2話 愛おしい空回り

 ずっと平気な顔をしていたが、ミオの心の内はまったく反対だった。

 スチール製の白杖が特殊警棒をはじく鈍い音が、苦悶の唸り声や苦しげな息遣いが、公園を出たあとも、<美園マンション>へと走るタクシーに座っている最中も、ずっと耳の奥で再生され続けていた。

 アイスに押さえつけられたスーツの男がなお抵抗していたら、アイスはあのまま……

 しかし、グウィンやアイスが助けようとしてくれたことでもある。なのに、恐れや不快を感じてしまう。

 そんな厭な気分を切り替えたくて、アイスの部屋に戻るなりシャワーを借りた。自分の身勝手さ洗い流すように、シャワーを頭から浴び続けた。

 家を出てから怜佳のいる麻生嶋の家、そして怜佳の実家へ。そこからさらに違法な仕事で生きているアイスの元に身を寄せている。よるべなさが加速して、怜佳に会いたかった。両親が亡くなってから、ただひとり頼れる人だったのに……。

 のばした手がすぐ壁にあたってしまう狭いシャワー室が、いまの閉塞感そのままだった。転がり落ちているような不安感がある。

 アイスの存在をふせ、ミオひとりで警察や福祉センターにいくことも考えていた。しかし公園の件で、ひとりで動くのには懲りた。

 最初は警察を頼れと言っていたアイスも、第三者のもとに行けとは言わなくなっている。安全が保証できないからだとミオは思った。希望的観測も入っているけれど。

 シャワーを終え、濡れたトイレ周辺をさっと拭いた。避難させていたトイレットペーパーをホルダーに戻す。

 買っておいた二組目の着替えに袖をとおした。早くも使い切ってしまうことになるが、これも気分転換。

 そして汚れ物は洗濯してしまって、気持ちを一新したい。

 いつ終わるかわからない難事を乗り切るために。



 ミオがシャワー室を使っているあいだ、グウィンは休む間もなく白杖の手入れをしていた。

 継ぎ目まできれいに拭い、歪みがないか確かめる。一本に組み直したところで、ドアが開く音。

 音の方向と距離からしてシャワー室兼トイレではない。部屋の入り口のほうだ。

「グウィンはいまのうちに帰って」

 フロントに出かけていたアイスが入ってくるなり言った。そのまま真っ直ぐ部屋の奥にいく。

 アイスが開けた扉は、開錠音と場所からして金庫だ。続けてベッドの下から出したバッグを探る気配。差し込んだ金属が噛み合わさるような硬質な音をたてる。

 金庫からオートマチック自動式拳銃、バッグからはマガジン弾倉。バラバラに保管していたものを使用可能にした。

 内線電話をわざわざフロントで受けなおし、内容をこちらに知られようにしても、金庫を開けたあとの動作がすべてを語っていた。事態が悪い方向に急展開していると。

「危ない状況なんだね。このまま手伝うよ」

「面倒見がいいグウィンがキライになりそう」

「お褒めにあずかりどうも」

「腕がいいうえに相性もいい整体師は、金払いのいいクライアントを見つけるより難しい。グウィンには無事でいてほしいから、わかって」

「あたしがやられると?」

 アイスがベッドに座った。近くなった距離で訴えてくる。

「そうは言ってない。あたしが感傷で動かされた後始末に巻き込みたくない。自分で片付ける」

「ミオのことは巻き込まれたなんて、これっぽっちも思ってない。だいたい、あたしのピンチにお節介やいて怪我した人がいうセリフじゃないでしょ。助太刀の恩は受けときなさい。たんまり利子つけて返してもらうの楽しみにしてるから」



 ——危ない状況なんだね。

 シャワー室兼トイレのドアを開けたミオは、その一言でシャワーの熱も一気に冷めた。

 呼吸を潜め、ドアの影からうかがってみる。アイスの手元にオートマチックを見つけ、慌てて引っ込んだ。

 心臓が激しく肋骨を打つ。いよいよ危機が迫っている実感に襲われた。

 これからおこりそうな危険に心づもりはしていた。しかし、いざ迫ってくると恐怖心が再燃した。

 骨肉が打たれる鈍い音、内臓から押し出される苦しげな声……それらの只中にまたいることになるのかと思うと皮膚が粟立ってくる。

 不意に、自分のオフィスをもっていた彩乃の声がよみがえった。

 ——苦しくて倒れたなら仕方がない。けれど、倒れたままでいたら何も変わらない。できそうなこと何でもやって、不格好にあがいた成果がこのオフィスだよ。

 ミオは怖気を払いのけようとした。

 ひとりでないだけ、彩乃よりずっと楽な状況だ。何もできなくても、助けてくれる人の足を引っ張らないようにすることはできるはず。怯えて縮こまっていては助かるものも助からない。

 うつむいていたミオの視界のはしに洗濯物がうつった。

 そうだった。汚れ物を洗濯して気分を変えようとしていたのだった。動いていれば気持ちも前向きになるはず。これしかない——。

 無理やり気持ちを引き上げようとする。



 グウィンに帰るつもりはなかった。

 アイス単独で迎え撃つのは無理だ。手を貸してくれる同業者を探すにしても、外部から助っ人を雇うにしても、時間がなさすぎた。

「たいしたことできないけど、誰もいないよりはマシな働きはできる。だいたいアイスだって万全じゃないでしょ。刺されたうえに、あたしの施術も受けそこねたんだから」

 アイスの故障は左下腿部ひだりふくらはぎ。脇腹が重症でなかったとしても、足が思うように動かなければ大きなハンデになる。

 そして左足の不調は、別の箇所に負担をかけて身体に歪みをもたらす。普段からの疲労もたまっている頃合いだった。

「ちょっとコインランドリー行ってくる!」

 出し抜けに割り込んできたミオの声に動転した。

 まただ。話に気をとられて、シャワーから出ていたことに、まったく気づいてなかった。

 どうもミオ相手だと、この手のポカを連発してしまう。ものわかりのいい彼女に、子どもとしての気遣いを忘れてしまっているのならまずい。

 アイスが慌ててとりなそうとした。

「時間も遅いから、あとに——」

「服を洗ったら、気分も上がると思うの! ラウンジのそばにあったよね? 今度は軽はずみなこと絶対しないし!」

「……ミオ?」

 アイスも気づいた。早口でまくしたてる声の調子が高い。ドライヤーはこちらの部屋でないと使えないから、髪もまだ乾かしていないはず。

 このテンションの高さは歓迎できなかった。緊張や不安を紛らわせようとする空元気ということもある。

 クールダウンさせようとグウィンは呼びかけた。

「ミオ、いったん座って。少し落ち着こう」

 聞いてはいなかった。ミオの足音がドアへと向かう。

「終わったらすぐ戻ってくる!」

「ミオ、待って!」

 アイスが追いかけようとした。が、

っ!」

 たたらを踏む足音は、やはり左足が悪化している。グウィンは、すぐさま代わって追いかけた。何度もきた部屋で、内部空間は把握している。

 つまずくことなくミオに追いついた。腕をつかみ——

「!」

 グウィンの耳が、ドアの外側の異音を聞きとった。

 靴底がビニル床をむ、かすかな音。

 通り過ぎる途中ではない。複数の足音が、部屋の前でとまった。

 そして、厭になるほど聞いた作動音は——

「伏せてっミオ‼︎」

 当たりをつけてミオの足元を払った。床まで一気に伏せさせる。ミオの背中に覆いかぶさった。

 衝撃音とともに穿たれたドアの破片がグウィンの背中にふる。

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