8話 愚直者の思い

 左足の故障の痛みは勢いを盛り返し、右肩は脱臼が再発。左肩も炎症をおこしている。

 いったん落ち着いたせいか脳内麻薬も働いてはくれず、アイスの身体でまともに動くところは、ほとんどないといってよかった。

「すぐ終わらせたりしたら、つまらないですよね」

 末武が外科器具を収納したワゴンを物色する。目当てのものを見つけたのか、ハンドガンのマガジン弾倉を抜き、スライド遊底を引いて薬室の弾も排莢した。

 完全に使えなくした銃を捨て、外科剪刀せんとう(ハサミ)をつかみ出した。一つをアイスの足元に滑らせてよこす。

 ふらつく足で立つアイスに、両極端の気分が入りまじった。生き残れる確率が残った希望が半分、もう半分は悲観。

 銃なら一瞬で決着がつくかもしれなかった。やられる側になったとしても、苦しむ時間は少なくてすむ。

 しかし、道具は刃物になった。

 末武とのあいだで実力差がないとしたら、しかも外科用の剪刀で争うとなると、小さな傷を重ねて致命傷に追い込む泥沼になる。倒すのも倒されるのも楽にはいかない。

 アイスは末武の動きを追いつつ、細部を注視する。

 末武の左肩が濡れているように見えるのは、一太に撃たれた出血によるものだ。

 黒スーツにダークカラーのシャツを着ているせいで、出血量がわからない。目の動きも足取りもしっかりしている。失血によるダメージは、あまり期待できそうになかった。

 開始の合図はない。末武が一気に間合いを削る。

 アイスはそばのスツールを蹴った。床をすべらせ、末武の足元へ。たいした障害にならない、秒単位の時間稼ぎ。

 そのあいだに点滴スタンドをとった。片腕で支柱パイプを横ぎする。

 側頭部を狙ったつもりが、炎症をおこしている左腕では力が入らない。スタンドの重量を操りきれず、末武の右ボディに流れる。あっさり掴まれた。

 剪刀は右手に握っているだけだった。

 足も肩も思うように動かない。

 剪刀の間合いで戦っては、こちらが串刺しにされる——

 とはいえ、ほかに使えそうな武器もなかった。処置室にあるのは、左手一本では扱えないドクターチェアやワゴンカートといった備品か、投げつけてダメージを与えるには小さすぎる器具ばかりだ。

 奪いとったスタンドを放り出した末武が、ゆっくり歩み寄ってくる。

 表情には、嘲りも、追い詰めている残虐な笑みもなかった。アイスがこの危機をどう切り抜けるのか、貪欲に観察する目だけがある。

 手がなかった。

 痛みが存在を主張する左足では、洗浄液のある流しが一万光年離れた場所にみえる。

 末武との間合いがなくなっていく。アイスは距離をとろうと、処置室のなかを後退あとじさる。出入り口の方に近づいた。

 歩くたびに左足からの痛みが全身を刺す。脂汗がうき、呼吸が荒くなる。出口のそばまできたが、ここから走って逃げ出すのも無理。さて、いよいよ……

 ——⁉︎

 あまりにかすかな音で、空耳かと思った。

 他人事のように考えるアイスの耳に入ったのは、いるはずのない人間の声だった。

 数瞬迷う。

 けれど、巻き込みたくなくても頼るしか道がない。

 アイスは突として身をひるがえした。

 出入り口のドアに向かってダッシュ。軋み折れそうな左足から意識を切り離して動いた。

 倒れ込むようにしてドアを開ける。受付ロビーに文字どおり転び出た。

 息が切れて声にならない。転んで床に這いつくばったまま、剪刀を右から左手に持ちかえた。

 忙しない急テンポで床を叩く。金属とモリタル床がぶつかってたてる硬質な連続音が廊下に響く。

 小さな音でも、さすがに苛立ったか。末武が声をあららげた。

「タップのつもりか⁉︎ 逃げてないでかかってこいよ、佐藤アインスレー!」

 外科剪刀を下方向への突き刺しに有効な、アイスピックグリップに握りなおす。

「この程度で終わりにさせるな、おれを幻滅させるな!」

 反撃を期待するように、大きく右手を振りかぶった。

「アイスっ‼︎」

 今日一日ですっかり汚れたケーシー白衣が、廊下の角から現れる。

 グウィンが、手にあった白杖を床にそわせるアンダースローで投げた。

 アイスの剪刀がたてた音にむかって、白状が床を滑ってくる。

 しかし廊下の反響で位置をつかみづらかったのか、アイスがいる位置からずれた。意図を察した末武が阻もうとする。

 アイスも跳ね起きる。が、二歩目の左で膝から崩れた。

 その身体を飛び越え、末武が白杖へと殺到する。

 末武の手が白杖へとのびた。

 その先で、白杖が受付カウンターに当たって跳ね返った。イレギュラーな軌跡を描いて、末武の手をすり抜ける。

 アイスは膝をついた体勢から左手をのばす。頭からダイブして起死回生の武器をつかみとった。

 白杖を拾いあげた動きをとめないまま身体を反転する。

 末武へと振り向きざま白杖を横に薙いだ。

 グウィン愛用のスチール・スティック鋼の白杖が、風切音を鳴らして末武の足を襲う。

 自分の足元は視界に入りにくい。回避が遅れた末武の左下腿部に、骨を砕く勢いのスチールが喰らい付いた。

 声にならない悲鳴をあげて、末武が倒れ込む。

 アイスは膝立ちでスティックを振り上げた。側臥位横向き寝で倒れている末武の頭へと振り下ろし——

 途中で軌道をかえた。床を叩いた。

 末武のスーツで擦られた床に、べったりとした血の痕跡が残っていた。

 末武が幽鬼のように、ゆらりと上体を起こした。ふらつきつつ立ち上がったものの、すぐに膝が崩れる。床に倒れ込んだ。

「末武……?」

 アイスは乱れる息の間から呼びかけた。

 反応がない。末武の手から、剪刀がこぼれたままになっている。

 アイスはぐったりした末武を仰向けにし、スーツの前をひろげようとした。

 黒ジャケットとダークカラーのシャツが、さらに黒く濡れ、末武の身体に重くはりついている。上衣で吸い込み切れなかった大量の血液が、スラックスまでぐっしょり濡らしていた。

 そばにきたグウィンが、すぐに血臭の濃さに気づいた。

「ドクターはどこ⁉︎」

「悪いけどスンさん呼んできて備品室に避難してる、早く!」

 グウィンに白杖を手渡して頼んだ。

 正面から見下ろした末武の顔は蒼白く、冷や汗が流れている。

「目を開けろ、末武! あたしがわかる⁉︎」

 頬をはたいたが、うつろな目で、ぼんやりした表情を返すだけだった。

 首に指をあて脈を確かめる。弱く早い。呼吸も速くて浅い。ショック症状が出ていた。

 なんという愚直。

 動けるのだから、屋上からそのまま逃げればよかったのだ。この診療所でなくても、闇治療を引き受けているところは他にもある。処置を優先させるべきなのに。

 この機を逃せば、潜ったアイスを見つけられなくなると考えたか。ただ決着をつけるためだけに診療所に来た。

 それだけではなかったかもしれない。

 失血のダメージが大きく、残された時間を悲観して焦ったのかもしれなかった。助かったとしても、後遺症があらわれることがある。

 この愚直さも、つくボスが違えばいい方向に発揮させて、まともな仕事で生きていけた——と考えるのは野暮だった。末武が思う最適の仕事は、末武でしか選べない。

 末武のまぶたの下の瞳が動いた。

 アイスの表情をみてとり、かすれた声で言う。

「同情ならごめんです。ここに寄り道したこと、後悔なんかしてません。弱そうなくせに古参でいる、佐藤アインスレーの本当の姿を見たかった」

「それで話が長かったの?」

「姑息な手段で生き残ってるのなら、化けの皮を剥いでやるつもりでいましたよ」

「化けの皮をかぶってるほうが正解だ。剪刀をあたしにも渡した末武と違って、あたしは友人が大事にしてる道具を利用して、末武に反撃した。これまで生き延びてきたのは、この狡さがあるゆえだよ」

「ああ、そうですよね……あの白衣は、あなたを気にかけて駆けつけてきた。そこまで気にさせるものを白衣にうえつけておいたんです」

「お手のものだよ。<ABP倉庫>の人間関係を調整してただけはあるでしょ」

 末武の意識をここに引きとめようと、悪役台詞を気どった。

「そういえば、このあたりの人間は……こんなときのために恩を売って、非常時に用意しておくっていう……いや、佐藤アインスレーは案外そんなこと……」

「サトーさん、場所あけて!」

 救命救急バッグを手にしたスンが駆け寄ってきた。血の臭いで出血量を判断したグウィンが、先に伝えてくれたようだった。

「地面の下にあるから『冥土診療所』なんて呼ぶ人もいますけど死なせません! 絶対たすけるから、あなたも頑張って!」

 複数の慌ただしい足音が近づいてくる。スンも備品室のなかから警備員室に電話をかけていた。

 駆けつけた警備員たちが、看護師の補助にはいる。

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