5話 「大変」の基準

 グウィンが腕時計の風防ガラスをあけ、針にふれた。

「八時をすぎたから混雑のピークは過ぎてる。ゆっくり店を見て回れるよ」

 ミオは、もしかしてと訊いてみた。

「針の傾きが指先でわかるの?」

「慣れたら特別でもなんでもないんだけど」

 風防ガラスをとじて笑う。ミオにしてみれば、さわる時計があるなんて思いもしなかった。

 グウィンが白杖を手に立ち上がった。慌ててドアへと走る。

「気を遣ってくれてありがと。でも身の回りのたいていのことはできるから、ミオがそんなに張り切らなくても問題ないよ。助けてほしいときは遠慮なく言わせてもらってる」

「正直いって、どうすればいいのかわかんないの。こういうの、具体的におしえるってイヤなもの? わずらわしいとか……」

「確かに、めんどくさいなって思うことはある。でも、しょうがないってあきらめてるとこもある。いろんなことが健康な人基準でできてるから、サポートが必要ない人が気づけなくてもしょうがないよね——って偉そうなこと言っても、あたしもこうなるまでは気づいてない人間だったんだけど」

 あははと快活に笑った。

 診療所をでて廊下へ。グウィンは白杖に頼ることなく歩いた。

「これも慣れ?」

「しょっちゅう来てると、身体が建物の大きさを覚えてくるから杖がなくても平気。あと、まったく見えてないわけじゃないっていうのもある。ただ、こういうときは——」

 階段の手前でグウィンは、一段目の位置を白杖で確かめた。

「階段の踏み板が色違いだったら多少はわかるんだけどなあ」

 そんなカラフルな階段、まずない。

「普段は歩いてる人でも病気や怪我で入院して、一時的に車椅子を使うことあるでしょ? 十割かゼロかだけじゃなくて、必要に応じて二割だけだったり、八割使ったり。あたしの杖もそんな感じ」

「ぶしつけな質問かもしれないけど……」

「イヤなら答えない。言ってみて」

「グウィンには、どんなふうに見えてる? 目の前が暗い感じ?」

「逆。白っぽい。人によって違ってて、あたしのは濃い霧のなかにいるみたい。それで顔の前のごく狭い範囲でだけ、霧が薄い。ミオの顔まではわからないけど——」

 グウィンの口元から小さな破裂音が数回聞こえたかと思うと、

「うん。やっぱり。歳のわりには背がスラリとしててカッコいいっていうのはわかる」

「カッコいいのかなあ……」

 何が「やっぱり」だったのかより、カッコいいと言われたことが腑に落ちずに問い返した。

「あっ、気にしてたなら、ごめん」

「でも、わたしの身長の悩みより、グウィンの……」

「視力の問題のほうが大変そう、とか?」

「うん」

「まあ、そんなふうに思うよね」

「どうってことない」とでもいうように、グウィンが笑う。

「大変さなんて見るところから違ってくるから、身長の悩みのほうが小さい問題だなんて言い切れないよ? 見えないほうが楽なことだってあるかもしれない」

「えっ?」

 振りむいた先にあった笑みは、苦笑といったものではなかった。悲しみもまじっているよう複雑な笑みで。

 その先を訊きたいと思いながら、ミオは問う言葉を喉の奥に飲み込んだ。思わず口に出てしまっただけで、ふれてほしくないことかもしれない。

 階段をのぼりきったグウィンが鍵をとりだした。

「地階から一階フロアには、ここのドアでしか出入りできない。いつも施錠されてるから、必要なときは診療所が貸してくれる合鍵を使って」

 ドアを開けると、ざわめきが届いてきた。短い廊下を進んで店舗フロアに出る。

 全身が活気に満ちたノイズに包まれた。

 店員と客とのやりとりや、食器やイスがぶつかる音といった、それぞれでは大きくない音でも、広い空間のなかでまとめて聞くと圧倒的ボリュームになる。耳の中までもが混沌として、賑やかな喧噪に全身があらわれた。

「<美園マンション>のなかには〝世界ユニバース〟がある……って言ったら誇大表現だけど、いろんな人や店が集まってる。水が合えば楽しい場所だと思うよ」

 雑音に流されそうになるグウィンの声に耳を傾けていると、警備員が話しかけてきた。

 グウィンが親しげに返す。と、警備員の視線がミオにもくる。慌てて会釈。母親に躾けられた習慣だった。

 いかつい顔にうかべた微笑をプレゼントしてもらって別れる。

「そこに人だかりができてるでしょ」

 グウィンが的確に指をさした。四メートルぐらいの距離なら、おおよその様子がわかるようだ。

「エレベーターがすごく混むの。箱はそこそこ大きいんだけど、昇降スピードが遅くて、使う人も多いから。だからといって階段はダメだよ。昼間でもあぶない」

「さっきは階段つかったよ?」

「地階と一階のあいだは階段しかない。鍵を使っての限られた人の出入りしかないから、地上階よりは安全」

 歩くペースを遅くしたグウィンが、先導してフロアをすすむ。

「美園には個人住宅もあるんだけど、三階からうえ十一階までのほとんどをゲストハウスが占めてる。数が三〇軒近くあるうえに小さい部屋が多いから、総数となると、もうわけわかんない。部屋を出るときは帰れるように工夫してね」

「慣れてないと、ややこしい?」

「慣れてても酔っ払って帰ってきたりすると迷子になるそうだよ」

「お酒飲めない歳でよかったと思ってる」

「アルコールはダメだけど、甘いものはどう? 先にデザート休憩しよう」

「食事がまだだよ?」

「大変だった日は特別。アイスクリームでいいかな?」

「好き! おすすめの店あるの?」

 アイスクリームと聞くと、ミオの頭はひとつのビジュアルに占拠された。青みがかったグリーンに散った褐色のアクセント。疲れた身体が猛烈に欲した。



 フロア中央、吹き抜けのあるスペースの一角に目指す店はあった。

 小さな店舗には不釣り合いな大きな看板がかけられている。<エスクリム>の屋号の下は、各種アイスクリームの写真で壁が見えなくなっているほどで、周囲の店よりひときわ色鮮やかな店頭が目をひいた。

「二〇年以上続いてるんだって。フロアでいちばんの老舗かも」

「あと店長も古いよ。もう、お年。腰イタイ、部屋で休んでる」

 南方系の四角い顔立ちをした店員が笑顔で迎えてくれた。

「明日なら様子をみにいけるよ。電話しとく」

「ありがとございます。店長出てこないと、わたし休めない」

 店員がミオにも親しげな笑みをみせた。

「イラッシャイマセ。ドレニナサイマスカ?」

「チョコミントください」

 ミオには、この一択しかなかった。

 グウィンにはアイス棒みたいな平たい棒を複数、両手で広げて顔の前に出した。

「今日は、どれする?」

「じゃあ……これ」

 グウィンが一本引き抜き、店員にわたす。

「おー、これは」

 棒の先を見ておかしそうに笑う。きょとんとしているミオに向けて説明した。

「グウィンさん、アイスクリームでロシアンルーレットやる。棒にメニュー書いてある。なに当たるかグウィンさん、わからない」

 そうしてオーダーを用意しながら念を押した。

「残す、ダメ。お金、倍とるよ」

「うわぁ……今日はついてない」

 店員の反応から、どれが当たったのかわかったようだ。このリアクションは、好きではないメニュー。

 店員からコーンに入ったアイスを手渡されて、眉を八の字にした。

「カレーアイス、引いたみたい」

「カレー、唐揚げ、ハンバーグの、あのカレー?」

「ミオのたとえはよくわからないけど、スパイスを調合してつくる、あのカレー」

「カレーをだす店が多いから人気メニューなんだと思うけど……」

 アイスクリームにまで使わなくても——とまでは売っている店のなかで言えない。

「香辛料とアイスクリームの組み合わせはありなんだけど、カレーは微妙なんだよなあ」

「う、うん……あ、これ!」

 自分の分の代金を出そうとしてグウィンにとめられた。

「ここは、あたしのオゴリ。はじめましてのご挨拶がわり」

 そうして財布から折りたたんだ札を定員にわたした。

 ミオは、代金にあった少額紙幣を迷いなく出したグウィンに驚く。どうしてわかったのか。

 グウィンを見ていると、わからないことだらけだ。もうひとつ、訊いてみた。

「苦手なものが当たるかもしれないのに、どうしてクジ引きスタイルなの?」

 アイスクリーム片手に、狭い店内にあるミニサイズのテーブル席に身体をすべりこませる。

「ロシアンルーレットみたいなゲームにしたら面白いかなって。苦手なものが当たるかもしれないなかで、好きなものだったら余計に嬉しいじゃない?」

「そう……なの?」

 見えないことは不便しかないと思っていた。けれど、逆にそこを利用して遊んでいる。たくましい。

「最初はジェラートパンを直感で指して注文してたんだけど、何度もきてるうちに、どの位置に何のアイスクリームがあるか覚えてきちゃって。そしたら店長が、さっきの棒をつくってきたの」

「親切な人ですね」

「ちょっと違うな。〝貸し〟をつくろうとするんだよ。強引なギブアンドテイク? 人に親切にしたら、そのうち自分の得になって返ってくるのを期待するっていう」 

 カレーアイスを不味そうに食べながら、楽しそうに話す。

「あ、じゃあオゴってもらったわたしは、グウィンに貸しをつくったことになるんだ」

「へへ、わかってるんなら話がはやい。あとで手持ちの札を折ってくれない? 札の額ごとに折り方を変えて区別してるんだ。手触りでも判別できるんだけど、見える人に折ってもらう方が断然はやいから」

 抜け目がない。イヤな感じはなく、さすがと思わせる明るさがあった。

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