第147話 引退


 「まーたミミズ腫れになってるよ。やっと治ってきたところなのによぉ。お前には先輩を労わる気持ちはないのか?」


 「先…輩…?」


 「おい」


 「冗談っすよ。ガチでやってくれって言ったのは、桃山さんでしょ。俺はそれに従って心を鬼にしてやってるんですよ」


 「忖度ってもんがあるだろうがよぉ」


 「めんどくさ」


 桃山さんとのスパーリング終了。ここ最近の桃山さんはかなり気合いが入ってる。次の試合が引退試合だからだ。


 日本チャンピオンになって防衛を一度成功。しかし、スパーリング三銃士の中では最年長。今年で36歳なのである。年齢的にはボクサーとしては引退しててもおかしくないのだ。


 本当はもっと早く引退する気でいたらしいけど。俺の熱に当てられて、最後に日本チャンピオンに挑戦しようと思ったらしい。結果が付いてきて本当に良かったよね。


 で、そんな桃山さんはとうとう燃え尽きようとしている。日本チャンピオンになった事が一種の区切りになって、前ほどのモチベーションを維持出来なくなったみたいだ。


 そして一ヶ月後にある防衛戦で結果に関わらず引退を決意した。そこから最後の火を燃やすぜとばかりに練習に励んでる。


 で、そんな姿を見せられたら協力しない訳にはいかない。俺もいつもスパーリングしてもらってるし。


 それにこんな事を言ったら身も蓋もないが、俺は今暇なのである。白鳥さんが頑張ってくれてるが、俺の次の試合はまだ決まってない。本格的にチョ・ジンホ選手を煽ってやろうかと考えてるくらいだ。


 そんな事もあって、俺は桃山さんにほぼ付きっきりで練習している。勿論、自分の練習は疎かにせずにね。


 次戦の対戦相手を模倣したスパーリングの後は、世界チャンピオンの本気を味わいとかで、俺のいつものスタイルでのスパーリング。


 まあ、フリッカーで安全圏から串刺しにするよね。前回の試合で味を占めちゃった。相手に何もさせないのって、思った以上に快感なんだよ。


 「で、身体の調子はどうなんすか?」


 「過去一の仕上がりだな。これで最後って思ったお陰か、身体が最後の力を振り絞ってくれてるよ」


 ジムで隣同士シャワーを浴びながら、進捗の確認をする。減量も順調、身体のキレも絶好調。


 一ヶ月後の試合に向けて視界良好って訳だ。


 「桃山さんが居なくなるって考えたら寂しくなりますねぇ」


 「おっ? なんだなんだ? センチになりやがって」


 「俺がこのジムに来た頃からずっと居ましたし」


 「いつもの店に来てくれたらいつでも会えるじゃねぇか」


 「まあ、そうですけど」


 試合が終わったらいつも打ち上げをする居酒屋。桃山さんはそこでずっとバイトをしていて、ボクサーを引退したら、大将の跡を継ぐ為に料理人の修行が始まる。


 そこまで大きな店じゃないけど、居心地が良くて地元の人に愛されてる良い店だ。ボクサー生活が終わった後にそういう道が用意されてるのは、まあ幸せな事だろう。


 「勝って最高の引退の花道を飾ってくださいよ」


 「当たり前だ。せっかくチャンピオンになったんだ。最後にケチを付けてたまるかよ」




 

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