2話 鋼のドアの向こう側

 気が進まない。けれど、こんな文字どおり怪しいところで置いてけぼりも食いたくない。

 ミオは、アイスの後ろについて路地に入った。

 小路こみちを進むうち、まわりの賑やかさが遠のき、異界への入口を通過しているような錯覚におちいる。左右から巨大な壁にはさまれているせいか、街の深部にむかって沈み込んでいくみたいで……

 不意に中庭のような空間にでた。

 四方をコンクリート壁に囲まれ、見上げると暗くなってきた四角く区切られた空がある。<美園マンション>の裏手になる場所だった。

 仄暗い壁を見上げたミオはギョッとなる。

 ヘビ⁉︎……なわけがない。配管のシルエットだった。

 剥き出しの太い配管が、壁一面にのたうつように走っていた。

 鋼の大蛇おろちが、壁を這い回っているようにも見える。サスペンス系ホラー映画の背景を連想するうち、壁の一部に、はためく影を見つけた。鋭く息を吸い込む。

 緊張はすぐにとけた。よく見るとなんということはない。配管の隙間に設置されたエアコンの室外機に、落ちてきた洗濯物が引っかかっているだけだった。

 急に生活のにおいが漂ってくる。この巨大マンションで日常を送っている人がいる実感がわいてきた。

「やあ、お帰り……って、怪我しとるやんか!」

 裏口のそばから声があがった。

 一、二階にある店舗フロアで働いている人なのか。一斗缶を椅子がわりにして、エプロン姿の男性が休んでいた。手に持っているのは、たぶんジュース。ビニール袋ジュースにストローをさして飲む機能性が、ミオには斬新だった。

「いやになるよ。治療でまた出費がかさんじゃう」

 アイスが押さえているジャケットを指して苦笑い。口調ほど軽い怪我にはみえなかったのだが、

「血ぃ流したあとは肉やで、肉! 今日のシークカバブシシカバブ、ええ出来上がりや。部屋配達のチップはサービスしとくから、どう?」

 店員も流血をみて動揺している様子がまったくない。

 そして薄い褐色の肌、彫りの深い顔だちの人が、ネイティブの訛りそのままで話していて、なんとも違和感だった。

 もっとも見た目がこの国の人間と違うからといって、この国の出身でないとは言い切れない。地方やほかの国からきて定住した者が少なくない街だった。

「けっこう疲れてるからディナーでも肉はつらいな。また今度いくよ」

 互いに片手をあげて別れのあいさつにする。そこで初めて店員がミオをみた。

「サトーから離れたらあかんで。ひとりやと迷子になるよって」

 そんなに子どもに見えているんだろうか。方向感覚にも自信があるのに。

 そういった疑問と不満は顔に出さず、ミオは会釈をして店員の横を通りすぎた。感情をやたら露わにしなければ、穏便にすませることもできる。

 関係が微妙な両親の間にいるうちに覚えたことだった。


 

 アイスは、マンション裏口横のインターホンを押した。先に電話を入れておいたので、ドアマンを待たずにすんだ。

 かといって、すぐにドアを開けてくれるわけではない。

 まずは覗き窓で来客本人を確認。何度もきているおかげで、顔パスですませてもらえる。

 低い解錠音のあと、鉄プレートで補強された重いドアが開けられた。

 ワッペンのついた黒キャップ、胸元には顔写真入りID、腰には携帯無線と懐中電灯をつけた警備員に迎え入れられる。

「運がよかったな。あと二分電話が遅かったら、ドクドクター白酒バイジュウの瓶をあけてたぞ」

スンさんがいれば問題ないでしょ」

「先生がふたりいるの?」とミオ。

 診療所の事情を知らないミオが聞けば、当然そう思うだろう。

「医者はひとりだけど、外科領域ではふたりと言えなくもない」

「そのいい加減な感じ……聞かなかったことにしとく」

「賢いお嬢さんさんだな」

 笑うとさらに凄みが増す警備員に小さく肩をすくめ、ドアをくぐった。少し冷んやりした空気につつまれる。

「暴れたりしなきゃ何もしない。さっさと行ってくれ」

 狭い廊下で警備員とすれ違わないといけない。そこでミオが尻込みしていた。

 わからないでもなかった。見せつけるようなタトゥーこそないいが、きつい三白眼とシャツを押し上げるメロン肩の警備員は、本人にその気がなくても威圧してくる。

「警備員の優秀さと人相見た目は関係ない。早くおいで」

「この見た目は、しつけの悪い客相手のとき役に立んだ」

 警備員が苦笑いとともに両手をあげてみせた。何もしない意思表示。やっとミオがすべりこんできた。

 先に進むには、もう一枚ドアを開けてもらう必要がある。スチール製の頑丈なドアを開錠してもらい、そこから地階への階段をおりる。そうしてやっと診療所にたどりついた。

 プレート看板もウィンドウサインもない正体不明な入り口を見たミオが、ぽつりともらす。

「違法賭博場ってこんな感じ?」

「用心がいるんだよ。いろいろと」

 ここにくるまでにあった秘密基地に入るような手間と分厚いドアが、やってくる患者の素性をあらわしているといえた。



 黄泉の国にあるような地階の診療所も、中に入ってしまえば一般的な診療所とかわらない。内装や備品に年季が入っていても、清潔で明るい。アイスのほかに患者はおらず、すぐ処置室に通された。

「八針ぐらい縫えばいけるな。洗浄と縫合やっといて」

 傷の深さを確かめると、ドクターは早々にスンにバトンを渡した。

「所長室にいる。なんかあったら呼んで」

「佐藤さんの処置がすむまで、まだ呑まないでくださいよ。万が一だってあるんですよ!」

 鷹揚に「わかった」とだけ言って出ていく。その後ろ姿が消えてから、処置室までついてきたミオが訊いた。

「スン先生は新人さんなんですか?」

 小柄な身体に贅肉はみあたらず、どちらかというとほっそりしている。それでも顔つきから、中年期は余裕で迎えていることがわかる。

 三十代以上の新人医師だっていないわけではない。柔軟な考え方でミオは訊いたのだが、スンの答えはその上をいっていた。

「いえ、わたしは看護師ですから」

「……あれ?」

 言われたことが、すぐには飲み込めなかったらしい。きょとりとしていたミオが、ようやく当然のことを自信なさげに言った。

「看護師さんって縫ったりとかはできない……ですよね?」

「まあ、そうですね」

「でもさ、考えてみてよ」

 準備にかかるスンをわずらわせないために、アイスは話をひきついだ。

「優秀な医師についている看護師なら、その処置をずっとそばで見学し続けてて、ときに手伝うこともある。だからこういう看護師のほうが、新人医師よりずっと頼りになることだってあるんだよ」

「ここにいたら刺傷、切創、銃創の経験はダントツで積めますからねえ。人手がないから実践もできますし」

「え? ちょ……まって、それが看護師さんがやってもいい理由には……あっ、銃創って銃で撃たれたケガのことですよね? 確か警察に——」

「そこのドアを出たとこが待合室になってるから、テレビでもみてて」

 追求が深くならないうちに追い出しにかかる。

 ミオに見せたほうが怪しい診療所——部分的にそうなのだが——の誤解を持たれなくていいだろうと、処置室にまで入れたのは失敗だった。

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