5話 愚者の答え
アイスは、視界の端で一太をとらえた。
胸中で歯がみする。背後にいたのに気づけなかったなんて間抜けがすぎる。集中を散らす左足の痛みは言い訳にならなかった。
ずぶ濡れになっている一太の足は、アイスが湯をぶちまけた後の応急処置だ。魔法瓶の湯は入れてから時間が経っていたから、温くぬなっていてたと思う。
それでも多少はダメージがあるらしい。
時間をおいて火傷の痛みが増してきたのか、呼吸が少し乱れている。そのせいで、ダブルハンドで構えている一太の銃口が、いささか不安定になっていた。どうにかディオゴに照準した姿勢をキープしている状態。
ディオゴが、配下のひとりに冷たい視線を返した。
「なぜおまえがここにいる、一太」
その視線と声で、一太の思いは決まった。
安定を欠いていた照準が落ち着いてくる。初めてにして最後になるだろう本心を伝えた。
「命令されていないのはわかっている。それでも、高須賀未央を連れ帰るのは、おれの役目だと思っていた」
「結果はその有様というわけか」
ディオゴの目が、濡れてはりつくスラックスを一瞥する。
「功を焦ったな」
「ほかに言うことは?」
「勝手な行動のあげく、おれに銃を向ける理由を聞いてやらんでもない」
いまさら、ねぎらって欲しいわけでもないが、一太がミオの件に関わろうとした理由を一顧だにしないとは……
「銃をおろせ、一太。ほかの誰でもない、おまえだ。いまならまだ見なかったことにしてやる」
一太は、ひとつ重い息を吐く。
「なんでおれの父親があんたなんだろうな」
感傷的な言葉が口をついて出た。そうなるほどの疲れを感じた。
「おまえを後継に推すつもりでいる」
「だから言うとおりにしろ?」
一太は自嘲めいて笑う。
「麻生嶋ディオゴの組織をおれ欲しがっていると? エサを見せて従わせる方法しか知らないのか?」
「言ってる意味がわからないのか? おかしいぞ、おまえ」
話すほど墓穴を掘っていくディオゴが、怒りと困惑をないまぜにした表情をうかべた。
見当違いを繰り返すボスが、ボスのままでいたのは、周囲の尻拭いの成果だった。
組織の緩衝役として働いていたアイスでなくてもわかる。<ABP倉庫>の正業で働いていた彼ら彼女らは、好んでボスに従っているとは限らない。ほかに就ける仕事がない、路頭に迷いたくない——そういった動機から稼ぐ手段としてのABPの仕事を大事にしている者も少なくなかった。
完璧なトップなどいないと理解しているから、ディオゴが開けた穴を塞いでまわってきた。決定なミスがないことも甘んじる理由になっていた。
「高須賀未央の扱いを見ていて、あきらめがついた。あんたは、利用できるものは子どもでも使う。矜持なんてないんだ。そういうのを隣にいながら見過ごしてきた、佐藤アインスレーもな」
アイスは否定しなかった。
矜持より実をとるディオゴが引っ張ってきたから、<ABP倉庫>が生き残ってきたともいえる。アイスも組織存続のための必然として是としてきた。
しかし、その思い込みはアイスの逃げでしかなかった。ただ安住を求めるばかりになっていた。ディオゴのやり方に納得できないまでも、対峙することを避け続けた姿勢は、ミオの件をきっかけに限界を自覚することになる。
「未練たらしく、あんたに父親の姿を見ようとしてた。おれもまだ子どもだった」
「思春期のガキみたいな戯言いってないでクールになれ」
「思春期にそばにいてやらなかったじゃない。いま聞いてやりなよ」
思わず一太の肩をもった。
「アインスレー……おまえまでセンチメンタルになってんのか?」
「そんなもの、とっくにすり減ってなくなってる。けど、部下を育てるには情だって必要だ。ドライなだけじゃ、人間は離れてく」
「おれたちがいる業界はそんな甘いもんじゃない。アインスレーにボスの座をあずけなくて正解だったな。おれは、いつも組織最優先で考えてきた。一太を突き放していたのも、そのためだ。自分の血をわけたやつが目に入ると、つい甘やかしてしまうからだ」
「あたしはトップになる柄じゃない。女がトップじゃ反発を買うとか、言われなくたって経験でわかってた。新興組織でよけいな不安のタネを増やしたくなかったから、ボスを任せたのは、あたしの判断。トップになれなかった……ならなかったことに異議はない。結果がうまくいけばそれでいいと考えるようにしてた。
そうだよ、あたしも間違えてた。あたしがトップにかわるとかじゃなく、ほかの適任者にかえさせるべきだった」
「いまさらだな」
「そう。いまさらなんだ。会社を泥舟にしないために船頭をかえる潮時だ」
「待て、そういう話じゃないだろ」
「賭けに出て資金繰りに四苦八苦するの、今回で何度目?」
「チャレンジしなきゃ開拓はできん。アインスレーならできるのか?」
「無理。けど——」
アイスは幕を下ろしにかかる。
「据えたボスがいまの体たらくを続けるっていうなら、あたしが終わらせる。<ABP倉庫>の道化役も、いい加減辞めたいしね」
「笑い者になっていたのか?」
冷笑で応えた。
ボスの機嫌を損ねず、あくまで中立の立場で組織が凝り固まらないように動き、倒れるのを防ぐ。まるで宮廷愚者だ。そのための中傷は役目と割り切って、甘んじて受けてきた。
アイスは左足を引きずりながらディオゴにむかう。
撃たれても構わなかった。いつも張り付かせていた笑みは、すでにない。
気圧されたディオゴの足が一歩、後退った。
「アイスリーン、まずは休め。疲れてるんだ。後始末や面倒な仕事ばかり任せてきたおれも悪かった」
「『任せて』……か」
三〇年前なら、相棒の気遣いとして受けとった。
十五年前になると、疑う手間を省いて頷くようになった。疑問を呈してひっくり返すより、これまで通りにやった方がうまくいくとして。
終わりのときが見えてきて、後のことを考えなくていい段階になって、やっと素の思いを出せるようになった。
「『押し付けてきた』だろ? 詭弁はもうたくさんだ」
怜佳は、これからやろうとすることも忘れて見入っていた。
これまでのアイスとは、まったく違う顔つきだった。無表情に見えて、微笑んでいるようにも泣いているようにも感じてしまう。
ディオゴの仲間なら、計画を成功させるための道具として割り切れると思っていたのに……
気持ちが揺れる。
魔法瓶の湯がぬるかったのか、すぐに冷やしたのがよかったのか。火傷はさほど酷くはなかったものの、ヒリつくような痛みはある。
ただこれが、火傷のせいなのか胸を蝕んでいるものなのか、一太はわからなくなっていた。
アイスがディオゴに歯向かうところを初めて目の当たりにしていた。
これまで意見することはあっても、ぶつかるというには程遠いものだった。
アイスは言われるままのイエスマンとは違っていた。いつもの笑みで社員のあいだに溶けこみ、愚痴を聞いては、それとなくディオゴに示唆して改善させたりもする。
一太からみたアイスは、良くいえば<ABP倉庫>の調整役、悪くいうなら組織の安定のために不満を消して回る火消し役で、油断のならない人間でもあった。
「動くな、寺田」
アイスが警告をとばした。
「温情を施すのは一度きりだ。死に急がず、じっとしてろ」
死角になるはずの位置、非常用自家発設備の陰に潜んでいた寺田を言葉だけで制する。
寺田が口元を憎々しげに曲げた。付け入るスキがない老巧な古参を睨みつける。
一太は小さく息を呑んだ。
アイスが銃を向けるのがディオゴだけなら、まだ個人間のトラブルとすることができた。その銃口は寺田にまで向けられ、組織に敵対する存在であることを駄目押しで示した。
その光景に、末武が寸刻だけ天を仰ぐ。
第一線で働き続けるベテランとして、アイスを密かに敬仰していた末武を一太は知っていた。その末武をネガティブな心境にさせるほどの宣言だった。
育ててきた<ABP倉庫>には、アイスの愛着がまだ残っていると思っていたが……。
持っていないものほど欲しくなる。繋がりに執着するのは自分ばかりなのかと一太は自問する。
アイスが左足をひきずりながら、ディオゴとの間合いをじりじりと詰めていく。
ディオゴの我慢がきれた。長年組んできた相棒、佐藤アインスレーに向けてトリガーを絞った。
鋭い爆発音に、怜佳は肩を跳ね上げた。両手で固定していたはずのハンドガンを落としそうになる。
発砲音が重なった。
撃たれたのはディオゴ。怪我はないものの、アイスが撃った弾でハンドガンをはじき飛ばされた。
迫るアイスからディオゴは身を翻した。怜佳へと殺到してくる。
怜佳は銃口をディオゴの顔にむかって突き出した。
怯むことなく、そのままディオゴが手をのばす。
スライドを握り込んで発砲を防いだディオゴに、そのまま捻りあげられる。怜佳の手が
奪ったハンドガンをディオゴはアイスへとむける。トリガーを絞るディオゴに躊躇ない。
弾は出なかった。
「ジャム⁉︎」
弾詰まりかと焦ったディオゴが、二度、三度とトリガーを絞る。空撃ちの音だけが小さく響く。
当然だった。怜佳は
なのにアイスは、この好機に撃たなかった。
「くそっ!」
ディオゴには起死回生のチャンスとなる。銃をかなぐり捨て、アイスとの距離を一気になくした。旧知の相棒と、原始的戦闘——殴打の応酬になる。
護衛の役目を果たそうとする末武と寺田には、一太が応じていた。
発砲で末武を牽制したスキに銃を蹴り飛ばしたものの、そのタイムロスで寺田のタックルを受ける。ハンドガンを奪おうとする寺田と屋上を転がりながらの揉み合いになった。
場が混沌となる。誰も怜佳に注意を払っていない好機で、パーカーのまえを開いた。
場が混沌としてくるなか、怜佳はパーカーのまえを開いた。
「動くな! 動くと起爆させる!」
身体に貼り付けていたパイプのひとつをむしりとり、高く掲げてみせた。
この場にいる全員が、パイプを利用した爆発物であることを瞬時で理解する。
ゲームを支配する切り札に、電池切れのように動きが止まった。
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