9話 プロフェッショナルにあるまじき

 鍵がはずれる音がしてドアが薄く開く。

 部屋の中から流れてきた音楽に、ミオは目を見張った。部屋の主とイメージがあわない……というのは失礼だ。

 ミオとは反対に、目を細めた眠そうなアイスの姿がドアの隙間からのぞく。訪問者を確かめてから、ドアを大きく開けた。

「おかえり。グウィンもここで食べてく?」

「そのつもりで買ってきた」

 荷物持ち担当のミオは、わかりやすく包みをあげてみせた。

「適当にすわって」

 部屋に入ってすぐ、正直な第一声がでてしまった。

「狭っ!」

 これで<ゲストハウス・ファースト第一級>とは。

「でも掃除は行き届いていて快適だよ」

 借り主が満足しているなら余計な口は挟めなかった。しかし。

 適当にすわれと言われたが、すわれるスペースがすでにギリギリというか、

「イスがひとつしかないよ?」

「グウィンがイス。ミオとあたしがベッドにすわる」

 テーブルも小さいから、おのずとベッドがテーブルがわりになりそうだった。

「怪我人が不安定なベッドに座ってないで、イスとテーブルを使いなよ。甘蔗汁ガンジャジューこぼすよ?」

「それって、サトウキビジュース?」

「ビタミン、ミネラルがあって免疫力が強くなるんだって」

 にわか仕込みの知識をミオはアピールする。食欲がなかったとしても、ジュースなら飲めるはず。

「甘いのはいらない。ふたりでジャンケンして勝った方にあげる」

「体力消耗してるんだから飲みなよ。ミオがえらんだんだよ? ほら、イス使って」

「……わかった」

 アイスがのそのそとテーブルのほうに移動する。ミオは、ベッドの方にグウィンと腰を落とした。

 あらためて流れている曲に耳を傾ける。クラシックだった。

 音源は枕元の棚にあるラジカセから。ダブルスピーカーでも、さすがに音質がいいとはいえない。曲が聴ければいいという程度だった。

「シューベルト聞くんだ。ピアノ三重奏曲第2番変ホ短調だよね?」

 父親にピアノを習わされていた。中学に入ると、忙しくなったと理由をこじつけてやめている。

「マイナーなのによく知ってる」

「クラシックは退屈だったけど、これは曲調に変化があってドラマティックだから、まだ覚えてる。アイスこそクラシックはよく聞くの?」

「人の声が入ってる曲がきらいで、なんとなく。あと睡眠薬のかわりになる」

 アイスの本業のことを考えた。

「気持ちを落ち着かせるのに効果あるんだ」

「たぶんね」

「『佐藤アインスレー』って偽名?」

「他人の余計な情報を入れないことも安全に過ごすコツだよ」

 話の流れで答えてくれるかと思ったが、はじかれた。

 グウィンが笑い声をあげる。

「アイスのガードは固いよ。あたしも知らないこと、まだたくさんある」

 単なる興味本位ではなく、アイスがどういう人なのか知っておきたかった。

 知らないままの相手と友だち付き合いができるものなのか。ミオには、このふたりの関係がよくわからない。



 あまり、ゆっくりもしていられない。

 アイスは食休みもほどほどに、自室のシャワーにミオを押し込もうとした。

「シャワーって、ここトイレ……ん?」

 ミオの目線より高い位置にあるシャワーヘッドをさした。

「シャワー室と兼用。スペースがないから水回りをまとめてある」

「まとめすぎだよ、これ」

「トイレットペーパーを避難させておくのを忘れないで」

 そのままにしておくと、ペーパーもシャワーを浴びることになる。アイスは外したペーパーをドア横の小さな棚においてみせた。

 共有スペースにもシャワーがある。そちらのほうが広いのだが、目の届くところにミオをおいておきたかった。下の階よりセキュリティはいいが、あくまで比較でしかない。

 部屋にもどり、シャワーの音が聞こえてくるとグウィンが切り出した。

「あたしたちが買い物いってるあいだに、誰かきてた?」

「うん、ちょっとね」

 ぼかして答えるのが精一杯だった。

 煤のにおいが残っていたらしい。グウィンに気づかれたのは、空気の入れ替えを失念したせい。室外機の騒音をさけるために、窓を開けることがほとんどなかった。

 アイスにとって意に沿わない面会だった。どこで居場所を嗅ぎつけられるかわからないのだから、いきなり部屋に来るような接触は控えてほしかった。

 とはいえ、アイスにも手抜かりがある。フロントに部屋番号をおしえないよう念押ししなかったし、他人を装って追い返し、別の場所で待ち合わせる手間を省いた手落ちもある。

 縫合したばかりの身体で動くのがつらく、部屋に入れる安易な方法をとってしまった。

「あたしには言えない?」

 あいまいに答えたことを突いてくる。

「知らない方がいい」

 グウィンを巻き込みたくなかった。話題を切ってくれることに期待して黙ったが、焦れたグウィンのほうから身をのりだしてきた。

「どれだけ手伝えるかわからないけど、頼ってみて。借りを返させて」

「施術料金以上のメンテナンスやってもらってる。十分だよ」

「そんなの返したうちに入らない」

「もともと貸したつもりはなんてない。あたしのやりたいようにやっただけなんだ。だから、故障もあたしの責任」

 左足を浮かせ、膝下をぷらぷらしてみせた。

「それだってグウィンのおかげで、これだけ動けてる」

 反論しようとするグウィンの肩に手をおいた。こちらの表情が見えないグウィンに、手のひらをとおして気持ちを伝えようとした。

「あたしの仕事はあたしが片付ける。グウィンはもう争い事なんかに関わらないで」

「そこまでやるのはミオが重なるから? 親を亡くして、まわりの大人の勝手に翻弄されるミオが他人事に——」

 はっとして言葉をとめた。

「ごめん。推測を押し付けてる」

「いや、勝手な思い入れをしてるのは、ほんとだから」

 公私混同するなど初めてのことだった。否定したかったが、追い詰まるのがわかっていながら首を突っ込んでしまったことは認めざるを得ない。

 少なくともミオへの憐れみではなかった。勝手に過去をだぶらせているほうが近い。

 保護者を必要としていた子どもの頃、誰も助けてくれなかった再現を見たくなかった。自分で自分を救おうとしているのかもしれない。

 そしてグウィンも、アイスとは別の立場で無関係だと割り切ることができないのだ。

 できなかった後悔をいまだに忘れずにいる。アイスから見れば、そこまで考えなくてもいいと思えることを。

 生半可な否定は、グウィンの思いを軽く考えているようでしたくない。アイスはごまかさずに言った。

「あたしはミオを連れ戻す指示に逆らった。かといって、このままミオの味方になるのもデメリットがちらついて決めかねてる。こんな甘い状況判断で危険の海を泳いでいるところに、グウィンが飛び込んできてほしくない」

「あたしだって同じだよ? 助けられなかった人間を勝手にミオに投影させて自己満足のタネにしようとしてる。

 あたしの身の安全を心配してくれるアイスの気持ちは嬉しい。けど、命に関わるかもしれなくても、何もしないでいるほうが悪夢が酷くなりそうで、そっちのほうがずっと怖いんだよ。

 アイスのためでもミオのためでもない。自分が救われたいから加わりたいの」

 互いの主張に熱くなりすぎた。

「わたしが遺産なんていらないって言えば、全部解決する?」

 濡れた髪のミオが、押し問答するふたりを見下ろす。

 シャワーを浴びたのに、温度が感じられない声だった。

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