5話 急げ

<ゲストハウス・ファースト>の廊下を足早に進みながら、グウィンは受付部屋に一縷の光を期待していた。

 スタッフが警備員室に連絡したかもしれない。<美園マンション>には警備員が常駐していて、警官が来るまでの繋ぎ役になっていた。

 ただ問題は、美園の広さと人間の数に対して、警備員数が足りないこと。トラブルが重なると到着が遅れるのは、巷間の警察と変わらなかった。

「ラウンジのドア開いてて、壊れてる!」

 視覚情報をつたえてくれたミオにストップをかけた。

 不穏な予感しかない。

 グウィンは白杖を分解した。ダブル・スティックにする。



 ミオは恐る恐るグウィンの背中越しに受付部屋をうかがった。

 部屋の照明が落とされている。常夜灯の明かりだけで部屋の隅までは見えないが、人が残っている気配はなかった。最初の発砲があった時点で、スタッフも逃げ出したように見える。

 しかし、誰もいないと安心するにはまだ早かった。

 グウィンが身構えた。その先にミオは目をこらす。

 暗がりが動いた。

 男がひとり歩み出てくる。中肉中背で、七三に分けた調髪の目立たない四十代。エリサに油断はない。中身が見た目のイメージと同じとは限らない実例に護られていた。

 ——おとなしくついてくれば危害を加えない。

 こんな台詞が出てきたら、言われた通りにするつもりでいた。

 ミオとしては、怜佳のいない麻生嶋の家に戻りたくはない。けれど、ほかの誰かが怪我をするのは厭だ。

 折れる気満々でいたのに、七三分けは問答無用。電卓を叩くような眼差しのまま、肉厚な刃のナイフをいきなり振り上げてきた。

 グウィンが前に踏み込む。

 退がるよりも、受付部屋を通って外に出る方がリスクが低いからだ。

 アイスの部屋の前、非常階段、そしてラウンジ。現れた敵は大人数ではなかったが、アイスが無事なのかわからない。非常階段から逃げたかもしれないし、最悪、倒された可能性も考えないわけにはいかなかった。

 ここにいる敵は七三分けの他にはいない。けれど、ラッキーともいえなかった。

 動き回れるラウンジ空間が、グウィンにだけ不利に働いた。狭い廊下と違い、あらゆる方向から七三分けが攻めてくる。

 アイスの部屋で襲われたときの発砲音のダメージもあった。

 ミオの耳は、まだ耳鳴りが残っていた。くぐもったように聞こえる不快さは、きっとグウィンも同じはずだ。聴覚が鋭い彼女には、発砲の場にいた誰よりも苦痛を与えられ、つらかったと思う。

 ミオはグウィンに加勢したかった。が、力がない。手助けの見当すらつかない。むやみに割り込んだところで、かえってグウィンの足を引っ張ることになってしまう。もどかしさが募る。

「ミオ、カップを床に撒いて! !」 

 ぼやける耳が聴きとったのはアイスの声だった。

 音をつくって……そうか!

 ミオは壁際のお茶コーナーにかけよる。両手でカップをすくいあげるようにして持つ。

 床に向けて広げるように磁器を叩きつけた。

 ありったけのカップを広く撒いて割る。すぐに常夜灯が硬質な音をたてて消えた。これはアイス。

「ミオはそのまま動かないで、じっとしてて!」

 ドアが閉まる音。窓のないラウンジに暗闇が落ちた。

 何も見えなくなる。

 破片を踏む忙しない音。空を切る音は、グウィンのスティックなのか、相手のナイフなのかわからない。荒い息づかい……

 それらが重なる音をミオは微動だにせず聴いていた。

 一分ぐらいに思えたが、実際は五秒だったかもしれない。低く鈍い音のなかに、短い呻き声がまじった。

 すぐにラウンジのドアが開かれた。

「ミオ、早く出て! グウィン、こっち!」

 ドア枠を頼りに寄りかかって立っているアイスが、手を叩いて誘導した。

 廊下側の明かりが、トンネルを抜ける出口のように錯覚させる。

 振り返ったラウンジで、さっきの七三分けが顔を向こうに向けて倒れていた。破片の上に寝ているせいで、敵ながら痛そうだ。

「三階に警備員室がある。ミオはグウィンとそこに行って保護してもらって」

「え、アイスは?」

 じっとりとした汗で額が濡れている。左足や脇腹の痛みが酷くなったのではないか。

「早く手当しないと——」

「いらない。たぶん麻生嶋ディオゴがくる。ここで一気に方を付ける」

 グウィンが異を唱える。

「あたしも残る。あなたひとり、おいていけない」

「じゃま。グウィンはミオのそばにいてやって」

「まともに動けてる足音じゃない! そんな身体で何ができるの⁉︎」

「優秀な整体師はめんどくさいな」

「足の故障が治らないのは加齢のせいじゃない。原因は麻生嶋——」

 アイスがグウィンの腕にふれた。

 それだけで不満を見せながらも口を閉ざした。

「ミオひとりで警備員室まで移動させるのは不安なの。グウィンが聴いてのとおり、あたしの身体じゃ、ミオを迅速に安全圏に逃がすことができない。だからグウィン、お願い。時間がない」

「それはわかるけど……」

 話がすすまない大人のあいだにミオは割り込んだ。

「警備室で助けを呼んで、早く戻ってくればいいんだよ。グウィン、行こう!」

 アイスが言おうとしていたのは「警備員の助けを借りて、逃がしてもらえ」だ。

 そこから要旨をずらして応えた。反論されるまえに、グウィンに肘をつかませて走り出した。

「ミオ、待って!」

 つかんでいる肘を引いてとめようとするが、

「このままじゃ、押し問答してるだけで時間が過ぎちゃう。ますますジリ貧だよ!」

 強引に先を急いだ。グウィンが言いかけていた故障の原因に、麻生嶋の名前が出てきたことも気になるが、あとでも聞ける。たどり着いたエレベーターのボタンを押した。

 やはりというか、遅々として箱が上がってこない。

「階段で行こう」

 グウィンから言い出した。ミオは通り過ぎていた階段へと引き返す。

 下りようとする先、そいつと目が合った。

 階段の一歩目だけ、グウィンは慎重になる。そのタイミングで引きとめた。グウィンも人の気配に気づいた。

 陰鬱な目をした痩せた男が、階段下から見上げてきていた。

 頬にあざが浮かび、唇の端が血で汚れているせいで、凄惨な雰囲気もプラスされている。

「ア、アインスレーは一緒じゃないのか?」

「別の追手がきてる、上に行こう!」

 アイスの居場所などおしえられるわけがない。

 ミオは階段を駆け上がった。ここで捕まったらアイスが孤立する。上階にいっても隠れるところがあるのかわからないが、上にいく以外の選択肢が思いうかばなかった。

 黙ってグウィンがついてきてくれているところを見ると、たぶん同じ意見。



 エレベーターなど待っていられない。<美園マンション>についた十二村とにむらは、最初から階段をつかった。

 ここでアイスをつかまえないと——

 焦燥が胸をかきむしるのに、すぐに息が上がってきた。呼吸のたびに胸が痛い。ボディを蹴られたとき、肋骨をやられたかもしれない。

 喘ぎながら八階まで上がってくると足を緩めた。アイスが利用しているゲストハウスは九階だ。上階の状況を感じとろうとした。

 見上げる格好で足がとまる。廊下から見下ろしてくる高須賀未央がいた。

「ア、アインスレーは一緒じゃないのか?」

「別の追手がきてる、上に行こう!」

 アイスに加勢したい一心での呼びかけは届かなかった。

 表情に怯えをみてとり、ミオからどう見られているかを思い出した。それでも、アイスの居場所を知るには、ミオに訊くことが最短だ。

 追いかけようとしたところで、片足をひきずるような慌ただしい足音が近づいてきた。

 本人だ。

 アイスもミオを追いかけて上階に向かうかと思ったが、一転、廊下側に視線をもどす。転がり落ちる勢いで階段にふせた。

 実際、コケたといってもよかった。左足に体重をかけられないのか、膝から崩れて倒れ込んだ形だった。顔をしかめて痛みをこらえている。

 声をかけようとしていた十二村も、階段の踏み板に手をついて身体を低くした。

 複数の足音が近づいてきた。

 黒ジャケットの男が通りすぎる。護衛の末武が警戒しながら横切っていった。ということは……

 予想に違わずディオゴが現れる。潜んでいるふたりに気づくことなく、悠然と歩いていった。

 用心深いディオゴの護衛が、末武ひとりだけということはないはずだ。最低もうひとりは連れてきている。

 ディオゴの足音が離れると、アイスが上体を起こした。十二村に振りむき、声を落として訊いた。

「やっぱりその顔……4番ガレージに連れていかれた?」

 問う形で訊いてはいても確信している口調だった。

「……アインスレーには関係ない」

「ミスって、あたしの居場所がバレたと言ってたけど、報告をあげてなかったの?」

「…………」

「まあ、話さなくてもいいけど」

「おれの都合なだけだ」

 意に反して一太にもれてしまったものの、ディオゴにも報告せずにいた。

 一太の配下になったのは、ディオゴに命令されるがままに受けた、お目付け役だった。変化に尻込みしている十二村とは反対に、アイスはここにきて離反している。

 心を揺らされた。

 食い扶持のためだけで、ディオゴに付き従っていていいのか。

 黒子としての能力しかないが、誰の黒子になりたかったのか……

「足止めさせて悪かった。じゃ」

 アイスが口元をわずかにほころばせ、あげた片手でハンドサインを出してきた。人差し指と中指をクロスさせた意味は、

 ——幸運を祈ってる。

 それから左足をかばうように、静かに階段をのぼっていった。

 アイスが<ABP倉庫>を離れれば、もう接点はなくなる。

 今生の別れの言葉なるかもしれなかった。

 十二村は焦燥に駆られる。また遅かったのか。踏み出せないでいるうちに、本意と離れた結果を受け入れるだけになってしまうのか……

 のんびり考える時間はない。

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