逆と応用(副題:戦争 ヤクザ対サラリーマン)
ナリタヒロトモ
第1話
逆と応用
(副題:戦争 ヤクザ対サラリーマン)
1.冒険の始まり(副題:犬も歩けば棒に当たる」
4月1日 金曜日
一人残されたオフィスで神田ヒロシは報告書を書いていた。
総合商社アテナ商事の総務部部長付き課長、44歳、バツイチの独身であった。1年あまりのいつわりの結婚生活を清算し、今は1人で暮らしている。子供もいないので特に金に困ることもなかったが、自分の存在証明みたいなものを求めて日夜働いているのだった。
しかし神田ヒロシは仕事に全く興味を持っていなかった。同期トップの成績を上げながらも退屈でしようがなかった、酒にも女にも興味がなかった。
仕事をしても達成感はなく、何の刺激も感じなかった。
その結果が成績にも響き、総務部へ異動し今回のミッションを仰せつかったのである。
1か月アテナ化学社員の新橋ヨシヲ50歳が自殺した。事件当時、それは明らかな自殺であった。ホテルにて1人で睡眠薬を多用したことによるものだった。自殺は当然防ぐべき災害であるが、世界中で起きていることであり、ある一定の確率として起きるものともいえる。(*)
*世界自殺者数ランキング 1位 インド 176,268人、2位 中国96,172人、3位 アメリカ47,714人、4位 ロシア31,508人、5位 パキスタン21,158人、6位 日本20,169人、7位 ナイジェリア13,806人、8位 南アフリカ13,703人、9位 ブラジル13,528人、10位 韓国10,808人
それにJR中央線を利用する人にとっては月曜日の運転見合わせはリアルな自殺を想起させる事象だ。サラリーマンが感じる月曜日朝の憂鬱はこのような形で具現化される。満員電車で隣の人の吐息を感じながら、痴漢に間違われないように両手でつり革につかまり、スマホで原油高のニュースを見ながら、何かしらの事情があった人に同情と憐憫と、(出来れば別に日にしてほしかった)という気持ちを抱くのだった。(*)
*引用:マイニュースジャパン記事 鉄道自殺・事故死者数ランキング、1位は中央線 年21人死亡 2008年度は全国の駅で381人が死亡、うち自殺が355件で、ほぼ毎日1人ずつが駅での自殺を選んだ計算となる。「ホームからの転落」は1割未満だった。首都圏38の路線別に集計したところ、死亡者数トップはJR中央線の21人。うち20人が自殺となっており、「中央線は自殺が多い」という噂をそのまま裏付けた。
しかし今問題となっているのは、新橋ヨシヲが反社会的勢力と関係を持っていたという事実が分かったことだ。
それは死後、水道橋ヨシヲの帳簿を整理していて分かったことだ。横領ではない。いくつかの化学品が不明確な商流でアテナ商事の口座で売却されていた。その先は有限会社サラミスとなっているが、それはペーパーカンパニーで実在せず、警視庁資料に照会した結果、実質的に仕切っているのは広域暴力団龍神組と分かったのである。
化学品はものによってはテロにも使用され、また環境への影響も懸念されるので、化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(略称:化審法)、特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律(略称:化管法)といった法律の厳しい規制を受けている。
しかし今回流通したのは法の対象とならない通常の化学品であった。
それが何故ヤクザに流れたのか?分からなかった。
この問題を解くにはアテナグループ企業全体の取り組みが必要であった。その旨を神田ヒロシは報告書に記すと、週明けに3人からなるプロジェクトチームが組まれた。
パーティはアテナ商事神田ヒロシ、アテナ化学蒲田滝人(現在東京ペロポネソスへ出向中)、アテナ証券鶯谷サト子からなる。
物語はここから始まるのである。
4月4日 月曜日
東京秋葉原でキックオフミーティングが行われた。ミッションの性格上、社外の会議室が使われた。貸しビルの2階で3階はメイド喫茶、1階はフィギュアが売られているラブリーな場所だ。
プロジェクトメンバー3人がそこにいた。
「自己紹介から始めましょう。では私から」
と神田ヒロシが切り出した。
「神田ヒロシ、44歳です。総合商社アテナ商事の総務部部長付き課長です。今回のミッションではプロジェクトリーダーを務めます。よろしくお願いいたします。我々の業務は今回の故新橋ヨシヲ様の取引がイリーガルかどうかを見極めることです。わずか5日間の業務になりますが、どうかよろしくお願いします。」
アテネ物産はアテネグループの総合商社であった。
資本金3600億円、年間売上高8兆円に及ぶ大企業である。
そこまで言った後、少し沈黙し、続けた。
「お二人には私を知って頂いた方が良いのでもう少し話します。30歳の頃、結婚し、1年で離婚しています。そのため結婚の話は振らないでください。離婚の原因は私がホモだからです。1年あれば何とかなると思いましたがやはり女性には上手く行かなかったです。妻には悪いことをしました。そのため童貞です。」
鶯谷サト子が聞いた。
「フフフ。男性相手では童貞ではない?でよろしいでしょうか?」
神田ヒロシは答える。
「男性相手なら経験はありますし、そういう人もいました。すみません。しゃべり過ぎました。この話はここまでとしてください。」
鶯谷サト子がさらに聞いた。
「男性相手では入る方でしょうか?入られられる方でしょうか?」
その質問に、神田ヒロシは時間をかけて迷った上で答えなかった。
「すみません。次の方、お願いします。」
続いて、鶯谷サト子が話した。鶯谷サト子は小柄だが、体の線が分かるようにピッとしたグレーのドレスを着ていた。
「鶯谷サト子、33歳です。アテナ証券の法人営業部に勤めています。先に言っておきますと、私は色情狂です。初体験は覚えていないほど昔です。その後は1日平均3人の相手をし、33歳現在で約2000人の経験があります。また学生時代から世界を旅し、世界中の男を相手にして、国連加盟197か国のすべてを達成しました。
フフフ。今回の仕事ではプロジェクトがグループ企業株価に及ぼす影響を確認するために派遣されました。とは言え、出来る仕事はありません。コピーとかお茶とかを請け負いますので何でも言ってください。」
そう言った鶯谷サト子の顔はかすかに上気していた。今はまだ午後2時であるが、午前中にすでに2人をこなしていたのだ。
ホモの神田ヒロシは警戒を誓った。
続いて、蒲田滝人が話した。蒲田滝人はデブの上にハゲであり、だらしなく、くたびれた紺のスーツを着ていた。ネクタイは毛羽が立っていた。
「蒲田滝人、55歳です。アテナ化学からもう20年も東京ペロポネソスに出向してます。最初に申しておきますと、私はアルコール依存症です。二日酔いが覚める朝10時から呑んでいます。そんなには吞みませんが、1時間おきに軽く呑んでいます。医者から厳しく指導され、断酒会連盟にも入っていますがうまく行きません。断酒会では吾妻ひでお(*)にも会ったこともあります。」
*今世紀最大の漫画家
「今回問題となった化学品がアテナ化学のものだったため、派遣されましたが、会社は本件に重きを置いておりません。そのため私のような者が来ました。申し訳ありません。多分、仕事でお役に立てることは何もありません。雑用は鶯谷サト子様がされるとのことなので、私は迷惑にならないように端の方にいます。」
アテネ化学はアテネグループの化学会社であった。
資本金1200憶円、年間売上高1兆2千億円に及ぶ大企業である。
蒲田滝人はすでにアルコールの匂いを漂わせていた。目はうつろで、よだれが垂れていた。
神田ヒロシは天を仰いだ。
それは色情狂とアル中と童貞、しかもホモというパーティが結成された瞬間であった。現在のところ、レベル0。しかも相手はヤクザだ。
ヤクザの平均年収は1500万円(*1)というデータもある。一方、サラリーマンは500万円程度(*2)である。
*1 参考:年収ガイド抜粋
「ヤクザ1000人に会いました」(宝島社)鈴木智彦著によると
・それなりに 成功している幹部クラス 4000万円前後
・過去の警察資料 2000万円強
「暴力団」(新潮社)溝口敦著によると
1989年の暴力団の収入総計が約1兆3000億円。
当時の組員は約8万8000人であったため、1人当たりの年収は約1500万円でした。当時はバブル全盛であったため地上げなどの資金源が数多くあり、ヤクザにとっては恵まれた時代でした。
*2 参考:All about money
サラリーマンの平均年収は、国税庁の民間給与実態統計調査(令和元年)によると436万4000円です。日本経済団体連合会(経団連)の調査だと平均年収は約663万2000円(※)、厚生労働省の賃金構造基本統計調査(令和2年)だと平均年収は459万8000円となります。
マンガ、テレビ、映画、みんなヤクザが大好きだ。ヤクザが腰の重い警察に代わって悪を罰し、何もできないサラリーマンはそれを見ているだけで、バカを見る間抜け役だ。ヤクザは金持ちで思いやりがあって、トラブルを解決し、親切で、気っぷが良く、頭も良い。新田たつお著『静かなるドン』(*)では間抜けなサラリーマンが実はカッコいいヤクザの親分だったというお話だ。
*『静かなるドン』(しずかなるドン)は、新田たつおによる日本の漫画作品。1988年の11月15日号より2013年1月8日号(1号)まで『週刊漫画サンデー』[注 1](実業之日本社)にて連載された。漫画サンデーの最終号に特別編として『賑やかなるドン』が掲載された。第42回日本漫画家協会賞大賞受賞。2016年12月時点で累計発行部数は4500万部を突破している。(とても面白く、傑作です(著者意見))
本宮ひろ志については上げるまでもないだろう。中卒で元自衛隊員の描くヤクザマンガにサラリーマンはみんな夢中だ。(*)
*本宮ひろ志 日本を代表する大漫画家。若い頃より不良グループの一員としてケンカ三昧の学生生活を送る。中学校卒業後、酒乱の父親から離れるべく熊谷基地の航空自衛隊に自衛隊生徒として入隊するも、「他人に命令されることが嫌」という理由で17歳で除隊。当時流行していた貸本劇画に影響を受け、漫画家を目指す、という経歴の持ち主。Wikipedia参照
ヤクザが料理をしたり(*1)、夜食を作ったり(*2)、学校の先生になったり(*3)、政治家になったり(*4)、マンガの世界ではヤクザは万能で大人気だ。ヤクザになれなかった間抜けはサラリーマンにしかなれないと言った漫才師もいた(*5)。
*1 マンガ「極道飯」
*2 マンガ「侠飯」
*3 マンガ「ごくせん」 正しくは組長の娘が先生になる
*4 マンガ「サンクチュアリ」
*5 ビートたけし
ヤクザはベンツに乗るがサラリーマンはタクシーに乗るのすら躊躇し、いつも満員電車に乗る。ヤクザは六本木で飲むがサラリーマンは御徒町か、新橋がせいぜいだ。ヤクザは女にもてるが、サラリーマンはその3割が童貞だ。
もうすでに何一つ勝てる要素がない。神田ヒロシは本当のところ、もうあきらめていた。
3人の打合せは、1年前にあったアテナ化学と有限会社サラミスの間の不明確な取引と、それに関係するか不明であるが、その後のアテナ化学社員である新橋ヨシヲ自死の事実確認で終わった。
窓の外は夕暮れになり、鶯谷サト子は男たちとの饗宴のためそわそわしだした。その時だった。ドアが開き、4人目が現れた。
「ホホホ。アテネ生命の鶯谷キョーコです。遅くなってすみません。」
とゴスロリ風のドレスで女が現れた。
アテネ生命はアテネグループの生命保険会社であった。
資本金1700憶円、総資産7兆円に及ぶ大企業である。
「アテネ生命は本プロジェクトの保険業務を請け負いますので、それをお伝えするために参りました。私自身はメンバーではありませんし、もうお会いすることも多分ないと思います。」
と鶯谷キョーコは言った。
神田ヒロシは保険関係の連絡が入ると言われていたのを思い出したが、それよりも見た目で明らかに鶯谷キョーコと鶯谷サト子が双子なのが気になった。
鶯谷キョーコは手短に言った。
「鶯谷キョーコ、33歳です。ホホホ。アテナ生命の法人営業部に勤めています。お気づきと思いますが、一応言っておきますと、そこいる性依存症、またはセックス依存症の姉、鶯谷サト子の妹です。でも姉とは全然違います。処女です。男性とも女性とも付き合ったことがありません。アニメ、マンガ、コスプレ、同人誌、といった自己愛に夢中です。
きっと何者にもなれないお前たちに告げます(*)。
今回の仕事ではプロジェクトがグループ企業社員に及ぼす影響を確認するために派遣されました。性病で脳を患っている姉と違って、私は何でもできますが、何もしません。今日もこれで帰り、もうお会いすることもないと思います。」
(*)廻るピングドラム(アニメ)
鶯谷キョーコは一人でしゃべると出て行った。
アテネグループ企業に勤めている者はほぼ全員がアテネ生命の掛け捨て保険に入っている。今回のミッションで3人の保険料は引き上げられたがそれは各々の会社もちとなっていた。
17時になり、本日のミーティングは解散となった。
鶯谷サト子は神田ヒロシの貞操に興味を持ち、何度も執拗に誘ったが、それが信念というよりも自信のなさから来るのもだと見抜くと、鶯谷サト子はさっさと他の男たちのところへ消えて行った。
プロジェクトで交際費の予算はなかったが、せっかくのキックオフなので神田ヒロシは蒲田滝人を誘って初日の打ち上げに行った。
蒲田滝人はセブンイレブンの7プレミアム焼酎 20度 220ML(148円)を駅のベンチでストローで飲むケチな男で、神田ヒロシが
「今日の分だけ交際費で落ちますので」と言い、ようやくついてきた。
今や世界中で人気の秋葉原も昭和通りを過ぎると安い店が多くある。蒲田滝人の案内で美味しくないが安くて飲める安物の店に、役立たずだが辛うじて解雇には至っていない安物の2人は入った。
90分980円の飲み放題のコースでそこそこ食べて、2人で5000円程度を神田ヒロシは見積もった。今日は自腹なので真剣である。
安くて質の悪い酒は良く回り、この安くて惨めな人生をそれなりに慰めてくれる。
濃い目のハイボールを6杯ほど飲んだ後だった。
ネクタイが毛羽立った蒲田滝人は話し出した。
蒲田滝人はその生涯を海洋プラスチック問題の解決に費やしていた。それは大学で化学を専攻し、化学会社に入った者の矜持とも言えた。
海洋プラスチック問題とは、
・海洋プラスチックによる海洋汚染は地球規模で広がっている。
・北極や南極でもマイクロプラスチックが観測されたとの報告もある。
・2050 年までに海洋中に存在するプラスチックの量が魚の量を超過すると予測されている(*)。
・海洋ゴミの中ではプラスチック類が最も高い割合を占めている。
* (出展)The New Plastics Economy: Rethinking the future of plastics(2016.Jan. World Economic Forum)
では誰が海洋プラスチックゴミを出しているのか?
中国+インドネシアで約4割を占めており、海洋プラスチックゴミはこの2国が主原因*4。
・海洋プラスチックゴミのG7割合は2%
・G20(G7除く)で46% 中国は単体で約28%
・ASEAN 19%、その他 33%
両国とも7 割以上のプラスチックゴミがmanage(管理)出来ていない*5。
*(出典)環境省プラスチックスマートキャンペーンについて
2019年6月にはG20大阪2019サミットが開催され、「海洋プラスチックゴミ」は大きく
取り上げられた。
外務省はマリーン(MARINE)・イニシアティブ(2019年7月)の下で,具体的な施策を通じ,廃棄物管理,海洋ごみの回収及びイノベーションを推進するための,「途上国における能力強化を支援していくことを表明した」。
これはとても重要なことで、ようやく海洋プラスチック問題に解決の糸口が見えて来たとされた。
本来なら2020年は海洋プラスチック対策を中心とした環境対応の年になるはずであった。
しかしここでウイルスによるパンデミックが起きてしまった。
「ウイルスの感染拡大により世界各地で検疫体制が導入され、パンデミック以前との比較で温室効果ガスの排出量は5パーセントも低下した。その一方、医療用マスクや手袋、消毒液のペットボトルなどが大量に消費されていることから、プラスチックごみによる環境破壊が進んでいるという。国連貿易開発会議(UNCTAD)が2020年7月27日に発表した報告書で明らかになった。
国連報告書によれば、ウイルスの感染拡大以前から問題視されていたプラスチックごみによる環境破壊は急速に規模を拡大しているという
パメラ・コーク・ハミルトンUNCTAD国際貿易部ディレクターは、ウイルスの感染拡大防止対策として特定の商品が日常的に大量消費されるようになった結果、環境破壊は悪化を続けていると警鐘を鳴らしている」と表明した。(*)
*引用:スプートニクニュース
海洋プラスチック問題に向けたODA日本の府開発援助(せいふかいはつえんじょ、英語: Official Development Assistance)は止まり、人の動きの止まった世界の中でJICA独立行政法人国際協力機構(どくりつぎょうせいほうじんこくさいきょうりょくきこう、英: Japan International Cooperation Agency、略称: JICA)は何の働きもできなかった。
うだつの上がらないオッサンのどうでも良い話を神田ヒロシは聞いていたのだけど、その内、眠くなってしまった。
飲み放題は90分なのであと5分もなかったが、神田ヒロシは何故か自分自身のことを話し始めた。今までずっと胸に秘めて来た思いを、今日会ったばかりで、こんな何の親近感も湧かない酔っ払いに話すのは自分でも不思議だった。きっと安物の酒が安物の人生を語らせるのだろう、神田ヒロシはそう思った。
神田ヒロシには3つ違いの弟がいた。早くから自分の性癖に気が付いていて神田ヒロシは弟に神田家の将来を背負って欲しいと思っていた。
神田ヒロシの弟は兄と違い、明るい性格で皆に慕われた。また女性とも不通に接することができた。頭もそこそこ良かったし、スポーツマンだった。
しかし得てしてそのような人生こそ順調に行かないものである。中学の頃、両親が離婚してからは、万引きと補導を繰り返すようになった。そうした弟と母親を見捨て、神田ヒロシは大学入学と同時に1人で上京したのだが、弟は高校を中退するとヤクザになってしまった。
ヤクザは面倒見が良くて、そのような半端者を拾う避難所みたいに思われているが現実は違う。
神田ヒロシの弟ムサシはヤクザになると同時に消費者金融に上限いっぱいまで借金をさせられると、その金を組に納めさせられた。
まだ18歳だった神田ムサシの人生はそれで詰んだのだった。もう誰もお金を貸してくれないし、家も車も買えない。結婚だって出来ない。28歳の頃、結構な薬物中毒になった後、もう誰も神田ムサシとは会っていない。(*)
*著者体験談
それが本当のヤクザだと神田ヒロシは知っていた。強欲で、情け容赦のない、法を守らないクズだ。
飲み過ぎた二人はそれぞれJRと都営新宿線に別れると、飲み過ぎた1日目を後にした。
To be continued…
2.冒険の書(副題:論より証拠)
4月5日 火曜日
東京秋葉原で2日目のミーティングが行われた。
案の上、蒲田滝人は来なかったので神田ヒロシはメールを入れると鶯谷サト子2人で水道橋ヨシヲの家へと行った。秋葉原から上野に行き、宇都宮線へ乗り換える。
北上し、大宮を越える田んぼばかりが広がる。水道橋ヨシヲは退職までのローンでマッチ箱のような小さな家を埼玉県の北の果てに建てていた。駅からは結構あって、その道のりを毎日通勤していた水道橋ヨシヲの苦労が偲ばれた。
1か月前、水道橋ヨシヲを亡くした家族はそのまま家に住み、何とか日常を取り戻そうとしていた。
訪問は予め電話で伝えてあった。インターホンを押すと水道橋ヨシヲの妻が出てきた。狭い家はリビングのわきに仏壇をどうにか置いていた。仏壇は小さなものであったが、線香の香りはリビング中に沁み込んでおり、線香の火が欠かされてないことを語っていた。
あいさつの菓子折りを渡し、神田ヒロシと鶯谷サト子は仏壇に手を合わせた。
「生きているときは本当のところ喧嘩ばっかりしていたのですよ。真剣に離婚も考えたこともありました。でも、本当に今は、あの人に生きていて欲しかった。そう思うんです。」
水道橋ヨシヲの妻はそう言うと、「あらやだ」と涙を拭い、席を立った。
鶯谷キョーコと神田ヒロシは2階に通された。1か月前、水道橋ヨシヲが自死してからそのままだと聞いた。その部屋を見て、2人は水道橋ヨシヲが自殺ではないことを確信した。
水道橋ヨシヲの机は散らかっており、水道橋ヨシヲが何の片付けもしないでその日を迎えたのが分かったからだった。
全く怪しいところのない部屋で唯一見つけたのは机に置かれた社内報への走り書きだった。風邪薬を表すcold medicineの後に書かれているのはロシア語だった。
もうすでに昼過ぎであったがようやく蒲田滝人から電話があった。
「昨日は大変ごちそうになりました」と言う話の後、「電車が遅れて・・・」とかそんな言い訳が始まった。
神田ヒロシは水道橋ヨシヲの走り書きを写メで送付するとその解析を蒲田滝人に頼んだ。そしてまだ小学生の子供2人が帰る前に家を後にした。
人の死はときとして自分の生を想起させる。
(このくだらない人生も生きていればのことだな)
神田ヒロシは上野へ戻る電車の中で考えた。
人は必ず死ぬ。そのさいは金も名誉も持って行けない。課長職も、部長職も、社長も、代表権もない。家族や友人とも離れ離れになる。考えれば気が狂いそうになるこの現実を紛らわすために人は仕事でも勉強でも恋愛でも酒でもセックスでもギャンブルでも、のめり込むのだろう。
神田ヒロシの隣に座る鶯谷サト子もかすかに震えていた。今日はまだ1度も男に抱かれていないので酸素欠乏症になり、漆黒の乳首が痛むのを感じた。
神田ヒロシはその対応を鶯谷サト子から仰せつかったが、生粋のホモであることを理由に断り、またその空腹を満たす時間を取ることを鶯谷サト子に許した。
そのため神田ヒロシは1人で秋葉原の貸しオフィスに着いたのだが、ようやく来た蒲田滝人はすでに酔っぱらっていた。
あくびれもなく蒲田滝人はセブンイレブンのストロングサワードライ500ml(税込み137円)をつまみなしで飲んでいた。目は既に充血し、ろれつも回らなかった。ネクタイは毛羽だっており、気が付くと昨日と同じものであった。
神田ヒロシは、それでも優しく、
「何か分かりましたでしょうか?」といった。
蒲田滝人はふらふらと答えた。
「メモにあったロシア語успокаивающий(発音uspokaivayushchiy)は鎮静剤のことですね。つまり咳止め薬です」
そして続けた。
「化学の世界で一番の功労者は誰だと思いますか?私は元素周期律表を提案したロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ(1869年)だと思っています。最も人類に貢献した化学者の一人は間違いなくロシア人です。17世紀にヨーロッパで科学革命(Scientific Revolution)が起こり、人類は大きく進歩しました。
・ニコラウス・コペルニクス(地動説)
・ヨハネス・ケプラー(天体の運動)
・ガリレオ・ガリレイ(天文学、物理学)
・アイザック・ニュートン(万有引力の法則)
これらの発見により、人類は迷信から抜け出し、更に世界が何で出来ているかを見極める化学を進めました。周期律表にある多くの元素はロシアを含むヨーロッパの研究者によって発見されました。
だから私は化学を専攻した者としてロシアを尊敬しているんです。」
酔っ払いの蒲田滝人は遠い目をしていた。アルコールで視点は定まらず、その目は忘れたい過去や、こころざしたが達成できなかった、今では過去となった未来を見ていた。、
「だからこれから話すロシアは私が認めたくないロシアなのです。これはデソモルヒネと呼ばれる違法な鎮静薬の話です。」
ロシアでは1998年にデソモルヒネが違法な鎮静薬に指定されている。しかし2010年頃から密造された粗悪なデソモルヒネの蔓延が問題になりはじめている。ロシアではコデインを含む鎮静薬が2012年6月まで処方箋なしで購入可能であり、使用者は100万人を超えていたと推定されている。
わずか100ルーブル程度(数百円)のコデインを含む市販のせき止め薬を材料として、素人でも自宅で簡単に合成できる製造方法がインターネット上で広まったことが蔓延の原因として挙げられている。コデイン、ヨウ素、リンから密造されることは、プソイドエフェドリンからメタンフェタミンを密造する過程に似ているが、密造されたデソモルヒネはさらにガソリンを使用するなど劣悪な環境で製造されるため、毒物及び腐食性がある不純物を含んでいる。
*参考文献 Savchuk, S. A.; Barsegyan, S. S.; Barsegyan, I. B.; Kolesov, G. M. (2011). “Chromatographic study of expert and biological samples containing desomorphine”. Journal of Analytical Chemistry 63 (4): 361–70
参考:インターネットに公開されているデソモルヒネ合成方法
ロシアでは密造されたデソモルヒネは「クロコダイル」と呼ばれているが、これは乱用で皮膚がびらんして黒や緑に変色し、ワニの皮のような外観を示すことからその名前が付いたとも言う。「クロコダイル」を常習的に使用すると、注射部位の血管が破壊され、血流が停止して周囲の筋肉・細胞組織の壊死をもたらす。長期に使用すれば注射していた部位の壊疽を引き起こして骨が露出し、凄惨な症状を示すため「flesh eater drug(生身を喰いあらす薬物)」、「cannibal drug(人食い薬物)」の異名を持つ。高確率で死亡にいたる致命的な結果を招き、常習者の平均余命は2-3年を下回るといい、回復しても四肢の切断など、重大な後遺症をもたらす。
密造デソモルヒネの乱用は、2002年にシベリア東部で報告されたが、以来ロシアと旧ソビエト連邦地域で汚染が広がっている。2011年10月には、「クロコダイル」の乱用がドイツにも広がっていることが判明し、いくつかの報道機関によると、すでに多くの死者が出ているとの主張もある(*)。
*出展 Wikipedia
ロシア製の鎮静剤自体は龍神組企業が密輸し、それからデソモルヒネを合成するさいの溶媒としてアテネ化学の薬品が使われたのだ。
ノルマルヘキサンと呼ばれる抽出溶媒はガソリン留分の1つであり、通常の化学品である。しかし当然人体に注入することが認められたものではない。龍神組は有限会社サラミスを使い、購入し、合成麻薬の製造に使用したのだ。
ここで合成麻薬についても少し触れておく。合成麻薬はいわば人類の最悪の発明の1つとも言える。安価で粗悪なこの麻薬はアメリカの町をゾンビタウンと呼ばれるまでの荒廃させた事例がある。
'合成大麻(ごうせいたいま)とは、大麻またはハーブ類に人工的に調合された化学物質を吹き付けて製造された薬物の一種。合成カンナビノイド、偽大麻とも報道される。
天然大麻に外観は類似するが、化学物質(例:テトラヒドロカンナビノール等)の種類や濃度によりドラッグとしての効果は大きく上回ることがあり、しばしば集団薬物中毒事件が発生する。アメリカ合衆国内に流通している合成大麻のメジャーブランドに、K2、スパイスなどがあるが同一製造者が同一成分で作っているとは限らない。2008年頃から1回分1ドル程度で手軽に購入できるドラッグとして流行し始めたが、薬物乱用が社会問題を引き起こしたことからアメリカの諸都市で製造販売が制限されている
2016年7月12日(現地時間)、ニューヨーク市でK2またはスパイスと呼ばれる合成大麻の過剰摂取により30名以上が救急搬送された。未知の化学物質を含み、大麻と同様の効果が得られるとされる合成大麻は2008年頃から全米の貧困層を中心に流行し始めたが、コンビニや合法ドラッグショップで簡単に入手でき、無法状態にある。
1本分あたりわずか1ドル足らずで入手可能な上に種類も豊富なため、ホームレスに人気がある。ニューヨークをはじめ多くの都市ではK2の製造と販売を禁止したため、病院への搬送者が85%減少したという。しかし、合成大麻の問題は消滅していない。
今回の大人数による過剰摂取は、ブルックリンのマートル通りとワイコフ通りの交差点付近で発生した。ローカルニュースサイトDNA Infoによると、この地域は地元では「K2天国」と呼ばれ、高架下に麻薬常習者がたむろし、家の前や庭先で堂々と大麻を吸っているという。(*)
*Wikipedia
そして日本である。日本ではまだ合成麻薬による大規模な事件は起きていない。しかしこの強力で安価な輸入品は、潜在的な購入層をかかえる日本にも価格競争力も相まって、いつ入ってきてもおかしくない状態なのである。
そして頭が良くて資金力があり、生き馬の目を抜き、先見の明があり、情け容赦のないヤクザが目を付けたのだった。麻薬は接種した人間とその人間関係、その地域社会、全てを破壊する。ヤクザの手元には豊富な金が入るが、この社会は間違いなく荒廃するだろう。
夕方、その日の業務が終わるころ、またしても呼んでいない客が来た。
喪服のような黒のスーツに身を包み薄いグレーの眼鏡をかけていた。
男は、「四谷ジョージと言います。」と名乗った。
そして今日神田ヒロシたちが水道橋ヨシヲの家に持って行ったのと全く同じ菓子の包みを差し出した。神田ヒロシと鶯谷サト子は気が行かなかったが朝からずっとつけていたということである。つまりヤクザ登場である。
歳は40歳くらいか、組織の中枢を担っている自信がみなぎっていた。そして組織への献身か、エリートサラリーマンっぱいものを感じた。
有楽キヨシは3人の部下を連れていた。その人数は神田ヒロシの部下よりも多かった。そのため狭い秋葉原の貸しオフィスは一杯になり、蒲田滝人と鶯谷サト子は席を譲ったが、誰も座らなかった。
四谷ジョージの部下は皆背が高かったが、1人のみ太っていた。
「こいつら元々お笑い芸人目指してたんですが、ドロップアウトして、うちの組に来たんですよ。3人で、金閣、銀閣、通天閣、ねっ、ちょっと面白いでしょう。一時テレビにも出たことあるの、知っていますか?」
鶯谷サト子は答えた。
「フフフ。確か深夜番組に出てたけど、司会の女の子にセクハラして干されたとか。」
「そのとおりです。」
四谷ジョージは指先で鶯谷サト子の漆黒の左乳首の上を正確に押した。
神田ヒロシはすぐさま「強制わいせつで訴えますね。」と言った。
有楽キヨシは笑って言う、
「大丈夫、このレベルではまだ迷惑条例にも違反していないですよ。」
そして続けた。
「訴えるなら、このレベルですよ。」
四谷ジョージはニヤリと笑うとスマホの画像を見せた。そこには水道橋ヨシヲの最期が映っていた。必死に命乞いをする姿、そして鼻から睡眠ガスを入れられ、水差しで睡眠薬が口から注がれていた。
四谷ジョージは、
「覚えておいてください。ヤクザは何でもやります。友人や好きな女も売って金に換えます。口先だけではないんです。ヤクザは死ぬことができるんです(*)。」
*本宮ひろ志著「男樹」より
と言って、帰っていった。
神田ヒロシ、蒲田滝人、鶯谷サト子が残された部屋に血のように赤い夕陽が差し込んでいた。
神田ヒロシは簡単に警察と会社に報告したが、現時点では神田ヒロシはヤクザの明確な犯罪行為を示す証拠を持っていないため、警察は民事不介入の原則に基づき介入できないと返答してきた。またそれはアテネ物産法務部の見解でもあった(*)。
*民事事件は司法権によって解決すべきであり、行政権に属する警察は口を出してはならない、というのが民事不介入の意味するところである。
民事上は契約自由の原則が存在し、同原則から導かれる契約自治の原則により、契約はその当事者間で拘束力を持つ。そのため、明確な犯罪行為がない限り、契約当事者間で合意した内容につき警察が介入することは原則的にできない。(Wikipedia)
今日もまた蒲田滝人と飲みにいったが、その日は割り勘であった。また鶯谷サト子は恐怖と不安に荒ぶる心をおさえるために夜の街へと消えていった。
To be continued…
3.復活の呪文(副題:花より団子)
副題「花より団子」を聞いたとき、鶯谷サト子は、
「フフフ。私の場合は花(容姿)より男根(中身)だけどね」と鼻で笑った。
4月6日 水曜日
プロジェクトチームは2手に分かれて行動していた。
神田ヒロシと蒲田滝人は懸念される合成麻薬の製造について午前中いっぱいかけてレポートをまとめ、昼過ぎにはアテネ物産とアテネ化学に報告した。
鶯谷サト子は一人で法務局に伺い、有限会社サラミスの登記事項証明書(以前の登記簿謄本)を調べていた。ペーパーカンパニーでも登記には所在地の登録が必要であった。複雑な経路を経て登記がなされていたが、登記されていた場所は雑居ビルとかではなく、日本橋のアテネ不動産ビルであった。
アテネ不動産はアテネグループの不動産会社であった。
資本金3500憶円、年間売り上げ高2兆円に及ぶ大企業である。
(神龍会はすでにアテネグループ企業に深く入り込んでいる)
鶯谷サト子は昨日有楽キヨシに会った時の嫌な感じを思い出した。
(いや、ヤクザは既に深く社会にも企業にも入り込んでいるだから当然のことか)
鶯谷サト子はその足で登記簿にあったアテナ不動産日本橋ビルに行った。
地下鉄三越前で降りて少し歩くとそのビルはあった。
多くの企業が入るそのビルにはまた多くのサラリーマンが行き来していた。
(この中にヤクザはいるのかしら?)
鶯谷サト子はそれを見つけるのは森の中で1枚の木の葉を探すようなものに感じた。
もう刺青を入れたヤクザなんていない。指を詰めるのも、すでに廃れた習慣だ。皆英語と中国語を話し、アメリカでMBAを取得している人間も何人もいる。頭がよく、勇気があり、根性と、何よりも覇気がある。上昇志向が強く、自己犠牲も厭わないので、組織としても強い。
鶯谷サト子はロビーでエレベーターに入る集団を注意深く観察した。
ノートに表を書き、No.1~6に乗った人間の数と容姿、また時折持ち込まれる段ボール箱の大きさを観察した。
その結果、22階、23階、そして44階の会社が怪しいと思った。
そこで降りた連中は昨日見た四谷ジョージと同じ喪服のような黒のスーツに身を包み薄いグレーの眼鏡をかけていた。ユニフォームではないが、統制のとれた組織であることを伺わせた。そして定期的に120サイズとよばれるA3紙と同じ底面の箱を手で運ぶのが観察された。目立たないように頻度を落としたためにかえって45分おきと言うサイクルが分かってしまった。軽そうに持つ者も、重そうに持つ者もいたが、歩く速さからほとんど中身は均一であることが見て取れた。
45分おきに2つの荷物が6時間に渡って運びこまれた。個数は合計で8個に達し、荷物が降ろされた階はすべて22階であった。他の階はと言うと、下っ端っぽいのが23階、幹部っぽいのが44階であった。
朝、昼食時、午後と大きく変わる人の流れの中で精密と言えるほど規則正しい頻度で彼らは行動していた。その正確さは正に軍隊とも言えたが、結果として鶯谷サト子にでも見抜かれる間抜けとも言えた。
鶯谷サト子は今見たことを電話で神田ヒロシに伝えた。
神田ヒロシはそれをメモし、そのまま警察に伝える。
「出来るのは職務質問による任意同行までですね。」
捜査令状もなかったため、私服警官3人を伴い、突入し、何かしらの証拠を見つけるしかなかった。
電話口の警官は神田ヒロシにそのように伝えると明日査察に入る準備を進めた。
警察とは、鋼の肉体と強い意志、そして頭脳明晰な平時の軍隊である(*)。
*警察(けいさつ)、(英, 仏: police、独: Polizei)とは、軍隊と並ぶ国家の実力組織であり、権力行使をもって国家の治安を維持する行政作用、およびその主体をいい、社会の安全や秩序を守る責任を課された行政機関である。
午後、警視庁の私服警官総勢100人が集まった。警察組織26万人の最高峰であり、世界を見てもやはり最高峰であろう。
公務員というと親方日の丸で楽な仕事という印象もあるが、少なくとも警察は違う。鋼の肉体と精密な法知識が求められ、日々緊張と過重な業務に追われている(*)。
*参考 ハコヅメ(マンガ)
日本において警察とは、警察法2条1項において規定されている個人の生命、身体および財産の保護、犯罪の予防、鎮圧および捜査、被疑者の逮捕、交通の取締りその他公共の安全と秩序の維持を責務とする行政機関である。
(Wikipedia)
また警視庁とは、左記のとおりである。
警視庁(けいしちょう、英: Metropolitan Police Department、略称: MPD)は、日本の東京都を管轄する警察組織、及び本部の名称。東京都内を10に分けた方面本部と102の警察署を配置し、2018年(平成30年)4月1日現在の所属警察職員は46,581人と、日本最大であり、世界有数の規模を誇る警察組織である。(Wikipedia)
鶯谷サト子は、「12階、13階、そして33階に行ってください」とあらためて言った。
警視庁メンバーのリーダーはその数値を手振りでメンバーに伝えると、リーダー1人に33人、33人、33人の3班に分かれると、ビル運営会社から渡されたマスターカードキーを持ち、6台のエレベーターで3回に分かれて昇っていった。
それを見守る神田ヒロシに蒲田滝人は言いづらそうに、言った。
「鶯谷サト子さん、最初は22階、23階、そして44階の会社が怪しいっていっていましたよね。それがいつの間にか、12階、13階、33階になっています。」
「えっ?どういうこと?」と神田ヒロシは聞いた。
「22階、23階、44階なら1つの会社。竜宮建設なのです。階が飛んで、会議室が離れているのはよくあることなんです。しかし12階、13階、33階は全フロアが別の会社なんです。」
とさらに蒲田滝人はつづけた。
「鶯谷サト子さんはよく数字を間違えるんですよ。3人しかいないのにいつも5個コーヒーを入れるし、2階の会議室なのに3階のメイド喫茶に行ってしまったり、資料の数もあったことありませんし、多分彼女は数を把握するのが出来ない気がします。」
「えっ、どういうことでしょうか?」
「そうですね。すみません。でも最初は22階、23階、44階の会社が怪しいって言っていたのに、さっきは12階、13階、そして33階って言ってました。そして今、警察もその階に向かっています。だから気になって」
「えっ、何で言わないの?」
「娘とももう2年も口を聞いていないのに話せませんよ。女性は間違いを指摘されるのが死ぬほど嫌いでしょ。」
「でも仕事でしょ?」
神田ヒロシは蒲田滝人のやる気のなさに呆れた。
「でもなんで12階、13階、33階なんだ?」
「よく分かりませんが鶯谷サト子さんは12月13日生まれの33歳と以前言っていましたのでそれと混同したかも、です。」
20分後、怒りを抑えた警視庁エリートたちが下りて来た。
捜査は失敗に終わったのだ。懸命に間違いを説明する神田ヒロシに恥をかかされた警視庁はにべもなかった。操作を失敗したのだ。
神田ヒロシは思わず声を漏らす。
「すべての試みは失敗し最後の望みもたたれた」(*)
*The End by Doors
その後、スマホが鳴った。アテナ生命の鶯谷キョーコだった。
「お疲れ様でした。ホホホ。現時刻をもって、プロジェクトを解散します。各自、自分の会社に戻ってください。」
手短に指示すると返事を待たずに鶯谷キョーコは電話を切った。
エレベーターホールの端に、笑っている四谷ジョージ、金閣、銀閣、通天閣の姿が見えた。
18時、行き場のない3人はまた秋葉原の貸会議室に戻っていた。
何をやってもダメなやつはダメか、神田ヒロシは思った。
いつものように鶯谷サト子は男たちの元へと行き、神田ヒロシと蒲田滝人は安酒を呑みに行った。
こんなやり切れない夜を何度も過ごしてきた3人であるが、今回はさすがにこたえた。深酒を呑みながら、神田ヒロシは1年で別れた妻のことを思い、蒲田滝人は胃痛が背筋まで回るのを感じた。そして鶯谷サト子は知らない男に抱かれながら漆黒の乳首はチクチクと痛むのを感じた。
To be continued…
4.ペロポネソスの戦い(副題:憎まれっ子世に憚る)
4月7日 木曜日
神田ヒロシ、蒲田滝人、鶯谷サト子の3人は秋葉原の貸会議室に来ていた。もはや打ち合わせる内容はなく、部屋の片づけだけが仕事だった。
使った湯呑を片付けて、ごみを東京都の条例に従い、燃えるもの、燃えないものに分けた。会議室の費用は先に払ってあるのですることはなかった。
使ったコピー機の枚数を簡単にメモし、不動産会社に渡すと、いくつかのファイルを梱包して各自の会社に送る手配をした。
12時に宅配業者が来るので、作業を一旦やめて、3人は席についた。鶯谷サト子がお茶をいれてくれたのだけど、3人しかいないのに、湯呑は5つ出て来た。
神田ヒロシは言った。
「もうプロジェクトは解散したので私はリーダーではありません。本当に皆さん、ありがとうございました。またこのような結果になって、本当に申し訳ありません。」
こんなセリフを神田ヒロシは今まで何度も言ってきた。今までずっとそうであったように、もうこれが最後にしたいと思った。
蒲田滝人は
「残念な結果ですが、まあ、みんな無事でよかったです。」
と、短く言った。
鶯谷キョーコは、
「何で、連中がいなかったか?分かりませんが、本当に残念です。」
と言い、何が起きたかをまったく理解していないようだった。
そのまま3人はこれからのことをぼそぼそと簡単に話した。
神田ヒロシはこれを機会にアテナ商事を辞めようと思うと言った。もともと2回転職してて、年齢的にも多分今度が最後の転職になるが、何か、心が折れたというか、もうやっていけない気持ちになった、と言った。しばらく休んで、何をするか考えたい、みたいなことを言った。結婚も1度失敗しててそれは自分がホモだからなのだけど、それはどうしようもないことないことなので、このまま誰にも迷惑をかけず、生きたいです、と言った。
ひでりのときはなみだをながし/さむさのなつはオロオロあるき/みんなにデクノボーとよばれ/ほめられもせず/くにもされず/そういうものに/わたしはなりたい(*)
*宮沢賢治 「雨ニモマケズ」
それは良いですね、と蒲田滝人は言った。私はアテネ化学からアテナ化学から東京ペロポネソス出向しているが、年齢的にもうこのままでしょう、と言った。私は努力家でしたがサラリーマンとしては失敗しました。地方から何とか東京の二流大学を卒業し、その後親会社のアテナ化学に就職し、20年も前に出向し、そのままずっと課長で止まっています。その後何人もアテナイから出向者が来たが皆私よりもえらくなってしまった。皆私の上司となるのだが、皆禿げているので(そのような縛りでもあるのか)と思っていました。しかしいつしか私も太って、すっかり剥げてしまった。そうしても出世することもなく、ですね。次から次へと年下が上司になっていきました。みんな自分のことに一生懸命で素敵な方ばかりでした。(ああそうか、自分は捨てられたのだ)、私はそのころになってようやく気付き、それが酒の肴になり、今ではアル中になってしまいました
それは呑むたびに蒲田滝人は言っていることで、まさに昨夜もまったく同じことを神田ヒロシは聞かされていた。
私はですね、シュークリームを食べながら、鶯谷サト子は話だした。私は、愛嬌は良いけど頭は悪いんです。三流大学を惨めな成績で卒業して、その後ファーストフードバイト店員として働き、その働きを認められ、その物流を手掛ける商社に引き上げられ、いろいろあって、アテネ証券会社に雇われました。しかし私は仕事に全く興味を持っていなんですし、よく分かってもいません。成績が良くても悪くてもどうでも良いです。もっと言えば会社が儲かっても、つぶれかけていても平気です。趣味は世界の陰茎の写真を集めることです。それは男根といわゆるヒト科ヒトの男性性器のことです。
また、私は学生時代にヒッチハイクの旅行をして、世界中を回って、世界中の男を相手にしました。国連加盟197か国のすべてです。外務省がVISA発行を渋る国対しても、情熱をもって世界征服の野望を達成しました。
それで今、一番欲しいのは神田ヒロシさんの童貞です、と付け加えた。
一通り話が終わると3人は片付けを再開した。神田ヒロシと蒲田滝人はシュレッダー処理を行い、その間に鶯谷サト子が弁当を買いに行ったのだけど、3人なのに5個の弁当を買ってきた。余った2つの弁当を3階のメイド喫茶の従業員に引き取ってもらい、13時すぎの宅配業者が来て、施錠して、3人は貸し会議室を後にした。
神田ヒロシが1人で日本橋アテネ不動産ビルに行こうとしているのは、蒲田滝人と鶯谷サト子には明らかだった。それは使命感、義務感よりも死に場所を求めているように見えた。
蒲田滝人は呑みに行くのはつきあうが、そこに行くのは嫌だとはっきりいた。鶯谷サト子は男たちとの性欲を満たす行為は行うが、愛を思う機能が本質的に欠落しているので何の感情も湧かなかった。
それでも1人で行こうとする神田ヒロシを蒲田滝人と鶯谷サト子は引き留めた。
「せめてこれを持って行ってください」
と鶯谷サト子はカバンから球形のGPS装置を取り出した。そして神田ヒロシを共用トイレに連れ込むと無理やりその機械を装着させた。
神田ヒロシは地下鉄で三越前に行き、日本橋アテネ不動産ビルに入った。そのさいには返さずにガメテいたマルチカードキーを使用した。
1人でエレベーターに乗り込むと、22階を押した。ドアが開くと四谷ジョージと金閣、銀閣、通天閣が待っていた。神田ヒロシは正直ほっとした。死ぬ覚悟で来たのに空振りだったらどうしようと悩んでいた。
蒲田滝人や鶯谷サト子に明日東京のどこかで会ったら何と言ったら良いか?悩んでいた。別れた妻に出した長々とした遺書めいた手紙については、届く前に待ち伏せして回収しようとまで考えていた。
しかしそこは正解だった。龍神組に便宜を図ったアテネ不動産によって、そのフロアは合成麻薬の工場に作り替えられており、四谷ジョージ、金閣、銀閣、通天閣が金ぴかのヤクザ仕様でそこにいた。撤収された可能性もあったが、勇気があり、図太くて、何事にも度胸があり、ずうずうしくて、世の中を馬鹿にしたヤクザはそのままそこにいたのだ。
そのため神田ヒロシは、つい、
「ありがとう。いて良かったよ。」とか言ってしまった。
ようやくたどり着いた敵の本拠地に入るのに神田ヒロシは少し震えたが、不思議と怖くはなかった。
サラリーマンは死ぬことと見つけたり(*)。
*「武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」は『葉隠』(佐賀藩士・山本常朝著)に登場する有名な一節であり、武士道の神髄を示すものとして、多くの日本人が知る名文である。同書は、江戸時代の中期に「戦をしなくなった武士が、どう生きるべきか」を考え、武士の道を定義したものだ。、本当にやるべき事から逃げてはいけない、の意味である。(Wikipedia)
そこはすべての窓が完全遮光され、完全防音も施されたフロアだった。薬品の匂いがして、怪しげなガラス蒸留装置で薬が作られていた。床には何人か、先に寝転がっていた。
人の幸福とは幸せな事象、例えば結婚、出世、子供の誕生とかで脳内にアドレナリンと呼ばれる化学物質が生成されると感情として引き起こされる。麻薬はそのような事象なしに幸福を化学物質で再現する。その直接的で強力な信号は脳に直接働きかけ、人を偽りの幸福へといざなう。
ガソリンの匂いがするその化学物質は四谷ジョージによって神田ヒロシの左腕に5ml注射された。当然アルコールのふき取りはなかった。
薬の混沌と痛みでのたうち回る神田ヒロシに四谷ジョージは蹴りを入れた。先のとがった靴が目の前を走り、神田ヒロシの歯が3本抜けた。
不思議と神田ヒロシは四谷ジョージを思いやった。
(いきがっているが、2人も殺したら、この国じゃ死刑は免れないぞ。こんな汚い仕事を1人でやらされて・・・、きっとお前も下っ端なんだな。かわいそうに。金が稼げないヤクザは暴力用に使われるしかない。俺と同じ中途採用かもな。もし弟がどこかで生きていたらこんなになっているのかな?)
四谷ジョージのつま先が神田ヒロシの腹に入り、神田ヒロシの肛門から先ほど鶯谷サト子に入れられたGPSが出てしまった。
(惨めな最期だな)、と神田ヒロシは思った。
でもどこかほっとしていた。
(毎日憂鬱で月曜日の朝にJR中央線を止めて迷惑をかけることにならないようにしたいとずっと思っていた。そう、世の中には自分のような死に場所を求めているだけの人間が確実にいる。そうして私はその場所にたどり着いたんだ。その意味ではラッキーだった。これで良かったんだ・・・。)
薬が回ってきたせいで痛みは感じなかったが、剪定ばさみで左手の小指と薬指を切断されたさいにはドバっと音を立てて血が流れるのを感じた。指を切られたのは嫌だったが、結婚後太ったため離婚しても抜けなかった薬指の結婚指輪が取れたのは、本当のところ、ちょっとほっとした。床に広がるDNAがせめて証拠としての価値を持ってくれるのを、このくだらなく、何の役にも立たなかった人生に意味を与えてくれるのを神田ヒロシは祈った。
この絶望的な状況の中で神田ヒロシは中学時代の柔道部の主将だった人を思い出した。中学柔道では珍しい黒帯と、太い眉毛。
(そうだった。あの人が俺の初恋だった。)
神田ヒロシはそんなことを思いながら、薬の高揚感と欠損した指の痛みを感じながら、気を失ったのだった。
神田ヒロシはそれから業務用エレベーターに台車で載せられ、地下3階へと運ばれた。
そこには10mくらいある黒のリムジンが待機していた。神田ヒロシは気を失ったまま軽く持ち上げられると座席ではなくトランクに放り込まれた。
5.ラスボス現る(副題:骨折り損のくたびれ儲け)
4月22日 金曜日
神田ヒロシはまぶしさの中で目が覚めた。
いつの間にか病院のベッドの中にいた。そして隣にはアテネ生命の鶯谷キョーコがいた。今度はメイド風のやはりコスプレをしていた。
「ここはどこ?」と神田ヒロシが聞き、
「ホホホ。水道橋大学病院よ」と鶯谷キョーコが答えた。
「せっかく私が侵入調査しているのを特攻してぶち壊すなんて。ナイスザコでした(*)。ザコキャラ、乙です♡!さすがに組事務所に押し入り、小指と薬指を切断されたのには笑いました。」
*ハコヅメ 9巻のセリフ
鶯谷キョーコは笑い終わるとインターホンで看護婦を呼んだ。そして言った。
「あなたがここへ来てから2週間が経ったわ。プロジェクトが終了したのが4月8日で、今日はその2週間後の4月22日というわけ。」
神田ヒロシは体を起こすと左手の包帯を見た。感覚はないが指は拾われて繋がれたようだった。
鶯谷キョーコは続けた。
「あなたには今回の被災に関する保険金は支払われません。痛い思いをしたのにご苦労様でした。しかし第一に今回の負傷はあなたの自殺願望ともいえるほど無謀な特攻によるものでアテナ生命はそのような行為による被災を保険対象と認めていないのです。もう1つは、あなたには高額な保険適用外の医療なされました。今回の保険金はそちらへ優先して充てられました。」
合成麻薬を打たれた神田ヒロシはそれを除去するために毎日12時間に及ぶ血液の交換を受けていた。麻酔で眠らされたまま血液の半分が5日×2週間で計10日間で10回行われたのだった。
鶯谷キョーコは言った。
「1/2の10乗で実際あなたの血液に入っている合成麻薬の量は注入された量の1024分の1になっているはずです。その分、大量に貴重な輸血がなされました。あなたの保険金はその医療行為に支払われました。繰り返しですが、あなたには支払われません。」
気が付くとそこは小さいが個室だった。鶯谷キョーコの声だけが小さく響いている。
「あなたが戦っていた龍神組は10日前弊社が吸収合併しました。龍神組の組長は逮捕されたので、現在は弊社の社長が組長を兼務しています。吸収の過程で組織としての龍神組は解体されました。制圧後、多くの幹部は警察に引き渡され、拘束の法的根拠のないペーペーの組員の多くは組員は弊社グループ企業で雇用されました。これから彼らが必要とされ、彼らでも出来る仕事があてがわれます。弊社としてはこのピンチを、反社会的勢力を取り組みながら、合法的に彼らを使用し、新しいビジネス形態を広げる機会と考えています。」
神田ヒロシはふと気になって聞いてみた。
「でもどうやってあの屈強な連中に打ち勝ったのでしょうか?」
鶯谷キョーコが答える。
「海外の軍隊へOEMに出しました(*)。本当は自衛隊が好ましかったのですが、まだ日本では機が熟していないので傭兵を使用しました。
*Original Equipment Manufacturing 取引先の会社の商標で販売される製品の受注生産(そのためここでOEMというのは正しくはない。語呂が良いので使用しました。)
神田ヒロシは言った。
「助けてもらって言うのもアレだけど、外国の軍隊を使用するのは法律的には大丈夫なのでしょうか?」
鶯谷キョーコは答える。
「私は法務部ではないので分かりません。今回の件は社則に則って処理しています。即ち、ワークフローをおこし、役員会の決済を得ています。当然ですが今回の結果は経済産業省、厚生労働省、そして内閣府の外局である国家公安委員会の特別の機関である警察庁にも報告しています。彼らを通じて既に内閣にも報告されています。」
そして鶯谷キョーコは続けた。
「あなたが対峙した四谷ジョージは旧龍神組の手で処分をされました。こちらも1人社員を失っていますので、ヤクザ用語でいうところの手打ちに相当します。遺体は既に処分したと聞いています。王水(*)でDNAまで分解した後にアルカリで中和し、トイレに流したそうです。下水場を経て、もう東京湾に至ったと思われます。あなた方のパーティが追っていた人物は既にどこにもいません。」
*王水(おうすい、英: aqua regia、独: Königswasser)は、濃塩酸と濃硝酸を3:1の体積比で混合してできる橙赤色の液体である。CAS登録番号は8007-56-5。全ての金属ではないが、金や白金といった貴金属を始めとして多くの金属を溶解できることから、錬金術師によってこのように命名された。(Wikipedia)
鶯谷キョーコは言った。
「あと情けないアテネ不動産も会社更生法の手続きに入りました。経営者はすべて退陣し、また何人かは逮捕されて、これできれいな会社に生まれ変わります。知っています?連中が反社会的勢力も付け込まれた理由って?バブル崩壊による粉飾決算のつけなんですって。バブル崩壊って、私が生まれる前の話ですよ。いつまでやってんだ?って感じですよね。」
*バブル崩壊 バブル崩壊(バブルほうかい)は、日本の不景気の通称で、バブル景気後の景気後退期または景気後退期の後半から、景気回復期(景気拡張期)に転じるまでの期間を指す。内閣府景気基準日付でのバブル崩壊期間(第1次平成不況や複合不況とも呼ばれる)は、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指す。
バブル崩壊という現象は、単に景気循環における景気後退という面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急激な減退、そして政策の錯誤が絡んでいる。
1980年代後半には地価は異常な伸びを見せた。公示価格では北海道、東北、四国、九州など、1993年ごろまで地価が高騰していた地方都市もある。
バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価の下落により、担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また各事業会社の収益は、未曾有の不景気で大きく低下した。こうして、銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。
また、4大証券会社(野村證券・山一証券・日興証券・大和証券)は、株取引で損失を被った一部の顧客に対して損失補填を行ったため、証券取引等監視委員会設立のきっかけとなった。(Wikipedia)
33歳の鶯谷キョーコはそう言うと、如何にもゴミを見ている様子でアテネ不動産を思い、窓の外を見ていた。
だがそれはバブル崩壊を覚えていない世代の考えだ。バブル崩壊によって1200兆円もの不動産価値が失われた。それはこの国のGDP12年分に相当する。そのすさまじさを体感として覚えている44歳の神田ヒロシはそれがいまだに尾を引いてアテネ不動産凋落の原因であっても不思議ではないと思った。鶯谷キョーコと神田ヒロシのギャップは、昭和であれば戦前、戦後生まれと言われるほど埋められない経験の差であった。(*)
*バブル崩壊 不動産
1980年代末期の日本での不動産バブルは、価格上昇の原資は主に国内のマネーだけであった。大蔵省が行った総量規制で銀行の不動産向け融資が沈静化し、地価が大幅に下がり始めバブルが崩壊した。それまで土地神話のもと、決して下落することがないと言われた地価が下落に転じ、以後、2005年に至るまで公示価格は下がり続けた。2005年以降は、一部の優良な場所の公示価格が上昇に転じている。
1998年末の時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1,714兆円と不動産全体の約6割を占めていた。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している。1980年末のバブル崩壊以降、日本の不動産の時価は600兆円以上暴落した。日本全体の土地資産額は、1990年〜2002年で1000兆円減少した。バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1,400兆円とされている。内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2,456兆円をピークに、2006年末には約1,228兆円となりおよそ16年間で約1,228兆円の資産価値が失われたと推定されている。
また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以後の価格下落で憂き目を見る例も少なくない。資産価格が下落したにもかかわらず固定資産税が高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り替えようとしても担保割れで果たせないなどである。高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされたが、大半は自己責任として補償を得られずに終わっている。
経済学者の竹中平蔵は「バブル崩壊によって日本の地価が下がったが、これもグローバリゼーションの一環であると考えることができる。日本の地価が下がってきたことは、グローバリゼーションによって起きた制度の競争、『要素価格均等化の命題』の流れに沿っているという見方もできる」と指摘している。(Wikipedia)
神田ヒロシは苦笑いしながら、今回の結果を総括して言った。
「アテネ生命がラスボスなのか?」
鶯谷キョーコも笑っている。
「ホホホ。あなたの言うラスボスの意味が私には分かりません。しかし最後に勝ったのは弊社と言えます。また弊社はアテネ物産、アテネ証券、アテネ化学の大株主でもあります。つまり弊社こそがアテネグループなのです。」
神田ヒロシは続ける。
「龍神組を飲み込んでしまったアテネ生命は悪ではないのでしょうか?」
鶯谷キョーコはまだ笑っている。
「では悪とは何でしょうか?売春は憲法上では悪ですが、一定の需要があり、それがないと生きがいを感じることが出来ない人もいますよね。またそれを職業としたい人も確実にいます。太古からのそうした願望は当然であり、むしろそこに反社会的勢力が入ることの方が問題なのだと思います。そうした事態は事件につながり、病死、殺人に至れば弊社の保険事業を危うくします。弊社は今回の吸収合併をそのような毒を除いた上で、皆様の欲望を合法的に満たす方法を得るビジネスチャンスとなるのではないか?と考えています。まだどうなるか?分かりませんがね。多くの新ビジネスは生まれ、日の目を見ずに消えていくものですから。」
4月下旬、桜はずいぶん前に散り、毎日日差しが強くなる季節である。
病院の窓からも強い朝の光が差し込んでいる。
鶯谷キョーコは言った。
「もう50年も前のことです。アテネ化学がアテネ物産とイランに石油精製から石油化学まで連なる一大コンビナートを建設したことがありました。事業保険は弊社アテネ生命が請け負いました。化学プラントは大量のナフサ、即ち粗製ガソリンも扱い、非常に危険です。そこで弊社は軍隊を雇ってプラントを守っていました。当然武装しています。傭兵を組織し、彼らに秩序を守らせました。結果として紛争となる事例もありましたがプラントを守り、その国で我々のなすべきことは完遂しました(*)。それだけでは当然ありません。現在では100か国以上の国で我々はその国の実情に合わせ、事業を展開しています。」
*テキストとしたのはIJPC(イラン・ジャパン石油化学)
イラン・ジャパン石油化学(Iran-Japan petrochemical)は、1970年代から1980年代にかけてイランと三井物産を中心に東洋曹達、三井東圧、三井石油化学、日本合成ゴムなどによる企業群の合弁で設立された企業、および同企業が建設していた石油化学コンビナート。略称IJPC。イラン国内で石油化学コンビナートを建設、運営するプロジェクトを担ったが、最終的にしかし1979年に発生したイラン革命、1980年に発生したイラン・イラク戦争に翻弄され、成果を出せぬまま撤退を余儀なくされた。(Wikipedia)
「分かりますでしょうか?我々は軍隊を持っています。警官ですら生涯事件では発砲することがない日本ですが、いざとなれば弊社は何でも出来ます。格好だけでチャラチャラやっているヤクザなんて目じゃないんです。資金だってヤクザは1兆円程度です(*1)。その内の半分を覚せい剤が占めます(*2)。しかし弊社は今回その大部分を再起不能なまでに破壊しました。」
*1 抜粋:意外と知らないヤクザの資金源!億単位で動く闇の暴力団マネー
いろいろな方法で、ヤクザは資金を集めている。その方法は日々進化し巧妙になっている。騙されない、被害にあわないように意識していても、いつかアナタ前にもヤクザの魔の手が迫ってくる事を忘れてはいけない。暴力団マネーは把握できていないものが多く、その金額は1兆円を超えるとも言われている。保釈金で数十億ものお金をポンっと出せるヤクザは、一般の企業よりも間違いなくお金を持っているだろう。
*2 1989年に警察庁が発表した暴力団資金源
◇覚醒剤 4535億円 覚醒剤などの違法薬物の売買。
◇賭博、ノミ行為 2200億円 違法バカラや競馬のノミ行為。
◇みかじめ料 1132億円 風俗店や飲み屋の用心棒代。
◇民事介入暴力 950億円 民事紛争に直接、または代理で介入して、その威力を背景に金品を得る行為。
◇企業対象暴力 442億円 企業に対して、直接または代理で介入して、その威力を背景に金品を得る行為。
現在では上記の他にも新たな資金源となる「シノギ」があります。
・違法な金利で貸し付ける「闇金」
・高齢者を狙った「オレオレ詐欺」
鶯谷キョーコは得意げに言った。
「一方、日本企業の資産は2503兆円、金融機関資産は4226兆円に上ります。ヤクザマネートータルの6000倍以上あります。」(*)
*日本市場 総資産 ランキング
日本の総資産は、個人、企業(金融を除く)、政府、金融機関、非営利団体の5つの部門に分かれます。 ■個人 ・資産…3033兆円(非金融1149兆円、金融1884兆円) ・負債…340兆円 ・正味資産…2692兆円 ■企業 ・資産…2503兆円(非金融1278兆円、金融1224兆円) ・負債…1898兆円 ・正味資産…605兆円 ■金融機関 ・資産…4266兆円(非金融32兆円、金融4234兆円)
鶯谷キョーコは更に続けた。
「サラリーマンなめんじぇねえ(*)、です。」
*本宮ひろ志著 「サラリーマン金太郎」
朝の光に神田ヒロシには鶯谷キョーコの顔が眩しかった。
迷いのない社会への使命感と会社への貢献、それは神田ヒロシがかつて目指したものであり、四谷ジョージが自分の出来る範囲で、こそこそとネズミみたいに考えたものでもあった。それが確固たる自信として鶯谷キョーコにあった。
やがて看護婦が現れると10日間なかった排便を促すための浣腸を施すと言った。
「鶯谷キョーコさんは出て行ってください。」と神田ヒロシは鶯谷キョーコに言ったが、
「時間がないのでこのまま話をさせてください。」
と鶯谷キョーコは言い、看護婦がガラス器具のピストンを押すのを手伝ったりした。
その上、鶯谷キョーコは簡易便器にまたがる神田ヒロシのお腹をマッサージもした。
「ホホホ。今、とても大きいのが出ましたね。見ていた私もスッキリしました。
鶯谷キョーコはそう言うと写メを撮り、
「お姉ちゃんに送りますね。」と言い、送ってしまった。
「意識がないとは言え、10日も食事をとらなかったら、お腹がすいたでしょう。良かったらお昼でも行きましょう。」
鶯谷キョーコはそういうと神田ヒロシを昼食に連れ出した。2人を乗せたタクシーは水道橋から日本橋へ抜ける。
そして因縁の日本橋アテネ不動産ビルへと入って行った。そして22階のボタンを押した。ここは龍神組の事務所で神田ヒロシが拉致された場所であったが、10日後、フロアそのものがファミレスになっていた。
店員たちの中に金閣、銀閣、通天閣がいた。
鶯谷キョーコは言った。
「ここだけじゃありません。かつて龍神組がしきっていた東京の繁華街、すなわち新宿、池袋、渋谷、銀座、錦糸町、上野、浅草、吉祥寺、立川、八王子、町田、赤羽の事務所はすべて弊社が制圧しました。北千住はまだ時間がかかっていますが、時間の問題です。かつての組事務所はすべて弊社が治めています。仕事柄、刺青をしているものもいますが、弊社は厳しい倫理規定を設けているので違反した場合はすぐに処分されます。以前は指を詰めるような措置もあったので吸収合併後の方が厳しいともいえます。実際、指を詰めて頂いたところで弊社にメリットはないのです。」
体格の良い銀閣がランチのハンバーグセット2つを持ってきた。
「ひとつ忠告しておきます。鶯谷サト子には二度と近づかないようにしてください。あなたのお尻にGPSを入れる際にあなたが十分にボッキしていたのを確認したと聞きました。お姉ちゃんは本気であなたの童貞を狙っています。」
神田ヒロシはまだ腹痛がするのでハンバーグを飲み込めずに、
「お姉さんと仲が良いですね。」と言った。
「ホホホ。お姉ちゃんと私はまだ栃木の実家に一緒に暮らしているんですよ。お姉ちゃんは毎日行きずりの男に抱かれてホテルを転々として家には帰ってきませんけどね。」
鶯谷サト子はスプーンでハンバーグを切って、そのままスプーンで食ベていた。
「私も姉には近づかないようにしているのですよ。あの人は同性も異性もありませんからね。私の純潔を守るためです。」
神田ヒロシはすごく空腹を感じていたが、あまりの空腹と緊張のためにどうしても食事の速度はとても遅かった。そして言った。
「龍神組は結局のところなくならずに、貴社に引き継がれるのでしょうか?」
鶯谷キョーコは笑った。
「お話のとおり、アテネ生命は本プロジェクトを神龍組吸収という形で受け継ぎます。今日はそれをお伝えするために参りました。神田ヒロシ様はじめ皆さまは既にメンバーではありませんし、もうお会いすることも多分ないと思います。」
そういうと鶯谷キョーコは席を立ったのだけど、帰り際、
「これは差し上げます。もう使えませんので。でもあなたの命拾いはこのおかげなんですよ。これで東京湾に捨てられる直前のあなたの居場所が分かったのですから。」
と言い、球形のGPSをまだ食べている途中の神田ヒロシの皿の横に置いた。
「ホホホ。すみませんが洗っていませんので。」
と言う鶯谷キョーコの手にはシリコンゴムの手袋が装着されていた。
神田ヒロシはあわててポケットからハンカチを取り出すと球形のGPSを包み、カバンにしまった。
この屈辱・・・、神田ヒロシは失われていた生きがいが蘇るのを感じた。
18時、秋葉原。鶯谷キョーコから合計1万5千円の交際費を得て、簡単な解散会を行っていた。場所は貸し会議のビル3階のメイド喫茶。エロっぽいメイドさんたちを見ながら、オムレツを食べて、1人1500円で飲み放題も設定できる素敵な店だ。
神田ヒロシ、蒲田滝人、鶯谷サト子の3人は飲み放題の安い酒にそれでも心地よく酔っていた。今日だけは鶯谷サト子も夜の冒険をやめて付き合ったのだ。
神田ヒロシは言った。
「鶯谷キョーコさんにはあたまに来ましたよ。見返したい。」
蒲田滝人は既に泥酔し、前後不覚状態にあった。
鶯谷サト子は言った。
「フフフ。やっちゃいましょうよ。ヒーヒー言わせてやりましょう。」
その言い方は何か違う気がしたが、それでも何か面白い気がした。
こんな惨めで安物の人生のうさを晴らして、今だけかもしれないけど、それでも気をおけない仲間と飲める安い酒は美味しい。
「じゃあ。やろう。」
「フフフ。やっちゃいましょう。」
すでに床上で寝ている蒲田滝人もこだまみたいに
「やろう、やろう。」と言った。
33歳淫乱、44歳童貞、55歳アル中、
そうだ。僕たちの冒険は今始まったばかりだ。
To be continued…
逆と応用(副題:戦争 ヤクザ対サラリーマン) ナリタヒロトモ @JunichiN
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