Chapter 3 Camellia
モモがミュンヘンの駅に着いた頃には、時計は23時を回ろうとしていた。改札を出るモモ。
この時間にタクシーなんていないかな、と、モモが思った矢先、迎えに来ているアフメットを見つける。黒塗りの大きな車は、夜でもわかるくらいピカピカに磨き上げられている。
「ホントに不気味なやつだな。」と、モモがアフメットに近づきながら言う。
「お待ちしておりました。」と、アフメットは微笑む。
車に乗り込むモモ。
「ずっとここで待っていたわけじゃないよね?」
「私もそんなに暇なわけではありません。まぁ、駅に知り合いがいる、ということにしておきましょう。」
「ふぅん。」
「他の皆様はお揃いです。モモさんが最後です。」と、最後、の部分にアクセントを置いてアフメットが言う。
「はいはい。遅くなってすまなかった。ちょっと寄るところがあったんだ。」
「……連れて来なかったのは英断でしょうね。」アフメットが呟く。
モモの顔が曇る。
モモの変化に、ミラー越しに気づくアフメット。
「すいません。今のは忘れてください。
葬儀は明朝から始まります。ご夕食のご用意がございますが、いかがされますか?」
「いらない。」と、窓の外を眺めながらモモが言う。
「えぇ……せっかく美味しいシュトレンを焼いたのに……。」アフメットが眉間に皺を寄せる。
「なんかハイドラみたいなこと言うな。」と、モモ。
市街地を出て、ほとんど真っ暗な森の中を走る車。
モモがうとうとしかけたころ、車が減速する。どうやら屋敷に着いたようだ。いや、正確には屋敷の門だ。
ギイイと重厚な音を立てて、高い塀の門が自動で開く。月の光に照らされた、どこまでも続く高い塀が、屋敷の敷地が広大さを物語っている。
また10分程度走り、車はようやく屋敷の前に着いた。屋敷というよりは、宮殿と呼んだ方が相応しいかもしれない。
下から控えめにライトアップされた建物は、三階建で、一階と二階はそれぞれ三メートル近い高さがありそうだ。クリーム色の外壁に、縦長の窓が並び、格子は上品なペールブルーで塗られている。最上階の三階は、あまり高さはなく、落ち着いたグレーの屋根の下に、丸い窓が並んでいる。
長旅で疲れた体を引きずりながら、モモは車から降りる。
流石にこの時間では、屋敷は静まり返っている。少ない数ではないであろうゲストも、今は皆寝ているのだろう。
「お部屋はこちらです。」と、アフメットがモモの荷物を取り、屋敷の中を進んでいく。眠い目を擦りながら、アフメットについて行くモモ。
「明日の葬儀が終われば、その、僕が欲しいものとやらを受け取れるんだよね?なるべく早く帰りたいんだ、待たせている人がいるし。」と、欠伸をしながら言う。
アフメットは、モモを振り返りながら
「こちらとしては、いつまでいてくださっても構わないですよ。ここは、気持ちの整理をつけるには理想的な環境です。」と、にこやかに言う。
「何それ。なんか怖いな。」と、モモは顔を顰める。
廊下、階段、廊下……と二人は歩き続け、一体部屋にはいつ着くのだ?とモモが思った時、
「こちらのお部屋です。」と、アフメットが立ち止まる。アフメットが部屋の鍵を開けようとした時だった。
突然、二、三部屋先のドアが開き、アジア系のショートヘアの女性が現れた。いくら暖房をきかせている屋敷の中でも、ドイツの冬は冷える。しかしこの女性は、Tシャツとハーフパンツといった出立だ。時刻は午前二時になろうとしていたが、女性の切れ長な目は、今起きたばかりのように爛々としている。
「ホントに来たんだ!」と、その女性がモモに向かって言う。モモが声のした方を向く。そして、
「シン。」と、女性の名前を口にする。
「来るって聞いたけど、絶対嘘だと思ってた。」シンがモモに近づきながら言う。
「何で来る気になったの?お父さんのこと、目の敵にしてたじゃん。」
「まぁ色々あって。」と、モモが頭をかきながら言う。そして申し訳なさそうに、
「ねぇ、今日はもう遅いし、僕はここまでの旅で疲れてる。また明日話そう。」と続ける。
「ええ、そうね。ごめん。うん、また明日ね。」と、頷き、シンは手をひらひらさせながら自分の部屋へ帰って行った。
モモも自分の部屋に入り、ふぅっと一息つく。とりあえず明日をやり過ごして、早く、僕が絶対に欲しいもの、とやらをもらって帰ろう、と思う。
翌朝。モーニングコールで起こされるモモ。やはり疲れていたようで、眠りは深かったようだ。鳴り続けるモーニングコールを無視できず、渋々と受話器を取る。
「おはようございます。朝食のご準備ができました。」と、アフメットの声がする。
「いらない。」と、モモ。
「美味しいヴルストもズッペもありますよ。」
「まったく、ハイドラじゃないんだから……。」と言いながら、起き上がるモモ。ウインナーとスープと聞くと食欲は湧かないが、なぜかドイツ語だと特別な料理のように聞こえるのは不思議だ。
朝食会場は一階の大広間だった。ブッフェスタイルで、コンチネンタルスタイルのブレックファーストに、ドイツ料理もいくつか並べられている。さすがに冬場は扉は閉まっているが、広い中庭に面したテラスにも、庭テーブルとソファタイプの椅子が設置されていて、さながらホテルのようだ。モモが降りていくと、十数人が各々料理を取ったり、談笑したりしていた。
とりあえず、トーストと、アフメットの話していたソーセージとスープをとり、適当に窓際の席に座る。
トーストを齧りながら、
そういえば葬儀は今日の何時からなのだろう?とモモは思う。
シンがコーヒーを片手にモモに近づく。
「おはよう。よく寝れた?」と、微笑みかけるシン。
「うん。ありがとう。」
「葬儀はね、10時から始まるみたい。二時間くらいで式は終わって、その後ランチがあって、各自解散らしいよ。」と、モモの前の椅子に腰掛けながらシンが言う。
呆気に取られるモモ。
「どうせ、今日のスケジュール、何も知らないだろうと思って。」と、シンは小首をかしげる。
モモはフッと笑う。
「そう、ちょうどどんな段取りなのかなって思ってところ。あぁ……懐かしいね。シンといるといつも見透かされてるような気がしたなぁ。」
「今は何してるの?まだ作家?」と、コーヒーを飲みながらシンが尋ねる。
「うん。ここ百年以上、ベストセラーは出てないけど……一応まだ書いているよ。」
「そのベストセラーって、日本で書いた作品だっけ?」
「そう。桃真ってペンネームでね。ところで、シンは?まだパン屋?」
「そうよ。せっかくドイツに来たから、プレッツェルでも極めようかなと思っているの。」と、シンは楽しそうだ。
「あ、そう……。」と、モモは少し反応に困る。
明るかったシンの表情が、突然曇り、真剣な表情になる。空になったコーヒーカップを手でいじる。
そして、言いづらそうに話し出す。
「ねぇ、アマーレのことなんだけど……。とても、残念だわ。モモに連絡しようと思って探したのに、見つからなくて。お悔やみ言うのが遅くなってごめん。とっても素敵な人だったのに。」
モモは窓の外を見る。
「ありがとう。僕も残念だよ。まぁ、昔の話だから。」と、窓の外を見たまま言う。
「たった百年でしょ。」と、シン。
モモはしばらく何も言わない。冬の朝の光が、モモの柔らかなブラウンの髪に降り注ぐ。窓の外を見ているようだが、遥か彼方の何処かを見ているのかもしれない。
モモは、そっとシンの方に視線を戻す。そしてその視線を、広間で食事をしたり談笑したりしている人々の方へ向ける。モモが来た時よりも少し減ったが、まだ十人くらいはいるようだ。男女半々くらいで、ランニングウェアを着た若い女性もいれば、蝶ネクタイの白髪の紳士もいる。
「ところで、ここに来ている人たち知ってる?僕は、見覚えがない人たちばかりだけど。」
シンも彼らの方を振り返り、
「どうせお父さんの設立した怪しい団体……何だっけ名前……そうそう、フリーメーソンの関係者が多いんじゃない?」と言う。
「フリーメーソンって、エクスペリがニンゲン社会で生きやすいように、エクスペリが集まって秘密裏にいろんな便宜を図るってやつだっけ?」モモは記憶を辿りながら尋ねる。
「そうそう、それ。まぁ群れるのなんてシニアのエクスペリだけだろうけど。それに、どういうわけか、今や結構ニンゲンも入ってきていて、世界を牛耳る秘密結社なんて呼ばれてるわよね。」と、シンがニヤリと笑いながら言う。
「そう……。」あんまり興味がないな、とモモは思う。
それよりも関心があるのは、自分やシンの他にも、父親の子供、つまり自分の腹違いの兄弟がいるのではないかということだ。
「あとは……もしかしたら、私たちの他にもお父さんの子供が来ているのかもしれないけど。」と、シンがつぶやく。
モモが頷く。「同じこと考えてたよ。そういえば、前に一人だけ、会ったことがあるよ。しかも、ここで。」
「へぇ。どんな人?」
「名前はタントって言ったかな。ネイティブアメリカンっぽい感じの見た目で、陽気な男性だったよ。」
「ふぅん。ここ、モモはよく来てたの?意外。」
「いや、来たのは二回だけだよ。母さんに連れられて初めて来た。二回目はすぐに帰った。」
「アマーレに?なんでここへ?」
「なんでだろうね……。」
シンがさらに何か言おうとした時、新たに広間に入ってきた誰かを見て、シンの顔がこわばる。シンの目線の先を見るモモ。中年の女性だ。品の良い淡いピンクのカーディガンにクリーム色のミモレスカート、特にこれと言って特徴もないが、モモにはその女性に見覚えがあった。
「あ、あれ……。あそこにいるのって。」
「うん、私の母ね。」と、シンが冷たく言う。
「話しかけに行かなくていいの?」と、モモ。
「何も話すことなんてない。」とだけ言って、シンは目を閉じる。もうこの話はお終い、とでも言うように。
敷地内の教会で、葬儀はスムーズに進行した。コンクリート作りで、天井が吹き抜けになっており、全ての柱に沿って縦長のステンドグラスが組み込まれている。吹き抜けの天井や、ステンドグラスから注ぐ冬の光が美しい。
モモは今まで葬儀に参列したことがない。まして、エクスペリの葬儀なんて聞いたこともなかったが、特筆すべきこともないような、イメージしていた通りの、普通の葬儀だった。神父が入堂し、聖歌が歌われ、祈りが行われる。
祭壇に横たえられた棺を見て、ふと、遺体はどうなるのだろう?とモモは思う。埋葬方法は宗教によって異なり、死生観が強く反映されるものという認識だ。葬儀は、形式上はカトリックのようだが、モモの父、プリムは何かを信じていたのだろうか。
ぼんやりと、以前ハイドラとした会話を思い出すモモ。いつ、どこで話したかは思い出せないが、ここと似たような、比較的現代的な作りの教会だった気がする。
「神様はいるのでしょうか?」とハイドラは尋ね、
「どんな神であれ、神の存在を信じているエクスペリは多いよ。」とモモは答える。
「何故ですか?」と、ハイドラ。
「だって、ずるいだろう。」と、モモは微笑みながら答える。
「ずるい?」
「そう、ずるい。もし神がいないなら、僕たちは貧乏くじを引かされたみたいだ。」
「よく、わかりません。」と、困惑した顔で言うハイドラ。
「わからない方が良い。」モモは言う。
葬儀は滞りなく進み、献花の時間になった。献花の花は椿だった。花を手に取り、そっと棺の中の父の遺体の上に置く。棺の中で、鮮やかな赤色の椿に包まれた父は、まだ若々しく見えた。死因は老衰と聞いているが、見た目だけで言えば、人間の歳なら50歳くらいに見える。
何の感情も起きないものだな、とモモは思う。
その後も淡々と式は進み、葬儀は閉会となった。
シンが話していた通り、葬儀後にランチがあるとのアナウンスがあった。シンがモモと話したそうにしていたが、モモはランチはスキップすることにした。教会から出て、そのまま庭をぶらぶら散歩する。庭といっても、ほとんど森だ。そして、冬の森は静かだ。
その静けさを破る足音が聞こえる。見ると、アフメットが片手に紙袋を持って近づいてくる。
「まさか、それが親父が僕に渡したいもの?」と、少し冗談まじりにモモが聞く。
「いえ、シュトレンです。」と、アフメットが真面目に答える。
「え?」と、モモ。
「ランチを抜かしたら、お腹が空いてしまいます。」
「……ありがとう。」と、受け取るモモ。
二人は小道の脇にあるベンチに座る。
シュトレンをかじりながら、モモが尋ねる。
「ねぇ、親父の遺体ってどうなるの?火葬?土葬?それとも、水葬とか?」
「秘密です。」
「何それ。」
「そもそも興味もないでしょう?」と、アフメットが心なしか寂しげにポツリと言う。
「まぁ、そうだね。親父がどうなろうが、興味はないよ。」と、ズボンに落ちたシュトレンのかけらを払いながら言うモモ。
おもむろに立ち上がるアフメット。
「私についてきてください。お見せしたいものがあります。」
アフメットがモモを連れてきたのは、研究施設のような建物だった。高さ20メートルくらいのコンクリートの列柱が、巨大なコンクリートの一枚板のような屋根を支えている。窓のようなものは見えなかった。巨大な建物に不釣り合いなほど小さな金属製のドアが、太陽の光に冷たく光っている。
「こんな建物があったんだ。」と、モモが建物を見上げながら呟く。
「比較的、最近建てられました。」と、アフメット。
金属製のドアに設置された装置にアフメットが手をかざす。シュッと軽い音を立てて、ドアが開く。
違和感を覚えるほど明るく照らされた長い廊下に、ずらっと扉が並んでいる。
「1142B1です。」と、アフメットが言う。
「え?」と、聞き返すモモ。
「あなたのお父様が、どうしてもあなたに渡したかったものです。あなたの指紋と虹彩でドアは開きます。私は外で待っています。」
あっけに取られるモモを置いて、立ち去るアフメット。
モモが入ると、入り口のドアはすぐに閉まった。
少し躊躇してから、廊下を歩き出すモモ。ドキドキと、高鳴る自分の心臓の音が聞こえる。期待なんてしてなかったはずなのに、とモモは思う。
各扉の上部に部屋の番号が記載されている。アルファベットも番号もランダムで規則性は見られない。変な施設だ、とモモが思った時だった。
1142B1と書かれた扉があった。
扉が開くと、そこは予想外にも、窓の大きな明るい部屋だった。そこまで広くはない部屋には、家具の類は一つもない。大きな窓から入る太陽光で、部屋は隅々まで照らされている。
部屋の真ん中には、円錐の上部が切り取られた台のようなものがある。御影石のような見た目だが、低い機械の唸り音がかすかにする。そのスムーズな表面には、黒い小さなスイッチのようなものがあった。
モモはその台のようなものに恐る恐る近づき、スイッチを押す。
ぶぅん、と小さい音とともに、人影のようなものが立ち上がる。
それは、モモの母、アマーレだった。
「ごめんなさい。驚いたでしょう?」と、アマーレが話し出す。視線は真っ直ぐで、モモを見てはいない。モモによく似た柔らかなブラウンの髪、グリーンにもブルーにも見える瞳。そこにいるのは間違いなく母だが、同時に母ではない何かだった。
「モモ、あなたに伝えたいことがあって、メッセージを残すことにしたの。フレールが言うには、あなたと簡単な対話もできるみたいなんだけど……お母さんちょっと詳しいことはよくわからなくて。私、昔から機械とか疎いでしょう?」
フレールという名を聞いて、モモが眉間に皺を寄せる。
アマーレは、軽く息をついて、そっと話し出す。聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな声で。
「ずっと隠していたんだけどね、お母さん、病気みたいなの。ニンゲンの間では、アルツハイマーと呼ばれているものに、症状はとても近いそうよ。
おかしいなと思い始めたのは、二百年くらい前かしら。物の置き忘れやしまい忘れ、物や人の名前が出てこなくなって。最近は、あんなに好きだった料理も、作っていると混乱してしまってできないし、知っているはずの道も迷ってしまうし、色々うまくいかなくて、気持ちも落ち込んでしまう日も多いの。
この間お友達と言って紹介した人、フレールさん、覚えているかしら?実はフレールはね、脳神経外科の医者なの。彼の元で、少しでもこの病気の進行が遅れるように治療を受けているところ。でも、いまだに、この病気の完治法は見つかっていないそうなの。進行を遅らせることしかできない。」
ここまで話すと、アマーレはスカートの裾をぎゅっと握り、声を絞り出す。
「私ね……自分が自分でなくなるみたいで、すごく怖いの。怖くて怖くて仕方がないの。もう、あなたのことも、自分のことも、思い出せなくなる日がくるかもしれないと思うだけで、頭がおかしくなりそうなの。」
アマーレの瞳から大粒の涙がぽろぽろと落ちる。デジタルとは思えないほど、それはリアルで、モモの心を刺す。
「これから私がしようとしていることを、わかってほしいとは言わないわ。責めないでとも、言わない。ただ、これだけは覚えていてほしいの。
私は、あなたを心から愛している。それは、私に何か起きて、あなたに愛していると伝えられなくなっても、私がこの世からいなくなったとしても、永遠に変わらないわ。」
これから言おうとすることを思ってだろうか、アマーレの顔には苦痛と、そして決意が滲む。
「フレールはね、不老不死の研究をしているの。奥様とお子さんを交通事故で亡くしていて、多分それがきっかけなのだと思う。エクスペリのことは知らないけれど、頭の良い人だから、私がニンゲンではないということは気付いていると思うわ。」
「私は、彼の研究に協力をしたいと思っている。自分が生きているうちに役立てることがあるなら、誰かの役に立ちたい。
……なんて格好の良いことを言っているけど、本当は……本当は、いつ自分が自分でなくなるかわからない、1分後かもしれない、百年後かもしれない、そしてその後、自分が誰かもわからずに、何百年も何千年も生きることになるかもしれないなんて、もう、考えたくもないの。もう、疲れたの。」
スカートを握るアマーレの手はかすかに震えている。モモは、その手を握ってあげることができたらどんなにいいだろう、と思う。
「あぁ、支離滅裂ね、ごめんなさい。でも、これがきっとあなたと話す最後だと思う。私がいなくなっても、探さないで。こんな母親でごめんなさい。私は、あなたのことをいつまでも愛している。そのことだけは忘れないで。」
ここまで話すとアマーレはピタリと動きを止めた。メッセージが終わったということだろうか。
呆然として動けないモモ。真正面をじっと見つめているアモーレ。
母は、一体何をしようとしていたのだろう。研究に協力とは具体的に何を指すのだろう。まるで、自殺を仄めかすような口ぶりだったではないか……モモの頭は混乱している。
モモは、震える手でもう一度スイッチを押した。
気が付いたら、部屋に西陽が刺している。窓の外は夕暮れだ。
どのくらい、ここにいたのだろう、とモモは思う。
あの後、メッセージを幾度も再生した。アマーレに質問も投げかけてみたが、メッセージについての質問に関しては、返ってくる返答は的を得ていないか、抽象的なものばかりだった。ただ、モモとの思い出についてはインプットが詳細にされているようで、以前この屋敷を訪れた際に行った場所や話したことについては、不気味なほど生き生きと饒舌に話し、モモを驚かせた。
ふいに、モモは、自分がとても、とても疲れていることに気付いた。ふらふらとした足取りで部屋を出るモモ。閉まる扉から、アモーレが見える。こちらを振り返るのではないか、と現実的ではない期待が一瞬モモの心をよぎるが、アマーレは、一点を見つめて微動だにしなかった。
部屋を出ると、一瞬、方向感覚を失い、モモは立ちすくむ。出口はどっちだったけ……と思った時だった。モモの脇を、急に何かが横切った。
モモは驚き、バランスを崩して尻餅をつく。モモのそばを横切った影は、モモには目もくれずに、軽やかな足取りで廊下の奥へと去って行った。微かに見覚えがある。あの後ろ姿は――
「……タント……?」
タントと思しき人影が消えた方からは微かに鼻歌のようなものが聞こえる。モモは、その歌に聞き覚えがあるような気がする。そして、タントが外に出たのか、その鼻歌は聞こえなくなった。
モモもタントの消えた方向に歩いて外に出る。アフメットが近くの植垣を剪定しているのが見える。モモに気付き、こちらに来るアフメット。
「終わりましたか?」と静かに尋ねる。
「うん。」と、頷くモモ。
二人はしばらく何も言わず、空いっぱいに広がる夕焼けを見つめる。
「そういえば……タントも来ているんだね。葬儀では見かけなかったけれど。」と、モモが沈黙を破る。
アフメットは何も言わない。
「多分タントだと思うんだけど、さっき建物の中ですれ違った。」
アフメットはまだ何も言わず、手に持っている剪定バサミをいじる。そして一言、
「ちょっと、私についてきてください。」と言った。
「え?また?」
アフメットについていくと、突然視界が開け、色とりどりの椿が咲くガーデンに着いた。献花した椿は赤だったが、ここには赤以外にも、白やピンク、単色ではなく二色混合など、様々な椿が鮮やかに咲き誇っている。花弁も、一重咲き、千重咲きと、バラエティに富んでいて、椿にもこんなに種類があるのかと、モモは驚く。
奥の方に人影が見える。
そこには、うっとりした顔で花を愛でるタントの姿があった。
「最近は、ずっとあぁして椿を見ていらっしゃいます。」と、アフメットがタントの方を見ながら言う。モモは、タントの様子をじっくりと観察する。
昔の、はつらつとしたタントとは雰囲気が明らかに異なることに、モモは気づく。なんというか、ぼうっとしたような……。
「ねぇ、もしかして……。」
「えぇ。タントさんも、あなたのお母様と同じ病を患っていらっしゃると思われます。」
「そんな……。」
「彼は六千歳に近いはずですが、現在の知能は、ニンゲンにおける一歳から二歳程度です。」
モモは何も言えず、口をつぐむ。
「恐らくは、近い将来に運動障害を発症し、最終的には寝たきりになると想定されるのですが、エクスペリにおけるアルツハイマーは前例がほとんどなく、予測が困難です。明日いきなり動けなくなるかもしれないし、1年後かもしれないし、もしかしたら千年後かもしれない。寝たきりになったとして、どのくらいの期間寝たきりになるのかもわからない。」
「治る見込みもない。」と、モモは母の言っていたことを思い出して呟く。
「えぇ。ニンゲンのアルツハイマーと同様、一度発症したら、進行を遅らせることはできても、完治はしないと考えられています。」
モモは俯き、そしてポツリと呟く。
「父さんは、母さんの病気のことを知っていたんだね。」
「病気が進行し、恐らくは日常生活を送るのが困難になったのでしょう。あなたのお母様がこちらにご相談に来られました。
ごく限られた者しか知らないので、決して他言はしないでいただきたいのですが、エクスペリとニンゲンは、同盟関係にあります。我々の知見を提供する代わりに、我々の存在の隠蔽を手助けしてもらう、というのが基本契約です。実績は、日常生活に資する話から、軍事まで、多岐に渡ります。そして相互協力の観点から、レアケースではありますが、時には、ニンゲン側から医療行為を受けることもあります。
アマーレさんの病気に関し、エクスペリ側でできることには限りがありました。」
「てことは、まさか……」モモの顔色が変わる。
「ええ。フレールは、プリム様の依頼を受け、ニンゲン側が選定した、アマーレさんの主治医でした。モモさんとしては信じ難い事実かもしれないのですが、フレールが不老不死の研究を秘密裏に行っていることは、関係者は誰も知りませんでした。」
アフメットは、空を見ていた視線をそっとモモに向ける。モモは何かを言いかけ、そしてやめる。目を閉じるモモ。アフメットが口を開く。
「あなたのお父様は、自分に残された最後の時間を、この病の治療法発見に費やしました。
あなたのお父様は、プリム様は、多くを語る方ではありませんでした。そのせいで、自分勝手、傲慢、冷たいなどど揶揄されることも多かった。でも、私には、どうしても、あの方が自分勝手で傲慢で冷たい方だったとは、思えないのですよ。」
あたりはもう、薄暗くなっている。咲き誇る色とりどりの椿が、夕暮れの闇に溶けていく。
ふと耳を澄ますと、タントが鼻歌を歌っているのが聞こえる。建物の中で聞いた歌と同じ歌だ。
あ。と、モモは気付く。
この歌は、モモが小さい頃に、プリムが歌ってくれていた歌だ。段々と記憶が薄れゆくタントに、プリムが歌っていたのだろうか。
優しく心地よいそのメロディは、椿の花々とともに、夕暮れの闇に溶けていく。
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