3話 上がって、下りる
稀有の出来事だ。
上りのエレベータに乗っていたグウィン・サントス・バウティスタは、胸中で驚いていた。
六階にとまると、ぎゅう詰めだった箱から人がどっと降りていった。
残っているのはグウィンのほかに一人だけ。<美園マンション>にはよく来ているが、エレベーターを二人で使うなど初めてだった。
美園の三階より上階には、安いゲストハウスがひしめいている。格安のぶん、部屋は狭い。それだけ美園全体の宿泊人数も増え、二基しかないエレベーターは常に混雑を極めた。なのに今日のこの珍事は……。
良いことより悪いことがおこる前兆かと思ってしまう。
「降りるのは何階ですか?」
箱に残ったもうひとりが訊いてくれた。声からして若い男性。
グウィンが手にしている白杖を見ての配慮だ。礼とともにお願いした。
「九階です」
声をかけてくる人間には、いくつかのパターンがあった。優しい配慮、あるいはこの街の人間なら、お節介やきの下町気質。悪い場合は打算的思惑、ときに女なら抵抗が難しいという悪意から。
グウィンは白杖の石突を床につけたまま、ゆったりと持つ。この男性には警戒の必要がないように思われた。
初めて乗った人間なら不安を覚えるだろう賑やかな異音を立て、エレベーターがとまった。
「お先にどうぞ」
グウィンの視界に、エレベータのドアを押さえている、ぼんやりとしたシルエットが映った。
男性も同じ階で降りてくる。エレベーターを降りたグウィンの背後から、ペパーミントのシャープで爽やかな香りがついてきた。
甘い匂いも感じることから、ティーではなくアイスクリームを持っているのだろう。下の店舗フロアには、お茶やデザートまで含めた食べ物屋が集まっていた。
グウィンは前を向いたまま話しかけた。
「ぼんやりとなら見えているんですけど、手伝っていただいて助かりました」
礼はいつも積極的にしていた。こうすればまた別の機会に、ほかの誰かを助けてくれるかもしれない。
「そうなんだ。誤解してました。白杖を使っているのは、まったく見えない方ばかりだと」
「白杖があれば確かめることができて、より安全です。持つかどうかは、見える範囲や、その人の考え方次第ですね」
「その……こういうときは、おれの肘を持ってもらえばいいんでしょうか?」
「何度も来ている場所なので、誘導がなくても大丈夫です。お気遣い、ありがとう」
結局、ゲストハウスのフロントまで一緒にきた。
「じゃ、これで」
ミントの香りが廊下の奥へと遠のいていく。グウィンがこれから訪問する客と同じところに宿をとっているらしかった。
「あ、グウィンさん」
姓のバウティスタが言いづらいからと、ファーストネームで呼ぶようになったフロント係によばれる。
「サトーさんから内線電話をあずかってるよ。
せっかく上がってきたのに。
このままここにいても大丈夫なのか……。
診療所の待合室で、ひとりぽつねんと座るミオは落ち着かなかった。
古臭くはあるものの所内はきれいだし、スタッフもカウンターの人も普通で丁寧だった。
けれどいま、アイスの傷の処置をしているのは看護師——。
診療所まで簡単にはたどり着けないつくりにして、看板すら出していないなんて、胡散くさいことこの上ない。
かといって、ここを出ても行くあてがなかった。ホテルに泊まるだけならまだしも、乱暴な連中が追いかけてくるかもしれないと思うと、ひとりになるのは怖い。消極的選択で待合室に残っていた。
一般的な診療所なら夜診療の時間だが、ほかの患者の気配はなかった。
静かだ。
しばらくすると疲れと眠気が強くなってきた。両親の死から、普通の学生なら経験しないようなことが続いている。ずっと緊張したままで、気持ちが休まる暇がなかった。
ただ、座っているのは背もたれの低いロビーベンチ。居眠りできるほどには、くつろげない。
時間潰しにテレビでもと思ったときに、やっと思い出した。
怜佳の会社が爆発火災をおこしたあと、どうなったのか、わからないままだった。
眠気が吹き飛んだ。いっときでも忘れていたことに罪悪感を感じる。アイスの言うとおり、怜佳なら大丈夫と思い込みたかったせいなのか。
ニュースに出ているかもしれない。ブラウン管テレビのスイッチをいれた。
おしゃれなスーツを着た男性刑事が、いかにもな悪役と対峙しているドラマが映し出される。観たいのは、こんなのじゃない。チャンネルに手をかけた。
「あれ?」
つまんだチャンネルが回らなかった。少し力を加えてみる。やはり動かない。あまり力を加えると壊してしまいそうでもある。
ドラマのシーンは流れつづけ、刑事が悪役をパンチ一発で吹っ飛ばした。起き上がった悪役の顔はきれいだ。
本当の暴力はこんなのじゃなかった。
<オーシロ運送>の休憩室で、アイスがナイフ男たちとやりあった場面が、不意に脳内再生された。
肘を折られた男の悲鳴が耳の奥で聞こえる。
鉄臭いようなにおいが鼻をつく。
喉を押さえられているような違和感。
チャンネルに手をかけたまま、身体が動かなくなった。
「古いテレビだからね。回すのには、ちょっとコツがあるんだよ」
その声で呪縛がとけた。手がチャンネルから離れる。
かわってミオの横からのびた手がチェンネルをつまんだ。
「少しだけ押し込んでから回してみて」
軽い音とともにチャンネルがかわった。画面が旅番組を映し出す。
「ね?」
「あ、ありがとうございます」
礼とともに振りむくと、三十代後半ぐらいの女性に微笑み返された。
「いきなり声かけて、ごめんね。アイスから様子を見てくるよう頼まれてきたら、テレビの前で動かなくなっている人がいたから」
はたから見れば、おかしな子に見えただろう。ミオは顔に血が集まってくるのをごまかすように訊いた。
「診療所の方ですか?」
スタンドカラーで腰丈のケーシー白衣を着ている。しかしミオの視界のすみに、休憩室にはなかったもの——おそらく彼女のものが目に入った。
なぜ、テレビのまえで固まっていたのが見えたのだろうか。
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