9話 整体師の返報

 しきりに何かが靴先にぶつかる。

 アイスと末武がやり合った診療所内は、壮絶な散らかり具合になっているらしかった。

 ひとの仕事道具を粗末にできない。グウィンは、うっかり備品を踏んでしまわないよう、すり足で歩をすすめた。

 出先からドクターが戻ってきて、末武が手術を受けていた。アイスはそのまま処置室で順番待ちの状態。おとなしくしているというより、精魂つきはてた様子がうかがえた。診察ベッドに座り込むと、そのまま動かなくなった。

 勝手知ったる診療所。グウィンは取ってきたタオルを手渡して訊いた。

「横にならなくていいの?」

「横になったら二〇年ぐらい起き上がれない気がして」

 声が弱い。丸くなっている背中にふれたグウィンは、アイスの肩に保冷剤を当ててねぎらった。

「寝ると処置で起きるときが億劫だもんね」

 屋上には警官が来ているだろうが、診療所にまで入ってくることもない。公式の<美園マンション>では、地階はないことになっていた。

「ありがとね。今回はグウィンにたすけてもらってばっかりだった」

「うぅん……ちょっと違うかな」

 ちゃんと話したくて座ろうとしたが、ここのスツールは座面と床の色が似た色で、わかりにくいことを思い出した。

「ああ、ごめん。誘導したいけど腕を動かすのがつらい」

「いいよ。立ったままのほうが保冷剤を固定しやすい」

 アイスはこういうところに実によく気がつく。観察眼が鋭いことも職業柄必要だったのだろうけれど。

「さっきの話、気分的にはあたしもアイスに救われた。国でやってたこと投げ出して逃げてきたじゃない? すごい役立たずで身勝手やった自己嫌悪がまだ残ってる。誰かの役に立ったと思えると、気持ちが楽になるんだよ」

「助けようとしてくれるグウィンの気持ちは嬉しいけど——」

 アイスの声音が低くなった。

「屋上に戻ってくるなんて暴挙だよ? ミオまで一緒だったし」

 じとりとした目をむけてきた。正しくは、向けているんだろうなと感じた。見えなくても、呼吸や話す抑揚で表情はわかる。グウィンはすまして応えた。

「下りようとしたんだけど、エレベーターの箱が全然上がってこなくて。足が止まっている間に、ミオも考え直したんだと思う。怜佳さんが心配だから引き返そうって、ミオから言い出した」

「そこでとめてよ。怜佳さん、爆発物もってたんだよ?」

「アイスが残っている限り、使わない気がした」

「そういう人ではあると思うけど……具合的な根拠は?」

 訊くというより詰問に近い声になった。

「左足のダメージで、アイスはダッシュとかできない状態だったでしょ?」

「少し走るぐらいならいけた」

「でも怜佳さんは、その程度じゃ避難するには不十分だと思ったはず。遮蔽物に隠れさせるにしても、美園の屋上でその役割が果たせるものなんて、ほとんどないし」

「とはいっても、ないから起爆させないってことにはならない」

「怜佳さんの銃、弾が入ってなかったんじゃない?」

「さすが、よく聞いてる。あれは荒事をおこす気がないから弾を入れてなかったんじゃない。爆破させること前提で、当てるのが難しいハンドガンは威嚇用に持ってただけってことかもよ?」

「怜佳さんの目的は報復じゃなくて、怒りを表明すること——っていうのが、あたしの勝手な推測。もしかしたら、怜佳さん自身もどうするか決めかめて、出たとこ勝負してたかも。

 あたしには怜佳さんより、アイスの仕事仲間のほうを警戒してたよ? 暴力に麻痺してる人たちなんだから」

 アイスの望みでも、グウィンは屋上から出たくなかった。

 唯一、味方になりそうな怜佳の最優先はミオだ。本当に爆破させる気があるなら、アイスの安全を犠牲にすることも考えられる。アイスを孤軍にさせたくなかった。

 それでも屋上から出たのは、一緒にいるとアイスの負担を増やしてしまうことがわかっていたからだ。

 たまたま出会った整体師をたすけるために、足に故障をつくるような無茶を——故障として残ったのは歳のせいだと言い張って譲らないが——またやらないとも限らなかった。

 アイスの意思をくんだものの、ミオが「戻ろう」と言い出したのは願ってもないこと。すぐにのった。グウィンの脳裏には、犠牲になった仲間の亡骸が残り続けている。そこにアイスが加わるかもしれないという怖れがあった。

 悲惨な状況はもう見たくないと思ったが、離れていて知らないうちに、そうなることも厭だ。

 視認できないだけに、存在をはだで感じられる安堵を欲した。

 配管につかまったアイスが九死に一生を得たときも同じで、事実を聞いただけでは安心できなかった。

「それにしても、末武に追い詰められてたときに来てくれたのは、虫の知らせでもあったの? 何たって『あの美園マンション』だし」

 アイスの安全が確保されたことを感じる時間が足りないまま、ランドリールームで分かれてしまった。そこに覚えのある胸騒ぎがおこった。

 そこは端折って、グウィンはわざと軽い調子で話す。

「そっちは単純に不安だったんだよ。ランドリールームから診療所にいくとき、酔っ払ったペンギンみたいな足音だった。無事にたどり着いたか気になって見にいったら、アイスをたすける結果になった」

「スンさんが支えてくれたんだし、そこまで酷い足取りだったわけじゃ……」

 言いつつ自信がなくなったらしい。

「そこはいいとして」

 話を雑に切りかえられた。

「グウィンが屋上に戻ったのは、あたしを心配してのことだけ?」

「なぜそう思うの?」

「ディオゴにやり返す気があったのかなって」

「よくわかったね」

 隠すことでもない。あっさり認めた。

「ディオゴの背骨を折りそうな勢いのあるボディブローだったから。仕返しっていうより、お礼参りって言ったほうがしっくりくる」

「うん。一発ぐらいは殴っておきたかった」

「グウィンの手は大事な商売道具でしょ。そんなことに使わないで」

「アイスの長年の相棒だった人を殴るんだし。あたしなりの敬意をしめして」

「イヤな敬意だこと」

 素っ気ない応えの端にうかんだ声音は……

 言葉はつっけんどんでもわかった。グウィンのイメージ映像に、やわらかい微苦笑をうかべるアイスの顔が映し出される。

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