三章 これまで、これから
1話 窓を開けて
ビジネス街にある夜の公園を通りがかる人はおらず、見頃をすぎたバラ園にくる人もいない。
ミオの周囲に人影はなかった。
夜になって気温は落ち着いてきたが、湿度が高いままだ。ベンチに座っていても肌が汗でじっとりしている。
それでもミオは動こうとせず、目の前にあるビルを眺めていた。
アイスの部屋を出たあと、ミオは<ゲストハウス・ファースト>のラウンジスペースに入った。ひとりで過ごすには、ここしかなかった。
手持ち無沙汰で、サービスのお茶を適当にとって淹れる。三人掛けのスクエアベンチにひとりで座った。
ぬるいティーバッグ紅茶を飲んでいると、彩乃のオフィスで一緒にすごした時間を思い出した。
家のキッチンとは違って、オフィスにあるお茶はティーバックばかりだった。
ミオが訪れたのは、他のスタッフが帰宅したあとだったので、窓の外の公園はすでに暗い。時期によって眺めることができるバラも、影に溶け込んで見えなかった。
景色は臨めなくても、ゆったりした時間の中にいる彩乃は穏やかで、ミオが話す何て事もないエピソードを楽しそうに聞いていた。
魔法瓶の湯を沸かし直さないまま使ったうえにティーパック。手抜きを極めたぬるいお茶も気にならなかった。
そのオフィスは、すでになくなっている。
拠り所がすべて思い出になってしまった。
無理なのはわかっていても、彩乃がいる過去に戻りたい——。
アイスに外に出るなと言われていたのは覚えていた。出てはいけない理由も理解していた。
なのに、気がつくとラウンジから出ていた。
そのうえエレベーターの混雑ぶりに、あろうことか危険だと言われていた階段に向かってしまう。彩乃の影を求める気持ちが走り出していた。
途中、階段の踊り場で閉まっている窓に目がとまった。
人ひとりが、やっと潜れるぐらいの大きさしかない窓でも、閉まっていると息苦しく感じる。
おかれている今の状況と重なって、そんな気がするだけ。そう思う一方で、開けておかないと悪いことが起きると、ゲストハウス・スタッフが気にするのも何となくわかる。
ミオは手をのばし、窓を開けた。
涼しい夜風とはいかず、湿った重い空気がとろりと入ってくるだけ。そんなでも四角く区切られた夜空を見て、小さな開放感をえた。
そうしてから再び階段を駆け下りる。
さいわいにもリアル、あるいはリアルでない誰かと会うことなく無事に一階につく。
<美園マンション>の外に飛び出した。
夜の繁華街の喧噪も、<美園マンション>の階段ぐらいには用心が必要だ。
スキを与えないように急ぎ足で歩いてナンパをはねかえし、発車しそうになっていた電車に駆け込み、公園まで最短の時間できた。
ここに来れば、もう一度彩乃に近づける気がした。
<美園マンション>にいるあいだに通り雨があったらしい。公園の土が濡れていた。
幹線道路から聞こえる車の走行音が小さいのも、路面が濡れているせいなのだろう。ベンチに座ると、かすかに甘い土くさい香りが強くなった気がした。
彩乃のオフィスが入っていたビルを見上げる。
残業をしている部屋はなく、ビル全体に明かりはない。そのなかで、彩乃のオフィスがあった窓が、いっそう暗く感じた。
彩乃がいなくなったことを実感する。
ミオは、ひとりだった。
取り囲む木立の影が、世界から隔絶する壁になる。こんなところに一人でいてはいけないと思いつつ、立ち上がって歩きだす気力を潰えさせた。
「探しましたよ」
突然の男の声に飛び上がりそうになった。
振りむいた先、背の高い男がミオを見下ろしていた。ノーネクタイだが、この蒸し暑いなかでスーツを着ている。
薄手とはいえ、アイスもジャケットを着ていたことを思い出した。この男、アイスと同類かも。
「お嬢さんを保護するよう麻生嶋から指示を受けています。帰りましょう」
麻生嶋……ぼんやりしていた頭で、いつも高そうなスーツを着ていた痩せた男をやっと思い出した。
「自分で帰ります」
もちろん麻生嶋ディオゴのところではないが。
「こんな遅い時間に、ひとりでは危ない」
宵のうちなんて、学生にとっては夜がはじまったばかりの時間だ。だいたい、
「面識のないあなたと行くほうが危険を感じます」
ミオは応えながら、目の端で通りががる人を探した。
麻生嶋のもとに戻っても、危害を加えられるということはないはず。しかし、麻生嶋の目的もわかっている。ミオにとってベストな生活を模索してくれるわけではないだろう。
ミオは断定していた。
爆発火災をおこした<オーシロ運送>に残った怜佳が、死んでいるはずがない。
麻生嶋の家から<オーシロ運送>に密かに移るまえ、これから起こりうる危険を怜佳から聞いた。ミオは心配のしすぎだと笑ったけれど、実際、身に及んだ危険は、怜佳が話したこと以上になっていた。
彩乃から受けとった後見人の報酬額が、どれだけの額であっても、とても割に合うとは思えない。危険を予測しながらも後見人の職務を遂行しようとする怜佳に、もう一度会いたい希望も込めていた。
「手を煩わせるんじゃない。さあ、早く。車を用意してある」
目の色に苛立ちが入る。焦れて馬脚を現してきた。
通りがかる人がいないなら、大声をだそうか……。
しかし、いちばん近くのマンションでも、公園の木と道路をはさんだ向こう側になる。オペラを歌える声量でもなければ、助けをよぶのは無理そうだった。
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