四章 集って来たるは

1話 代償には足りない

 津坂つさか彩乃が高須賀彩乃になったのは、夫となる男に押し切られた弱さからからでもある。

 せめて姓は変えたくなかった。

 独立を視野に入れ、インテリアデザイナーとして経験を積んでいた。名前が変わることは、これまでの実績や、やっとつかんだ顧客にも影響し、最悪失うことになりかねなかった。

「男の方が変わると婿養子の偏見でみられて大変なんだ。それに生まれた子どもだって、お母さんの名前じゃ混乱するよ?」

 姓が変わって大変なのは女だって変わりない。実用的なことに加え、アイデンティティを失うような精神的負担を抱える人だっている。

 それに、妻の姓がファミリーネームになって混乱するのは子どもではない。根拠のない慣習を常識と勘違いしている大人だ——。

 この反論ができなかった。

 強い口調におされると、そういうものかもしれないと折れてしまった。

 この話を怜佳にすると、自分のことのように怒り出した。

 ——婿養子で肩身が狭いって、自分が婿養子に偏見持ってるだけじゃないの? 子どもが混乱するっていうのにしたって、夫くんが混乱してるだけじゃないのって思っちゃう。子どもが混乱するのって、まわりの大人の混乱を映し出してるってことが多くない?

 意志の強さがあらわれた、くっきりした目元をこちらに真っ直ぐむけて問われた。

 怜佳のほうが年下なのだが、こうして意見をぶつけてくると、なかなかの迫力だった。

 ただ、そう言っていた怜佳が、結婚すると姓がかわった。

 考えがかわったというより、実家の会社経営の問題がからんでいるらしかった。

 恋愛話すらしたことがなく、結婚にはまだ興味がないのだと思っていただけに、難しい事情がうかがえる。なんでも話すようになっていた仲だが、怜佳が話そうとしないので、彩乃からも訊くことも避けた。

 彩乃にしても、結婚にはもともと消極的だったのだ。

 結婚したといってもいい。

 そして子どもが欲しかった。身体が弱いこともあり、若いうちにと焦ってしまった。

 結婚してから彩乃は後悔した。いくらなんでも夫に失礼だった。なにより血縁にこだわりがないのだから、子どもはステップファミリーで考えてもよかったのだ。

 夫は確かにミオを大事にしてくれていた。けれど、ひとりの個人としてではなく、所有物のような感覚で愛しみ、ミオの意志をみていなかった。

 結婚を判断した自分はともかく、ミオの自由までもが奪われるのはおかしい。

 離婚を考えた。けれど、それだけでミオから離すことはできそうにない。自分の分身のように思い入れがひとしおだったし、奸知に長けた人でもある。たとえ親権をなくしても、ミオへの干渉を防ぐことは難しく思えた。

 ミオには雑音に惑わされることなく、思うままの道を進んでほしい。そのためには、ミオが自由でなければ実現しない。

 身勝手を承知で怜佳にすがった。

 ミオを怜佳にゆだねられることに、安堵とひそかな感慨を感じつつ。


     *


 怜佳がミオのために気負うのは、後見人であるからだけではない。

 綾乃とその夫をつないでしまったのは、自分かもしれない負い目があるせいだった。

 彩乃の夫となった男は、もともとディオゴと付き合いがあり、怜佳をとおして彩乃のことを知ったらしかった。

「つないでしまった」と後悔の言葉になるのは、綾乃が結婚したあとに見せるようになった表情のせいだ。ミオが両親を失う予兆は、このときからあったといえる。

 気にしながらも積極的に訊かなかったことを怜佳は後悔した。

 怜佳と同じく、結婚には消極的だった彩乃だが、夫となる人との結婚は短時間で踏み切っている。子どもが欲しいとは聞いていたので、パートナーとはそこそこの関係でいいと妥協しているのかと考えていた。

 忘れられないのは、招待された結婚式当日。式の前に綾乃の控室を訪れたときだった。

 ウエディングドレス姿の彩乃からハグを受けた。

 これまで身体的な接触がなかったから、いきなりのことで驚いた。

 このときの怜佳は、ライフスタイルが大きく変わることへの不安から、ハグという癒しを求めたのかと思ってしまった。そうして深く考えることなく、なぐさめるつもりのハグを返した。

 彩乃が亡くなってから、最初で最後になった、そのハグを思い返すようになる。

 彼女から伝えたいことがあったのかもしれない。いきなりのハグは、思いをすぐに言葉にできない、口下手な彩乃なりのメッセージで……。

 怜佳は、人の心の機微に疎いところがある。彩乃の気持ちを誤って受け取っていたのかもしれなかった。

 だから、彩乃に返せなかったぶんもミオに応えようとする。ミオが願う生き方を支えたかった。そのためなら、足りないまでも何だってしてやりたい。

 とりわけディオゴが、また阻んでくるのなら許せなかった。

 排除の手段は問わないつもりでいる。



 慣れ親しんだ<オーシロ運送>の社屋を自らの手で燃やした怜佳に、感傷に浸る余韻はなかった。アイスに告げられた場所にすぐに向かう。

 これからが〝計画〟の本番だった。

 この街に住んでいる人間なら<美園マンション>の名は知っていた。

 格安なゲストハウスがあり、リーズナブルな値段のメニューがそろったフードコートや各種店舗があるビルとして。

 真偽は別としてなら、刑場跡に建てられたがゆえに怪現象がおこる、あるいは怪しい闇商売が行われている魔窟として。

 怜佳もこの複合ビルを風景の一部として見るほど馴染みがある。けれど、足を踏み入れたのは初めてだった。

 まずは、一階の総合案内所にいく。<ゲストハウス・ファースト>があるフロアを訊ねた。ひとりでカウンターをさばいている案内係の早口の説明をどうにか覚え、エレベーターへとむかった。

 二〇リットルサイズのトラベルバッグを胸の前にかかえ、混み合うフロアをすすむ。

 煤で薄汚れた服を着ていても、好奇心をのぞかせた視線が時折くる程度ですんでいるのは、美園のフロアだからこそだ。

 まわりには、どこの民族衣装か——オリジナルデザインかも——わからない特徴的な服を着ている人がいるし、汚れ具合が同じなバックパッカーもいる。怜佳のビジュアルは周囲になじんでいて、むしろビジネススーツを着てきた方が浮き上がりそうな雰囲気があった。

 エレベーター前に到着。定員オーバーになった箱を二度見送り、三度目でやっと乗れた。聞いていると不安になる稼働音とともに九階まであがる。

「はい、アソージマ・レイカさんね。サトーさんから聞いてるよ」

 フロントでアイスの名を伝えると、すぐに通じた。アイスの部屋番号を聞いておき、鍵をもらって先を急ぐ。疲労困憊していた。

<オーシロ運送>から、どうにかミオを逃がせた。

 追いかけてきた連中を<オーシロ運送>の中に引き入れ、閉じ込めたところで、赤リンを使って粉塵爆発をおこした。示し合わせていたベテラン従業員、二谷が仕掛けたドアロックは吹き飛び、証拠としては残っていない。

 屋内に残っていた怜佳と二谷は、ファイヤーブランケット防火布を使って脱出した。

 素人仕事で、よく無事にやり過ごせたと思う。外に出て、ファイヤーブランケットを脱いだところで、やっと仕出かしたことの大きさを実感した。学修と実践では大違いだった。

 全身が震えて、立つことができない。そのままでいると、音に驚いて出てきた近所の人が駆け寄ってきて、ずいぶん心配された。真実を言えず、申し訳なかったと思う。近隣に被害を出さないよう何度も計算したなんて、言い訳にもならななかった。

 思い出しただけで、心臓が緊張と恐怖でキュッと縮こまる。休む間もなく移動してきたので、一息つきたかった。

<ゲストハウス・ファースト>は、そこそこ良い部屋だと聞いた。怜佳は少しばかりの期待も込めてドアを開け——

「狭っ!」

 思わず出た第一声につきた。

 診察台みたいなシングルベッドだけで、部屋のスペースのほとんどがうまっている。これで〝ファースト第一級〟の部屋とは、とんだジョークだよね——とか、ミオが言いそうだ。

 ミオが両親と住んでいたのは郊外の一軒家だった。豪邸というほどではないにしろ、結構な広さがある。

 広ければいいというわけではないが、居住空間が極端に変わるのはストレスだろう。ミオを一人にさせることに気が引けるものの、ディオゴと決着をつけたい気持ちも断ち切れず、会いに行けなかった。

 報復にこだわる必要はないと思いたい。しかし怜佳の心奥には、熾火おきびのように静かに燃え続けているディオゴへの怒りがある。消さないまま新しい場面にいくことは難しかった。

 それにミオのそばにいると、おのずとアイスは怜佳も護ろうとするだろう。アイスの負担を増やすようなことをせず、ミオの安全を最優先にしたかった。

 ならやはり休んでいる時間はない。怜佳は荷物だけ置き、すぐにアイスの部屋へと向かう。

 方針の転換を伝える必要があった。

 フロントでアイスの部屋を訊いたとき、ちょうどミオが部屋の外に出ていた。この時を逃せない。

 あとの用意はすでに整えてある。福祉局への受け入れがスムーズにいくよう、ミオに必要な書類はまとめてあった。

 心残りはない。

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