七章 甘い計画
1話 身体は正直
<美園マンション>とその周辺では、怪しい話に事欠かない。
かつては刑場や焼場を併置した墓所であり、記録には残っていないが、毎年数百人以上が処刑されていただろうといわれている。獄門台には罪人の首が並べられ、幕末に活動した浪士隊局長の首も、この地で晒された。
そういった諸々の怨念がこの地に残り、生者を引っ張り込もうとしているのだとか。
ただ、この<美園マンション>に関していえば、真実が怪談というフィクションにされたところもあった。
たしかに転落事故はある。建物の高さを利用して、命に終止符を打とうとする者もいた。
そういった者たちの遺体が、地上に残ることなく消えた……なんてことはない。
窓の外に出っ張った室外機や、壁にのたうつ太い配管にぶつかって落下の勢いが削がれ、地面に直撃せずにすんだ。
あるいは、テナントから出た大量の段ボールやゴミが救助マットになって命が助かった、エトセトラ。
こういった幸運で、死体ではなく生者として救出されることがある。これが事実そのままで伝わらず、脚色されたり歪曲されたりして怪談話になることがあるようだった。
グウィン・サントス・バウティスタは、内戦の前線からこの街に逃れてきた。
つてを頼ってきたのが、たまたまこの街だっただけで、思い入れどころか前知識もない。
ただ、言葉を覚えるのは早かった。書き取りが難しくて大変だったが、勉強そのものは楽しくて、街の人間を相手に実践しながら、夢中になって覚えた。
街の人間と話せるようになって、わかってきたのは、この街には移民やビジターが少なくないこと。理由や滞在期間の違いはあれど、生まれた国から離れてきた人間が集まっていた。
生国を捨て、よその土地で生き抜こうとする執念。
違法スレスレ、ときに逸脱してでも稼ごうとする商売人の根性。
金がなくても、ないなりに楽しもうとするトラベラーのたくましさ。
古くから庶民の自活中心に発展してきた土壌があるところに、集ってきた人間のパワーが重なり、黄泉の国に旅立とうとする者たちすら引き戻すことがある気がしている。
地上十一階の屋上から落ちながらも助かったアイスは、その恩恵に預かったのか、生存本能が最強クラスだったのか。
グウィンは、土地のパワーがアイスの生存本能を焚きつけたと思っている。
そして、わずかなチャンスを逃さない反応の良さ。
屋上から飛び出したアイスだが、堕ちる途中でぶつかった配管に、とっさにしがみついていた。
この反応の良さがアイスなのだとグウィンは嬉しくなる。右肩と左足が使えなくなっていたというのに、この人の身体能力は良い意味でデタラメだ。
たださすがのアイスも、このときさらに左肩を捻挫した。落下する身体を左腕一本で食い止めるアクロバティックをやってのけた無理からだった。
「肩なのに捻挫ってあるの?」
開いた脇腹の傷口諸々あわせて、地階診療所での処置をやっと受けおわったアイスの開口一番はこれだった。
「ごもっともな質問だよね」
グウィンも整体を生業にする以前は、捻挫といえば足首のイメージしかなかった。
「捻挫ってね、靭帯や腱、軟骨とかの怪我のことなの。だから関節のあるところならどこでも、肘とか腰とかでも捻挫はあるよ」
「腰の捻挫ってヘンな感じ」
クギを刺すのも忘れなかった。
「あと、これがいちばん大事。捻挫でも痛みがひいただけで安心しないでね」
「…………」
この沈黙にもグウィンは答えた。
「治療のために固定するから、どうしても周辺の筋肉の柔軟性がなくなる。だから、ケアはちゃんと受けるように。さぼったりしたら、また再発するかもよ。トシなんだし」
「……わかった」
最近多くなってきた本人の口癖を織り込んで納得してもらった。
そんなやりとりがあったのは三週間前だった。
ゲストハウスを変えただけで、アイスは相変わらず<美園マンション>での宿泊を続けている。この人の住所は、本当に<美園マンション>なんじゃないだろうかとグウィンは思う。
「ミオに訊かれたことあるよ」
施術箇所に適度な負荷をかけつつアイスに言った。
「アイスに家はないのかって」
「なんて答えたの?」
「住所不定」
「ほかの言い方なかった?」
「実際、アイスの家なんて知らないし、聞いたことなかったし」
「グウィンになら教えてもよかったんだけど、本人が存在を忘れてそうになるぐらいに帰ってない家を『家』と呼んでいいのか」
「そろそろ家の中にキノコでも生えてるんじゃない?<美園マンション>に泊まってるっていうより、住んでるって言われたほうがしっくりくる。もう買ったら?」
本来は分譲用の部屋がメインだったのだが、買い手がつかないうちにオーナーが手放した。そうして所有権が切り売りされて、ゲストハウスにとってかわられた経緯がある。数はぐっと減ったが、分譲用の部屋はまだ、あるにはあった。
「借りてる方が気楽でいいよ。掃除してもらえるし」
「もったいなくない? それに……」
グウィンは恐る恐る訊いた。
「もう逃げる必要はないんでしょ?」
麻生嶋ディオゴの転落が事故死として扱われた以外、ことの顛末を聞いていなかった。
<美園マンション>には、地階診療所での出張施術でくるだけだ。ディオゴが亡くなった数日こそ警察がきていたが、検証がおわると姿を見せなくなっていた。
「穏便にすんだって思っていいの? アイスをつけ狙うような人もいない?」
「警察のほうは怜佳さんが『袖の下をつかませている警部補』を使ったかもね。うまくいかなかったとしても、グウィンは巻き込まれただけなんだから大丈夫だよ」
「アイスも?」
「どうだろ。ま、何があっても身一つだから、簡単に姿を——イテっ!」
「消える気でいる?」
「……怒ってる?」
「施術に感情を入れるようなことはしない。もう少しやさしくするね」
「お、お願いいます……」
「危なくなったのなら隠れてほしい。捕まって罪を償ってとかいうのは、アイスの判断でしてくれたらいい。けど、黙って消えられたら腹が立つ……よりも、悲しすぎる。突然の別れとか、もうしたくない」
二時間前に談笑していた仲間の冷たくなった身体を見つけ、五時間前に簡素な食事をともにしていたリーダーが拉致されて行方がわからなくなり。
別れは突然くるものと理屈でわかっていても、いきなり失う虚無感をこの国に逃れてきてまで繰り返したくなかった。
施術に感情を入れないと言いながら、患部をほぐす手が、怨嗟を練り込むように動いてしまう。ほかの利用者になら、こんなざまを見せたりしないのだが……。
アイスが伏臥で施術を受けているせいもあった。こちらの顔が見えないので、気が緩んだかもしれない。グウィンは気を落ち着けようと、いったん手を離した。
「心配してくれる人がいることに慣れてないの」
アイスが、ぽそりとこぼした。顔を伏せたままでいるのか、声が少しくぐもって聞こえた。
「いまはいるよ?」
「うん、わかってる。身を隠すにしたって煙みたいに消えたりしないから」
「そういうことにしておく」
「信用ないなあ」
グウィンを巻き込む気配が微塵でもみえた場合は除く——という注釈つきなのだ。
採算度外視のケアサービスをしてしまうのも、アイスがそういう人だからだった。
思ってくれる人への借りは、その人が目の前にいるあいだに返して、貸しにしてやりたい。そうすれば、忘れずにまた……
グウィンは妥協して、施術を再開させた。
「アイスは中年太りしないよね。基礎代謝を維持できてるんだ」
「老骨をムチでしばきまくる運動量のせいじゃない? これから、ふっくらしてくるかも」
「ゆっくりするの?」
「仕事を辞めるの?」とは訊きづらく、遠回しな言葉になった。
「ゼイタクしなきゃ、この先四〇年ぐらい余裕で<美園マンション>に泊まっていられる蓄えはある。施術費は心配しなくて大丈夫だよ」
「浮気しないで、ずっとあたしの施術に通ってくれてたから、わかるんだけど……」
「ん?」
「筋肉が痩せてきてる。もう無茶しないで」
「無茶した結果が肩の捻挫だもんね」
「でもまあ、仕事の第一線から離れる歳でこの身体はすごいよ。筋肉に柔軟性があるし、関節の可動域も大きい」
「ランチおごってあげる」
「悪いことも言うけど、ランチとりあげないでね」
「穏やかな表現でおねがい」
「アイスの左足の不調は、加齢の影響が大きいと思ってた。下腿部挫傷は初期のうちからリハビリを続けてもらってたし、あたしの腕だって、そんなに悪くはない自負もある。本来なら、痛みや膝のダメージは治ってるか、もっと軽くなってていいはず。それを年齢のせいにしてた」
「そうじゃないの?」
「筋肉がやわらかいとは言ったけど、首や肩のあたりだけ漬物石さわってるみたいなんだよ」
「どういう例えよ」
「比喩じゃなく本当に温度が低くて、硬い。つまり、それだけ酷いってこと。緊張やストレスが強い仕事をしてるせいとするのは正解だけど、それだけじゃないはず。ありきたりな理由だけど、人間関係なんだろうなって」
「…………」
「心のうちに秘めているつもりでも、身体に出てくるもんだよ。スピリチュアルってわけじゃなくて、ふれてる
「顔になら出さない自信があるんだけどなあ。他人との関係なんて気にしない、自己中心人間のほうが楽に生きられるんだろうね」
「アイスがそんな人だったら、積極的にケアしようとは思わない」
「あたしと一緒にいて苦にならない?」
「…………」
「え? 答えにつまるっていうことは——」
「違う、違う! そんな質問するアイスの意図がわからなかったの。わかりきったこと……あ、ちゃんと言葉にしないと不安になる人だった?」
「ちょっと考えてることがあって……これからのこととか」
「人生相談に応えられるほどのスキルはないけど、聞くだけならいくらでも聞くよ? 人に話してるうちに考えがまとまることだってある。ムダにはならないよ」
「今日は夕方まで予約ないって言ってたよね? 話の続きはランチのあとでどう?」
提案されてはじめてグウィンは触知式腕時計にふれた。
正午すぎに始めたはずが、すでに午後一時をすぎていた。アイスと話していると時間を忘れてしまう。
これだけでも質問の答えを表しているのだけれど。
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