私を邪魔する。
口から想いを吐き出そうとすると、この言葉が口にチャックをする。
これは私と彼女に交わされた契約なのだ。彼女が命と引き換えに交わした契約。
優香、どうしてあなたが、私にこの言葉を送ったの?
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