2話 来ない彼女、来た彼女

「いくぞ」

 一方的に告げた声を無視して、ミオはベンチに座ったままでいた。

 駄々をこねる子どもとでも思われたか。鷲掴みにされた腕を引っ張り上げられる。

「痛い、離して!」

「言われたとおりにしないからだ」

「握力みせつけなくてもいいでしょ⁉︎ わかった。一緒にいくから」

 しぶしぶ立ち上がる。従うそぶりに気を緩めたか、握っている男の手が少し緩んだ。その機を逃さず、腕を振り払って駆け出した。

 しかし、足はすぐにとまった。

 目指した公園出口、そのそばのケヤキの木の横に、見覚えのある男が立っていた。

 麻生嶋ディオゴのもとにいたときに見かけただけの目立たない人だった。少し変わった名前だった気がする。

 覚えていたのは、その目つきのせいだ。伏し目がちで、どこか鬱陶しく感じる陰鬱な目が忘れられなかった。

 棒立ちになったミオの腕が再び掴まれた。力任せではないものの、優しい手つきには程遠い。

 くわえて新たに現れた男ふたりと女ひとりに囲まれた。それぞれ地味なシアサッカーやナイロンのジャケット、パーカー。いずれもミオより頭半分以上背が高く、見下ろしてくる目元が剣呑だ。負けずに毒づいた。

「子ども一人に、どんだけで来たのよ」

獅子搏兎ししはくとというやつだ。勉学優秀なお嬢さんならわかるだろ」

「簡単なことでも全力を出すっていう? 確かにわたしは逃げることしかできない兎だけど、あたなたちが『獅子』といえるのかは疑問」

 ミオの胸中は、強気な言葉とは裏腹だった。

 逃げられない——。

 黙って出てきたことをアイスは気づいているだろうか。

 けれど、彼女の警告を無視して<美園マンション>を出てきている。勝手な行動のあげく、アイスの助けを期待するのは虫がいい話だった。

 もともと、アイスはトラブルをきらって怜佳の話にのろうとしなかった。報酬を出す怜佳の安否がわからなくなっているのだから、これ幸いと切り捨てられてもおかしくない。

<オーシロ運送>でアイスに会うまえ、怜佳から彼女に関することを少し聞いていた。

 ——〝アイス〟って〝アインスレー〟を省略して使ってるんだけど、彼女の仕事に殺すことIceも含まれてるからっていうのもあるの。

 とんでもない単語をさらりと言った怜佳に目を丸くした。

 そんな仕事をする人に、思いやりなんて期待できない。優しくされて勘違いしそうになるが、プロである彼女が、損得勘定抜きで動くことなどまずない。

「無駄なことはするな。子どもでも容赦しない」

 スーツ男についていくしかないのか……。

 ぎこちなく歩きながら手立てを探して周囲に目を向ける。途端に察した手下たちが視線で押し戻してくる。よそ見も許されない。

 逃げ出すタイミングを完全に失った——と出し抜けに、くぐもった声があがった。

 ミオは反射的に振り返る。右後方についていた、長身のシアンサッカージャケットの女が倒れていた。

 その後ろに、いつの間にきたのか。

 白杖を手にしたグウィンが立っていた。



 浅野は不満だった

 ディオゴが妻に逃げられたというのは、<ABP倉庫>の内部ではすでに知られていた。みな、口に出さないだけだ。

 だから始末に当たるのは佐藤アインスレーのみになったというのに、ここに一太が介入するという。

 麻生嶋の血を引いていても、<ABP倉庫>のなかでの一太は地味な存在だった。

 ボスへアピールしたいのか。ガキの頃から知っているアイスへの承認欲求でもあるのか。     

 なんにせよ、一太の配下につかされた浅野にとってはいい災難だった。指示を無視しての介入で成果を上げても、ボスの不興を招くだけになる。

 そのうえ、子どもを連れ戻すだけの簡単な仕事のはずが、アイスが寝返ったことから、仕事の雲行きも難易度も変わった。

<オーシロ運送>からのアイスの尾行に加わって実感した。

 追うのがロートルとはいえ、ロートルになるまで生き残ってきただけはあった。店のウィンドーで死角を確かめ、靴紐をなおすふりをして不自然に反応する人間をチェックする。警戒に隙がなく気が抜けない。

 高須賀未央とともに<美園マンション>に入られると、浅野はいったん尾行をあきらめた。混雑を極めるエレベーターがネックになるのは間違いなかった。

 開き直って、相手が出てくるところを待つしかない。まといつく湿度と室外機が吐き出す熱気で不快度が増すなか、浅野は<美園マンション>の出入り口をひたすら眺めつづけた。

 別の出口を監視している部下の不平の声が聞こえてきそうな頃。いちばんのターゲット、高須賀未央がひとりで出てきた。

 なんたる僥倖。拐うにはまたとない機会になる。

 失敗できない。人目につかない場所までチャンスを伺ううち、うってつけの場となる公園まで連れてきてくれた。

 これで一気に方がつく。浅野は早くこの仕事を切り上げたかった。

 確実に終わらせるため、公園内に人気がないことを先に確かめる。

 しかしここでもトラブル。実行に移す段で、十二村の姿がいつの間にか消えていた。

 普段から何を考えているかわからない男だった。ベテランがやる仕事ではないとばかりに、勝手に離れたのか。

 人数が減るが、いまの好機を逃せない。浅野は自分をふくめた四人で仕事にかかる。十二村の行動は、あとで一太がどうとでも判断すればいいと投げた。

 ——子ども一人に、どんだけで来たのよ。

 ミオにまで言われたが、これで片付くと確信していた。

 白杖を持った女に邪魔されるまでは。

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