2話 入魂の一声
アイスが
グウィンは、ミオから聞いた言葉の意味をしばし咀嚼できなかった。
気絶する、白状する、ついていたものが取れる……関係がない「おちる」ばかりが頭をよぎったのは、事実として受け入れたくない抵抗だった。
つらいものは、これ以上見たくない——。
その思いがかなう形で視力のほとんどを失った。。アイスが屋上から墜ちたというなら、その死に姿を見ないですむ……。
しかし、あのしぶといアイスが簡単に死ぬはずがないという思いも強い。
身体に故障をかかえ、さらに加齢で体力を落としながらも、危ない仕事で生き残っている。パラペットを乗り越えたぐらいじゃ死なない非常識も望んでいた。
ミオの足音を追い、パラペットまで来た。
「動いちゃ駄目! そのままじっとしてて!」
ミオが下方に向かって叫ぶ。
ということは、アイスは墜ちてはいないのか? どういう状況になっているのか。
グウィンは、パラペット越しに上体をのりだした。壁面沿いにあがってくる風にあおられながら目をこらす。見ることから逃げたくせに、視界をさえぎる白く濃い霧を見透かそうとした。
「いま助けがいく! あきらめないで! 頑張ってみせてよ‼︎」
切迫していくミオの声に、アイスが陥っている状況がみえた。
堕ちてはいないが、堕ちそうな状態になっている、もしや意識をなくしかけている?
視覚情報がないと想像が頭を占拠しようとする。前言を訂正したい。
見えないことが、つらかった。
不安が的確な判断を歪め、悪い方へと考えてしまう。アイスから返ってくる声がないことが、奈落にひとりでいるような心細さになった。
もしかしたら、このまま永別するかの瀬戸際になっているのかもしれない。
グウィンは、どこにもいかせまいと息を大きく吸い込む。
にぎにぎしい声がする……。
アイスは顔を精一杯、上にむけた。
濁った空気で星が見えない夜空を背景にして、ミオと怜佳がパラペットから身を乗り出して叫んでいた。ふたりの声が重なって、何を言っているのか聞き取れない。
こちらを心配してくれているのはわかったが、本人たちも気をつけるべきだ。
パラペットが低くて危ないからミオを下がらせてほしい。っていうか、怜佳さん、パイプ爆弾いつまで持ってるの? 起爆装置とか処理したの?
グウィンまで覗き込んでこなくていい。あなたがいちばん危なっかしい。
いろいろと言いたいことはあったが、喉から声が出なかった。貧血でも起こしているのか、気を抜くと視界が暗くなる。年甲斐もないアクションの連続で、すでに限界を超えていてもおかしくなかった。
なにしろ現在進行形で重力に逆らっていた。体勢を維持できていることが我ながら不思議だ。
命綱は、外壁を這う配管。
左腕と右足をからませ、しがみつく姿は、はたから見れば無様だろう。これほどまでに生き汚いとは、アイス自身が予想外だった。
パラペットからディオゴもろとも中空に躍り出たあと。
ディオゴはアイスから手をはなし、泳ぐように両腕で空気をかいた。そうすれば屋上に戻れるというように。
瞬刻にも満たない時間のはずなのに、アイスはスローモーションでその様子を眺めていた。
最期に見る光景がコレとは、なんとも自分の人生らしい……と思った矢先、ガンッと骨の髄まで響く衝撃を受ける。
ぶつかった出っ張りに、とっさにしがみついていた。
はじめは両手両足を使ったが、右肩の激痛ですぐ左手だけになった。左足の力もあっという間に溶け出し、右足だけが絡まる状態になる。
アイスは左腕に右足という心もとない体勢で、太い配管にしがみついていた。
ディオゴの悲鳴はすでに遠ざかり、足下で途切れていた。
遠くの地面へと視線をやる。暗い空間が広がっているばかりで、よく見えない。
その暗さと静けさが心地よさげに見えた。
すっと眠れて、悪夢をみることなく、ぐっすりと休めそうな……。
ご褒美が用意されたのかもしれなかった。ロクでもない方法で〝
そして、ラストで少しだけ納得の仕事ができた。ミオや怜佳の助けになれたかもしれないと思うと、気持ちが軽くなった。
もう頑張らなくていいか……。
ミオの声を遠くに聞きながら、じんわりと安堵がひろがった。
同時に腕の力も抜けていく。
身体が重力に素直に従い、墜ち始める。
心残りがあるとしたらグウィンのことだった。こんな汚い稼業の人間とずっと付き合ってくれたのに、一言の礼も言わないまま——
「アイスっ!」
感謝を言葉にしないまま逝こうとした仕打ちか。グウィンの声が呼び止めてくる。
それは、初めて聞く大音声だった。
「年金受けとるまえに死んだらダメでしょ‼︎」
穏やかに逝こうとしていたのに、なんてこと言うんだ。
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