5話 わたしは逃げない隠れない

 長く使った建物は、愛着もそれなりに大きくなる。

 そうはいっても麻生嶋あそうじま怜佳れいかの実家がもつ社屋は、廃墟の二歩手前といってよかった。

 波型スレートの外壁や屋根は色があせ、看板も紫外線で劣化して<オーシロ運送>の社名がぼやけている。内部も外観と同じようなもので、埃と汚れが厚く染み込んでいた。

 事務所は殺風景かつ簡素につき、デスクやイスは予算不足の役所のフロアのものより古びている。ごっそりファイルが減ったキャビネットも、こうして見るとあちこち塗装がはげてサビが浮きはじめていた。

 クーラーはいちおうあるが、経年ですっかり色がくすみ、息切れしているような稼働音を響かせている。よくこれまで動いていたものだと思う。

 彩乃あやの——ミオの母親のオフィスとは天と地ほどの差だな。

 ひとりで苦笑しながら、怜佳は給湯スペースの小さな冷蔵庫から、冷やしたジャスミン茶を用意した。ひとつは客用のグラスに入れ、そばのソファにおさまっている高須賀たかすが未央みおのまえにおいた。

「ここにいても退屈でしょ。ミオは従業員用の休憩室にいたら? テレビがあるよ。ほかに誰もいないから、気兼ねはいらないし」

「どうしてここまでやってくれるの?」

 グラスを見つめたままでミオが訊いてきた。

「後見人なら当然じゃない」

「会社の仕事に影響させてまで?」

 彩乃に問い詰められているようだった。母親に似た聡明さをうかがわせることがあり、将来が楽しみだ。

 学生の頃に知り合った彩乃との友人関係は、お互いが結婚してからも切れることはなかった。ミオが生まれると、今度は三人で会うようになっていた。

 ベビーウェアを着ていたミオが大きくなり、言葉数が増えるほど、子どもと話している気がしなかったのを思い出す。 

「ミオが思うほどの悪い影響はないよ。損しないよう、ちゃんと考えてやってる」

「なら、いいんだけど……」

 重要な紙資料や帳簿の類は、移動させてある。従業員には仮事務所で仕事をしてもらっていた。

「そんなことより、また背中曲がってる!」

 ミオの背を軽くはたいた。

「ソファに座ってるんだから、しょうがないよ」

「立っていても、肩が前に丸まってるよ?」

「だって……目立つのイヤだから」

「せっかく背が高いんだから、背中のばしてカッコよく見せなきゃ、もったいなくない? 彩乃だって、あの身長でヒール履いてたんだよ」

「…………」

 しまった。母親を思い出させる余計なひと言をいってしまったか。怜佳は話題をかえた。

「ごめんね。麻生嶋がもっと一般的な夫婦だったら、ミオを引っ張り回すようなことにならなかったんだけど」

「いまからでも断ってくれていいよ」

「なにを?」

「後見人」

「……やっぱりいや? わたしの実家は実家で、こんな零細企業だし——」

「そうじゃなくて! 怜佳さんが危ない目に遭うのが厭なの。施設にいくほうが、わたしも気が楽だし……施設にだって、いい人はいるっていうし……」

「気を遣わせてごめん」

 隣にすわった怜佳は、ミオの肩を抱いて告げた。

「後見人はわたしにやらせて。ミオのこれからを支えられるのも、唯一無二の親友に頼られたのが嬉しいっていうのも本当だから」

 ただ、彩乃にはもっと早くに頼ってほしかったと思う。

 自らの身を犠牲にする手段しか考えられなくなるまえに相談してくれていたら……。

 連絡はいつも彩乃からすることになっていた。そうして比較的、時間の自由がきく怜佳が、彩乃の仕事の都合にあわせて会う。

 連絡がこなくなったのは、仕事の締め切りのせいだと怜佳は思っていた。

「ほんとに〝そのひと〟来るのかな」

 悔恨から現実の問題に引き戻される。グラスをとろうとしていた怜佳は、結露で手をすべらせた。

「っと! あぶない、あぶない」

 ミオには照れ笑いでごまかす。これから来るはずの人物に緊張していた。

 見目は平凡で、給湯室で和んでいる会社員のような雰囲気をいつもただよわせている。その実、<ABP倉庫>の汚れ仕事を引き受けてきた女を待っていた。

「もしかしたら、平穏な話し合いですまないかもしれない。だからミオには別の場所で隠れていてほしかったんだけど?」

 ダメ元でもう一度訊いてみたが、

「味方になるかもしれない人なら、わたしも会ってみたい。怜佳さんが話をしようとするんだから、むやみに暴力をふるったりする女性じゃないんでしょ?」

「そんな軽率なことはしないと思う。希望的観測も入れてだけど」

 彼女の<ABP倉庫>での立ち位置はディオゴの下だが、実質的には対等というのが、昔を知るABP社員たちの見解だった。

 しかし怜佳には、それ以上にみえた。ディオゴをうまく制御して<ABP倉庫>をまわしていそうな気配すら感じた。

 だから勝負に出る。

 ディオゴが資金調達にやっきになっていたところに飛び込んできた後見人話だ。彩乃とその夫の遺産に、ディオゴが強引な方法でもって手を出すことは想像に難くない。身を隠すだけでは不十分だった。

 ディオゴから逃げているだけでは解決しない。

 そして、怜佳が大胆ともいえる計画をたてたのは、ディオゴに報いを受けさせるためだ。



 アイスは、<オーシロ運送>の壁面看板を車検場と駐車場にはさまれた建物に見つけた。

 目当ての運送会社は、駐車場の広さからして2トンや4トン車を中心にしているらしい。憶測なのは、トラックが一台も停まっていないからだ。

 仕事ですべての車が出払っているのか、ディオゴからの使いを想定して人払いさせたか……。後者なら手間がかかりそうだった。

 アイスの望みは、怜佳とミオが逃げていてくれること。

<ABP倉庫>からここにくるまでの間、ディオゴが高須賀未央を取り戻すために使うだろう手段を予測してみると、力づくになる展開しか思いうかばない。

 子どもをまじえて、そんなことはしたくないし、私情がまじったゴタゴタに関わるのも御免だった。

 すでに怜佳たちに戻ってくるよう説得する気力は失せている。説得の台詞が思いつかないのは、このまま逃げたほうが怜佳も幸せなような気がすることもあった。

 逃げたとすれば、勝算は怜佳にある。

<ABP倉庫>は大所帯ではない。限られた数の追っ手の目をかいくぐり、街の外に出るのは、さして難しいことではないのだから。



 アイスは<オーシロ運送>の銘板が掲げられたドアの横、インターホンを押した。真正面からくる間抜けな追手を出し抜いてくれますように。

 その願いも空しく、怜佳が出てきた。

「入って。わたしとミオ——高須賀未央しかいない」

 淡いベージュのサマーカーディガンに、ミディアムブルーのボトム。いつものナチュラルカラーでまとめた怜佳に、二メートルの距離をおいたままでお願いする。

「怜佳さんが〝そういうこと〟をきらう人だって知ってるけど、背中も見せてくれない?」

 逃すつもりでいるが、殺られるつもりはなかった。追い詰められたり、思い詰めた人間は、何をしてくるかわからない怖さがある。

「そういうことを〝きらっていた〟って過去形になったから、どうぞ調べて」

「…………」

 意味ありげな台詞に、それ以上の説明はなかった。怜佳は身体を反転させ、自分からカーディガンの裾をあげる。

 ウエストや背中に何も隠していないことを証明し、

「武器は持ってない……あ、そっか」スキニーデニムに手をかけた。

「下着になって見せれば信じてもらえるよね」

「脱がなくていいよ」思わず本気の笑みがでた。

「スキニーパンツの下に隠せる方法があるなら、ぜひ知りたい」

 アイスがここに来た目的を察しながらのおふざけ。なかなかの胆力だ。

「お互い、はじめましてじゃないし、すぐ話をすすめましょう。わたしがこのまま連れ戻される気は一ミリもないのは見当がついてるでしょ?」

「逃げる気はないんだ」

「言ったでしょ。提案があるの」

 自信に満ちた双眸をアイスにむけた。

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