8話 オバケ以上のニンゲン
低価格が基本で、部屋の広さに応じて一般ホテルの
いちばん安い部屋なら、夕食を外食した程度の価格で宿泊できる。トイレやシャワーが共同で、部屋に窓がなくて、ムシも挨拶にあらわれるという部屋であっても、結構な数の利用客がいた。
アイスが利用している<ゲストハウス・ファースト>は、上階寄りにある。美園基準でなら、ややハイクラスの部屋。
最上級でも一般的なエコノミークラスに届かない料金だから、財布の負担は軽い。料金だけでなく、最低限のものがあれば十分というアイスの生活スタイルが、このレベルの部屋の愛好者にさせていた。
質素な部屋は、スペースのほとんどをセミダブルのベッドが占めている。
もっとも、ベッドの下にはスーツケースが楽に入る収納スペースがあるから、荷物がじゃまで歩けないなんてことはない。
冷蔵庫や
アイスがこだわるのは、部屋の鍵が頑丈で、金庫を備えていること。仕事上、必須だった。
診療所から部屋に戻ってきたアイスは、ベッドに倒れ込みたい衝動をおさえて金庫を確認した。異状なし。
ミオが戻ってくるまで起きていようとしたが、鎮痛剤の眠気に抗えない。身体が求めるままブランケットに手を伸ばしたところで、内線電話のコール音に阻まれた。
フロントに来訪者がくることを告げてあった。
アイスの部屋にもすぐ知らせるようチップを渡してあり、さっそく務めを果たしてくれている。焦れて余計な事をされないうちに、早く連絡をとらないといけない。タイミングが良いんだか、悪いんだか。
しかしアイスはここで、フロントの方が余計なことをするとは予測できていなかった。
食事のほかに、アイスに差し入れる
グウィンの体調は回復したようで、足取りはしっかりしていた。さきほどのことが嘘のように歩いていく。
歩くうち、マンションに入るまえに迷子を注意された訳がわかった。
テナントのスペースが不均等なのか、わずかな距離のあいだに狭い廊下を右に左に折れる。確かにこれを巨大な<美園マンション>の中でやっていれば、初めて歩く分には方向を見失いそうだ。
そんなことを思いながら廊下の角を折れたとき、ミオはぎょっとなった。これまで聞いた幽霊話が頭の中で再生される。
止まった足音で気づいたのか、グウィンが振り返った。
「どうかした?」
「これ……」
ミオは足元の壁に向けた視線を動かせずにいた。
「赤褐色の液体が乾いた跡があって……」この色は——
「ああ、ビンロウを噛んだあとだよ」
「聞いたことある……なんだっけ?」
思い出せなかった。
「柔らかい新芽は台湾料理で使われたりするんだけど、噛みタバコみたいにして使うほうがメジャーかな。それを噛んでると、口の中で反応をおこして、赤茶色にそまった唾液がいっぱい出るの。飲み込むと身体に悪いから、吐き捨てちゃうわけ」
「あっ、それだ!」
マナーが悪いだけのことでよかった……ですませたくないが、怪談話ではなかったことで胸をなでおろした。
「『怪異、浮き上がる血痕!』みたいのだと思った?」
「笑い事じゃないよ。こういう話は苦手なの」
「ごめん。でもお化けよりリアルの人間に用心して。ゲストハウスのフロントに入るまえに、非常階段の場所もおしえとく。使う使わない関係なしに……あ、階段といえば忘れてた」
「使ったらダメっていうのは、さっき聞いたよ?」
「もうひとつ注意してほしいことがあった。踊り場に窓があるんだけど、開けたままにして閉めないでね」
「わかった。まあ、階段を使う機会そのものがないなら関係ないだろうけど……なんで?」
「アイスに呼ばれて、いくつかのゲストハウスに出入りしてるんだけど、どこのスタッフも窓が開いてるか気にするの。寒い季節とか、防犯が気になる夜とか、宿泊客が勝手に閉めちゃうことがあるから」
「閉めると、よくないことが起こるとか」
「らしいね」
「え……⁉︎」
冗談で言ったのに。グウィンの答えにミオの表情が強張った。
「このあたり、昔は刑場だったって聞いたことあるでしょ?
「具体的な場所を言わないでいてくれて、ありがと……」
最初の一文字二文字でなんとなくわかってしまったが、はっきり言われると意識して、よりリアリティーを感じてしまう。
「でも、閉じ込められるのがイヤなら、牢屋があった場所の建物の窓のほうが関係深いように思うけど、そっちはどうなの?」
「さあ……」
「けっこうアバウト?」
「あたしは変な音や気配を感じたことがないから本当にあるとは言わない。ただ、ここで働いている人たちが気にしてるなら協力しようと思って。験担ぎだったとしても、窓開けとくだけで安心できるなら、それでいいじゃない」
「そだね」
とめていた足を再び動かす。
グウィンは店舗フロアにいたときより、ずっと速い歩調だった。しかも、白杖をほとんど使っていない。
まわりが静かになって気づいた。
まただ。かすかな
グウィンの口元からだった。
癖なんだろうか。軽快なテンポの小さな破裂音を聞きながら、ミオは足をリズミカルに動かした。
トゲトゲした葉っぱの観葉植物を通りすぎたところで、グウィンの足がとまった。
そばのドアには、アイスが利用している<ゲストハウス・ファースト>のプレート。受付部屋に入った。
受付カウンターのほかに、ちょっとしたラウンジスペースが用意されていた。壁際にトースターやケトルがあり、簡単な調理ができるようになっている。
飲み物は自由らしく、カップとお茶パックが、それぞれどっさり置いてあった。
ミオが意外に感じたのは、カップが使い捨ての紙ではないこと。業務用の安そうな無地カップとはいえ、磁器だった。
グウィンと話していたスタッフがミオの方に目をむけた。
「サトーさんから聞いてる。そのお嬢さんが遠縁の子?」
「今度の夏休み、友だちと四泊の旅行計画があって、このあたりでホテルを探してる。美園も候補のひとつだけど、ここってコワイ噂も多いじゃない?」
「またもうグウィンさんまで、そんなことを。おかしな連中が出入りしてたのは昔の話だよ」
「だから手っ取り早くわかってもらうには、実際に泊まって確かめるのが一番かなって」
いつの間にそんな設定が。話を早くすすめるために、ミオもあわせた。
「美園は安く泊まれるのが魅力なんですけど、安全面がどんなものか不安で」
「うちなら大丈夫だよ!」
フロント担当が広報に変身する。おおげさに両手を広げてみせた。
「下の階のほうがもっと安いけど、鍵がチープであぶない。その点こっちは、電動ドリルでも持ってこなきゃ開けられない鍵だし、部屋も清潔だよ。二人部屋もある」
カウンターの内側から広告入りポケットティッシュを出した。
「ここの番号にかけてくれたら、『
ミオは礼とともに、ティッシュをポケットに入れた。
たいした嘘ではないけれど、少しだけ気まずい。フロントスタッフの期待の視線を背中に感じながら、ラウンジ奥のドアをとおった。
客室が並んだ廊下を歩きながら訊いた。
「泊まってなくても部屋の鍵を貸してもらえるえるの?」
グウィンのポケットには、フロントから受けとった番号付きの鍵が入っていた。
「これはさっきの受付部屋のドアの鍵。出入りの常連になったら貸してもらえるようになった。深夜になってスタッフがいなくなると施錠されるからね。これで宿泊客以外が勝手にフロアに入ってこれないようにしてる。返す時はスタッフか、ドア横のセキュリティボックス」
「ほかのゲストハウスもそうなの?」
「安い部屋になると、外から宿泊部屋までストレートに出入りするとこが多いかな。受付も共同だったりするし」
確かにアイスの部屋は、最低限の安全面が確保されているといえた。
「アイスは普段から、ここに泊まってるの? 家はないのかな」
「そういえば聞いたことなかった。住所不定だったりして。出張施術に呼ばれるのは、いつも<美園マンション>に泊まってるときなんだけど、利用するゲストハウスはいくつかある。随時部屋を変えてるみたい」
「気分を変えてるのかな」
「宿泊料金によって部屋のグレードが多少変わるぐらいで、どのゲストハウスも似たようなつくりだよ。たぶん、安全に念を入れてる習慣だと思う。どこにいるか特定されないように」
「もっといいホテルにいけばいいのに。セキュリティもしっかりしてそうだけど」
法にふれていることは別として、危険な仕事の報酬なら、それなりにあるはずだった。いくら屈強な警備員がいても、こんな大きなビルでは十分にカバーしてもらえない。
「狭いほうが落ち着くって人もいるからね。あと<美園マンション>なら建物の外に出ないまま、たいていのことが間に合うから便利だし。身の回りの買い物に、クリーニング屋もある。地階に通院しなきゃいけない人間には楽だよね」
廊下の角にある
「合言葉みたい」
「うん、符牒だよ」
ジョークが、また当たった。
そこまで人間への用心を怠らないアイスに護られている緊迫感をミオはじんわり実感する。
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