4話 お返しはスパイダー

「伏せてっミオ‼︎」

 ミオの足元から重力が消えた。

 コインランドリーに行こうとドアの前まで来たところだった。いきなりグウィンに引き倒され、目の前に床がある。驚きすぎて痛さも感じなかった。

 刹那の時間に感じた、首筋に感じるグウィンの息。

 背中に覆い被さられてる——と意識する間もなく、頭上を飛行機が離陸したのかと思うぐらい大きな音が耳を貫いた。

 いったい何がどうなっているのかわからない。床から顔だけ上げてみる。

 わずかにツンとした刺激臭が漂うなかでミオが見たのは、自分よりも大きな男を壁にぬいつけているアイスの背中だった。

 その男の目がミオたちのほうを向いたとき、驚いたように見開かれた。

<ABP倉庫>で見かけた人だった。遺産を継いだ子どもがこの部屋にいるから襲ってきたんじゃなかったのか? 訝しく思ったが、

「グウィン、いま!」

「逃げるよ! ミオ」

 アイスとグウィンの声で反射的に跳ね起きた。廊下に出るより先に、もう一度声をかけられる。

「非常階段に!」

「わかってる!」「わかった!」

 アイスに応える声が重なった。

 ミオも非常階段の場所はすでに確認してある。白杖を使うことなく駆け出したグウィンに続いて部屋を出た。

 エレベーターと反対側に走ろうとして、

「待って!」

 グウィンの腕をとってとめた。

「ハゲがくる!」

 焦る気持ちから、つい乱暴な言葉が口をついて出た。生え際が後退した丸刈りの男が、非常階段があるほうから走ってくるところだった。

 今度はミオがグウィンをリードする。

「エレベーター横の階段に行こう!」

 これはアイスに向けても言ったことだった。

 ——エレベーターの方に戻る、なんとかして!

 部屋のまえで、アイスと若い男——チェ一太が素手で揉み合っている。そこを通り抜ける必要があった。

 アイスが応える。一太のかかとを払い、

「ミオ、いま!」

 一太のジャケットを引きつけ、体重を利用した捨て身投げで、自室の中へと倒れ込ませた。

 アイスの部屋のまえを通りすぎようとしたタイミングで、廊下でダウンしていた女が頭をおさえながら起き上がってきた。

 蹴飛ばすか? と覚悟を決めたミオだが、足を踏み出すより耳をおさえた。

 部屋の中からの続けざまの発砲音。気づいたアイスが女にむけて発砲した。

 肩に被弾した女が、再び床に這いつくばった。

 目の前で飛び散った生々しい暗赤色に、ミオの目の前が暗くなりかける。

「止まらないで、頑張って!」

 貧血寸前の状態を察したグウィンの声かけがなかったら、そのままへたり込んでいた。

 


 ミオとグウィンが引き返してくる。

 廊下で揉み合うなかで銃を落としていたアイスは、一太の踵を刈るように払った。

 一太の身体が傾く。その胸ぐらを掴み、出てきたばかりの自室に向けて引き倒した。

 体格差があるうえ、無理な体勢からの引き込みは、全身を使わないとかなわない。捨て身で床まで道連れにした。

 ひっくり返った一太の足首から、アンクルホルスターがのぞく。

 アイスは上体を起こしながら肘を一太の胸に落とす。そのまま腹筋で跳ね起き、足首からサブ・コンパクトガンを奪った。

 同時に廊下側で動く気配。

 下から上にむかっての動きはグウィンたちではない。振り向くと同時に発砲した。

 グリップ銃把が小さくて照準が定まらない。撃ちながら照準を調整。装弾数が少ないマガジン弾倉を空にするまで撃った。

 一太が眺めたままでいるはずがない。アイスは背後の気配からも逃げる。が、狭い室内でさばききれない。

 右肩に衝撃を受けた。

 これだけで脱臼が再発しそうな、力まかせの一撃。体勢が前に崩れ、床に手をついた。

 その隙で一太が立ち上がった。

 アイスの故障箇所を知っている。左ふくらはぎを蹴りつけられた。

 卑怯も攻撃方法のひとつと、わかっていても向っ腹が立つ。口から飛び出しそうになる絶叫を意地でおさえこみ、気分の悪いダーティトリックを使った。

 一太から視線をずらし、天井を見て叫ぶ。

「蜘蛛っ!」

「!ッ」

 瞬間的に一太の顔から血の気が引いた。気がそれた数瞬を利用する。

 アイスはベッドに放り出してあったタオルをとった。一太の足元で素早く一周。一太が視線を戻すより早くタオルを引く。自重じじゅうを利用してすくい上げた。

 足元をすくわれた一太が倒れ込んだ。

 狭い部屋の利点は、たいして動かないまま置いてある物に手が届くことだ。アイスはベッド脇の小さなテーブルから魔法瓶をとった。

 蓋を外しながら、一太に向けて注ぎ口を頭に——振ろうとして下方修正。脚に向けた。

 残っていた湯を帯のように広げ、一太の脚に降らせた。

「ぅ熱ッ!」

 一太の悲鳴を音として聞き流す。

 空になった魔法瓶を大きなモーションで振り上げ、殴りつけた。

 アイスは吹っ切るように背を向けた。片足を引きずりながら、グウィンたちを追いかける。

 


 アイスの足音が遠のいてく。

 どうせ追いつけない。一太はふらつく足でトイレ兼シャワールームに駆け込んだ。蛇口いっぱいに開いても勢いが頼りない水シャワーを脚に浴びせた。

 火傷の痛みより、屈辱がまさった。

 ダメージを大きくするには、魔法瓶の湯を顔にむけて叩きつけるべきだ。

 殴るときにはノーモーションが当たり前だ。なのにガードしろと言わんばかりに大きく振りかぶった。

 まだ子ども扱いされているのか。

 まだ対等として認められていないのか。

 そして、

 ——蜘蛛っ!

 複雑な心境だった。

 なぜだかわからないが、物心ついた頃から一太は、虫や蜘蛛といったものが大きらいだった。

 酷いパニック発作を起こすほどではないものの、見ただけで汗が吹き出す。母に相談して馬鹿にされて以来、誰にも話さずにいた。<ABP倉庫>に入ったあとはなおさらバレないように気を使って隠し通した。

 理解をみせたのはアイスだけだった。

 ——怖いって気持ちを無理に抑え込まなくたっていい。

 初めてアラクノフォビア蜘蛛恐怖症を理解してくれた人だった。

 蜘蛛をつかって隙をつかれたのは頭にきたが、一太もアイスの故障箇所を狙って痛めつけた。やり返してきたのかと思うと、案外子どもっぽいところがある。

 そして蜘蛛がダメなことをまだ覚えていた。

 これはどう考えていいのかわからなくなる。軽く見られているなら、とっくに忘れられていてもおかしくはない。

 アイスは、なぜ覚えていたのか——。

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