六章 くだらなくも大切な
1話 見えない顔、見せない顔
失った視力に、グウィンはすでにあきらめがついていた。
あきらめきれないことがあるとすれば、たすけてくれた人の顔を見ることができないことだけだ。
何度でも思ってしまう。
アイスの顔を見てみたい——。
故国から逃れ、異国の街での暮らしにも慣れてきた頃。
グウィンは視力のほとんどを失った。
見えなくなることは大きな喪失だ。人は知覚する情報の八割、コミュニケーションにおける情報の五割を、視覚情報から得るとされている。その大半をなくしたグウィンの生活は、生まれた国にいたときとは別の苦難をもたらした。
生活の不便だけではない。努力しても足掻いても、どうにもならないことにもてあそばれて抜け出せない。生きる場所をかえても、また同じことが繰り返されている空虚感。
白杖をまだ使いこなせていないというのに、グウィンは苛立ちのまま徘徊した。
じっとしていると、本当に何もできなくなったようでつらかった。目的もないままひたすら歩くうち、電機や機械工具の個人商店が多い地区に入っていた。営業時間が過ぎた途端に人通りがなくなるエリアだ。
当時はまだ、針先や文字盤に触れて時間を確認する触知式腕時計を持っておらず、時間の感覚も鈍かった。
深夜になっていたうえ、裏道を歩いていたグウィンは、強盗に遭う。
こういうときのための財布をグウィンはあらかじめ用意していた。少なすぎない程度の金を入れておき、わざと奪わせて退散してもらうためのアイテムだ。
治安がいいとはいえなかった故国での習慣がクセになり、無意識のうちに持っていた。
持っていたのに、このときのグウィンは、財布を出さずに手を出した。このまま殺されてもいいという諦観の隙間から、わきあがってきたものがあった。
白杖を持っている人間をナイフで脅す、卑怯者への義憤だ。
うっすらと見える視界に映る人影は大きかったが、恐れはなかった。これまで、もっと絶望的な状況の中で戦っていたのだ。
しかし、かつて戦っていたときと今とでは状況が違いすぎた。
グウィンが見る世界は白く、ぼんやりとしたもので、それも顔のまえだけの狭い範囲でしかない。手にあるのは鋼の武器ではなく、頼りないアルミ製の白杖だけ。
その白杖すらも奪われ、どこかに投げ捨てられた。
抵抗した代償に、いいように殴られた。
足がふらつく。ナイフを捌こうとした手を切られ、左手に力が入らなくなった。
これだけの怪我ですんでいることが奇跡だ。それでも頑として財布を出さないグウィンに焦れた強盗が、強盗殺人犯に変貌する気配をみせる。
ここまでかと思った。
その反面で悔しくてたまらない。逃げて助かるより、相打ちになってでも腕の一本ぐらい奪ってやりたかった。全神経を強盗に集中させ、反撃のきっかけをつかもうとする。
そのさなか、不意に強盗のシルエットを見失った。
どこからくる? 身構えるグウィンの耳に入ったのは、すぐそばで上がった強盗の短い悲鳴だった。
さらにシャッターにぶつかる音や、低く鈍い音や声が何度かしたあと、通りは再び静かになった。
あたりに目を凝らしてみる。
グウィンの視界に、ひとりぶんのシルエットが入ってきた。グウィンとあまり変わらない身長しかない。まさかこの人が助けてくれたのか? 礼を言うより先に訊いてしまった。
「あの……強盗は?」
「そこで寝てる。こいつやっぱり、そういう輩だったんだ」
「倒したんですか? あなたが⁉︎」
女性の声で驚いた。おそらく同年代か年上。
「悪党がのびてるいまのうちに……ん? もしかして」
「まったく見えないわけじゃないんですけど、白杖をとばされてしまって」
「ああ……あった」
離れていった足音は、すぐに戻ってきた。
「けど、酷く曲がってる。連れの人はいないの? だったら西でも東でも、二〇メートルも行けば大きな通りに出る。そこで車でも拾って」
「待ってください」
「冷たいようだけど、あとは自分でなんとかして」
「こんなところに視覚に問題がある人間をおいていくな——という意味で引きとめたのではありません。足を怪我してませんか?」
去ろうとしていた女性の足がとまった。
「足音が左右で不均衡です。強盗を相手にしたとき、怪我をされたんじゃないですか?」
「左足をちょっと蹴られただけ。どうってことないから、気にしないで……ちょ!」
「失礼します」
どうでもよくない状態を「どうってことない」ですませようとする人は多い。
グウィンは声のする足元にひざまずき、右手で膝下から足首まですべらせた。ふくらはぎが腫れていた。
「強い痛みや熱っぽい感じはないですか?」
「…………」
痛いのだな。
「筋挫傷だと思います。わたしの部屋にいきましょう。早く冷やさないと」
「いい。帰ってからやる」
「わたしの部屋ならさほど離れていません。早い段階で安静にして、適切な処置をすれば、腫れや痛みを最小限にできます。お仕事に支障がでると困るでしょう? それに、怪我は足だけじゃない」
「本当は見えてる?」
「血の臭いがしますから」
「女の出血は怪我だけじゃない」
「ええ。でもその血のにおいじゃありません。先にその怪我があるのに強盗の相手をしたから、足に痛手を負うことになったんでしょう?」
「あたしのことより、自分の怪我の処置を早くなさい。あんただって片手じゃ仕事に差し支えが出るでしょ?」
「ええ、整体師です。早く処置したいので、わたしの家まで誘導をお願いします」
「いや、だから——」
「あ、リハビリが必要になったら任せてください。施術料はけっこうです」
「強引だね」
「あなたのことを詮索したりしません。なぜ助けてくれたのかも。話してくれるのでしたら、もちろん聞きたいですけど。せめて応急処置ぐらいやらせてください」
日常生活を円滑にするため、家の周辺は結構な距離を歩き回って地理を把握してあった。時間はかかるが、白杖がなくても帰れないことはない。
しかしグウィンは、助けてくれた女性とこのまま別れたくなかった。
圧倒的な体格差がある男を相手に、怪我を負わされたとはいえ倒している。いわくありげな様子だが、それをいえば自分だって、過去の全部を話せるわけでもない。
つながる相手を求めていた。
これまでのことを忘れたくて、縁もゆかりもない地にきた。故国の仲間に連絡先はおしえていない。そのくせ、誰かと話したかった。
ひとりでいると思い出したくないことばかり頭にうかんでしまう。
一晩だけでもいい。過去のことではなく、いまのことを、これからのことを思って話す相手がほしかった。
佐藤アインスレー。
強引に引きとめたことをきっかけにして、彼女の名前を知った。
仕事のことは、はっきり聞かなくても、それとなくわかった。過去のグウィンと似たところがあるニオイみたいなものを感じたし、施術でふれたアイスの身体で確信になった。
彼女の仕事ゆえに「佐藤アインスレー」は偽名かもしれない。真実の名前は知らないままでも気にならなかった。
ただ、顔は見たかった。
アイスの仕事柄なら、存在をひとの記憶に残さないために、見て見ぬふりで通り過ぎて当然だった。人通りがなく、当人以外に見られる心配がなかったから、気まぐれをおこしただけなのか。あるいは、アイスの人となりの真の姿は……
その人の真実は顔にあわられるとグウィンは思っている。
なぜ強盗から助けてくれたのか。教えてもらえなくても、アイスの顔を見ればわかるかもしれなかった。
はっきりと見ることがかなわない目が、このときだけは残念でしょうがない——とアイスに話すと笑われた。
「グウィンの好みの女にイメージしといて。そしたらあたしは、グウィン限定の美女になれるから」
彼女は真実をみせてくれない。
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