7話 痺れるようなこの瞬間

 夜間の地階診療所では、警備員が受付カンターを兼務している。顔馴染みの警備スタッフが、アイスを見るなり呆れがまじった笑顔をむけてきた。

「今度はどこやられたんだ?」

 ゴールはもうすぐ。少し復活したアイスは微苦笑をみせた。

「楽しそうな顔して訊かないで」

「実はサトーさんがケガしてくる箇所を賭けてる」

「胴元に伝えといて。こっちにも賭け金まわせ」

 警備員の笑う声を背にして処置室にむかった。

 ここにくるまで、人の目に残らないよう平静を装った。脇に立つスンも、目立たないよう気を遣ってくれた。処置室にたどり着いて気が抜けた途端、我慢が切れる。崩れる落ちるようにイスに座った。

 警備員が笑っていたとおり、生死に関わる怪我ではないものの、痛みと倦怠感で気絶したかった。

 さっそくスンが用意にかかる。

「おつかれさま。シャツは脱げそうですか?」

「安物だから鋏で切ってくれていいよ」

「貧乏性の罪悪感が騒いじゃって」

「腕を動かすのがつらい——って言った方がいいかな?」

「それじゃ失礼しますね」

 思い切りよく、さくさく切っていった。

「ドクター、まだ戻ってきてないんだね」

 受付カウンターのほかに、人の気配がなかった。

「宿泊客同士のケンカで呼ばれたんですよ。刃傷沙汰とかじゃないみたいですから、それほど時間はかからない——」

「止まれ! 勝手に入る——」

 スンの答えと警備員の警告が重なる。

 一拍遅れて銃声がふたりの声をかき消した。

 さすがはスン。<美園マンション>の地階診療所で働いているだけはある。反応したのはアイスと同時で、フリーズすることもない。銃声を聞いた瞬間で、床まで身を伏せていた。

 低い姿勢のまま、アイスは看護師に言った。

「備品室に隠れて」

 覚醒剤原料をつかった薬品類も保管してあるので、ドアには頑丈な鍵がついている。パニックルームとしても使えるよう内側からも施錠でき、ドアはスチール製。拳銃弾ぐらいなら十分防げる仕様になっていた。

「サトーさんも——」

「スンさんに何かあったら、あたしはドクターの治療を受けるハメになるでしょ? そうならないために絶対に護るから、音を出さないでね」

「自力で歩けなかった人が何を言って——だめ、サトーさん!」

「あたしを助けてくれるなら、すぐに鍵をかけて」

 強引に押し込んで備品室のドアを閉めた。

 一般非公開の診療所に、押し込み強盗が来ることはない。乱入してきた人間の目当ては患者になる。アイスが外にいれば、スンは無事なはずだ。

 備品室のドアを閉めたタイミングで処置室のドアがあいた。

 黒スーツの男が入ってくる。



 末武は、目当ての人物の姿を認め感心した。

「おれの目の前にいるのは幽霊じゃないんですね」

「ナマだよ。疲労困憊、百孔千瘡ひゃっこうせんそうのボロボロだけどね」

「悪運の強い人だ」

「そうだね。屋上から墜っこちたのに、まだ生きてるんだから」

 淡々と応えるアイスに首をかしげた。

「雰囲気が変わっているように思えるのは気のせいですか?」

 明るい屋内で、はっきり見える表情は……

「そうか」末武は得心した。

「笑ってないんだ」

 いつものお気楽な薄い笑みがなくなっていた。

「どうやってここに入ったの? こっそり合鍵でもつくってた?」

「地階用の階段室に入るドアの鍵のことですか? 開いていました。管理が杜撰になったもんです」

「改善要求出しとくよ。で、あたしにわざわざ会いにきた用は? ボスの仇討ち?」

「それもありました」

「過去形になったんなら早く逃げろ。警官が来ててもおかしくない頃合いだよ。かたきにかまってるうちに逃げるのが難しくなったらバカらしいでしょ」

「麻生嶋ディオゴは父親も同然でした」

「<ABP倉庫>は〝家族〟なんかじゃない。入れ込みすぎるな」

「創業者のひとりのくせに言うことが変わってますね。<ABP倉庫>をまとめていたのは、あなたといってもいいぐらいだったのに」

「〝家族〟を利用した覚えはない」

「ええ。そうでしたね」

「家族になる」という台詞を積極的に使っていたのはディオゴだった。

 新人の若者をリクルートするとき、家庭環境に恵まれなかった人間を狙うことが少なからずあった。彼ら彼女のなかには、家族という絆に夢を抱く者もいるからだ。

 血縁家族の代わりに仕事仲間を疑似家族にし、精神的安住の場にさせる。疑似家族にすることで忠誠心と結束をつくった。

「ABPはこれからどうなるかわからないってこと前提で、適切な判断をして。でないと後悔することになる」

「おれの後悔になりそうなことは、退場するかもしれない佐藤アインスレーを何もせずに黙って見送ることです」

「この怪我じゃ、もう退場したようなもんだ。何をされても応えられない」

 末武はかまわず続けた。

「おれは佐藤アインスレーの好敵手になりたかった。そいつがかなったのか確かめたい」

「かつてない高評価もらったかも。で、それを確認してなんになるの? ギャラを上げる根拠には、もうできないよ?」

「自己満足で終わってかまわない。客観的な結果がみたいだけです」

「報酬が発生しない争いなんて、体力の無駄遣いでしかない。あたしは末武と違って電池切れ寸前なの。そんなのに勝って意味ある?」

「ハプニングがおきない仕事がありましたか? 怪我でも想定外の展開でも、こうして生き残ってきたのが、〝アイス〟と呼ばれた、あなたの強さだ。そこを見るなら、いまが絶好の機会といえる。先延ばしはごめんだ。次があるかわからない機会を待つ気はありません」

「どっちが上かなんて極めてどうでもいい。けど末武は、そこにこだわりたいわけか」

「話に付き合わせておいてなんですが、そろそろ実技といきましょう。ふたりだけで話せてよかったです」

「やる前から勝負が見えてる気がする。けど——」

 アイスの口角が不敵にあがった気がした。

「楽には殺させないよ?」

「それでこそ、おれの望みです」

 背中をぞくぞくしたものが駆け上がる。痺れるような陶酔を感じながら、末武も同じ笑みで返した。

 常人には理解不能だろう、こんなことに肚の底からの歓喜がわきあがってくる。

 末武は、いまの瞬間が最高だと思う。

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