6話 こっちの水は甘い
怜佳が事務所の奥へと先導して歩く。その背中につきながら、アイスは内部に視線を走らせた。
事務スペースだけでなく、備品などの物置にもなっていて、そこそこ広い。
外観とおなじく時を経た感のある事務所だった。重なった埃が建物の一部となって内装の色をくすませ、モノクロ映像のなかに入り込んだような錯覚がおこる。
ブラインドが下ろされているせいで、室内は薄暗かった。壁際に設置してある消火用品の赤と、埃でくすんだオレンジ色の羽が、とぼしい彩になっていた。
後者は、スタンドタイプの
事務所全体が埃っぽいのだ。
古くても整頓がいきとどいた事務所なのに、細かな砂だか錆だかが床に散ったままになっていた。
「どうぞ座って」
怜佳が給湯スペースの隣、パーテーションで区切られたスペース入る。ソファに目的の人物がいた。
「こちらのお嬢さんが騒動の元だよね」
本日の主役である高須賀未央が、ソファから立ち上がることなく応えた。
「人聞き悪いこと言わないで。騒ぎにしてるのは、そっちじゃない」
冷たい視線で刺してくる。厳しいセリフはまだ続いた。
「怜佳さんが言ってた殺し屋って、このひと? 全然見えないんだけど」
らしく見えないのは本人がいちばん承知している。そこはともかく、
「ずいぶんストレートな職業説明だこと」
「違うって言わないんだ」
事実と認めてもミオは落ち着いていた。
「作り話だとでも思ってる? 殺されるかもよ、高須賀未央さん」
「特に持病もない高校生が『病死』じゃおかしい。『事故死』で?」
「くわしいね。あと、そういうふうに取り繕う必要がない方法もある」
「でも、わたしを殺したらお金が手に入らない。怜佳さんに聞いた限り、そんな馬鹿をする人だとは思えない」
アイスは視線を怜佳にうつした。
「あたしを持ち上げてくれたのは、この子にあなたの『提案』を納得させるため?」
「将来がかかってることを本人抜きで実行するわけにはいかないから」
「そして最初の『話をすすめましょう』? あたしを巻き込むために、ここに隠れてるって密告させて、来るように仕向けた。ほかの部下が来るかもしれないのに」
「体面を気にするディオゴが、逃げた妻の後追いを手下に任せるはずがない。かといって本人は、目下の仕事に忙しい。となるとディオゴの好物が実はシュークリームだってことまで知ってる佐藤さんに任せるしかない」
「話の流れからして、ディオゴを裏切れって持ちかけられてる気がする」
「裏切れないほどの関係?」
確信しているような目に、アイスは答えに詰まる。
考えないようにしていたことだった。
「座らないの?」
アイスは立ったままでいた。ソファの後ろから動かず、少しの距離をおいている。
その距離を怜佳は、ただの物理的な意味だけにとらない。座っている怜佳が、下から見上げる形になっていることを計算に入れ、懇願するように言った。
「ディオゴから身を守るために、佐藤さんに味方になってほしい」
「そんな交渉をするぐらいなら、あたしのことは調べたでしょ? ディオゴとは五年、十年のコンビじゃない」
「<ABP倉庫>のトップを決める経緯をディオゴから聞き出した。佐藤さんがトップを譲ったことに、納得できる部分はある。
わたしは大学生の頃にはすでに<オーシロ運送>の経営にかかわってた。あるとき電話をとったら、初めてかけてきた先方から『男を出せ』って言われたことあるもの。ご希望にそって、二日前に入ったばかりの中年男性を出してあげたけどね。
新しい取引先をふいにしたかもしれないけど、惜しいとは思わなかった。そんな相手、先々でトラブルをおこす可能性が高いし、わたしにっては『しょうがない』で忘れられる話でもない。たとえ面倒をおこさないやり方だとしてもね。
わたしが<ABP倉庫>にノータッチだったのは、仕事内容や麻生嶋が気に入らないことと並んで、裏業界のマチズモに迎合するなんて、まっぴらだったから」
アイスは気にしていないふりをしてきた。その割きれなさを怜佳が一気に代弁していく。
「根拠もなしに、ディオゴを見切れって言ってるんじゃない。
佐藤さんとディオゴで新しく<ABP倉庫>を起こしても、商売のやり方は古い慣習そのまんま。縁の下で佐藤さんを働かせて、派手な成果はディオゴのもの。わたしにはディオゴが、佐藤さんを都合よく使ってるようにしかみえなかった」
「はっきり言うね」
「信用してもらいたいから本音で話してる。それに傍から見ていての疑問もある。ディオゴとのあいだに信頼関係は本当にあったの? 裏切りっていうのは、信頼関係にある者同士でこそおこることよ。ここで佐藤さんがディオゴから離れることが裏切りになる?」
「十年前に聞かされてたら気持ちが動いたかも」
「いまからでも遅くない。これを機会に<ABP倉庫>から自由になればいい」
「トラブルは御免だ。逃亡者として生き残る元気だって、もう残ってないよ」
吐き出した言葉は、いつもの笑みとともにあった。
お気楽なのか、あきらめの笑みなのかわからない、曖昧な笑み。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます