第10話 田中くん、調子乗ってるよね
それは本当にちょっとだけ嫌なことだ。
人によってはそんなことでと思うかもしれない。ただ当時の僕にとって、それは自分の全てを否定されたような気持ちになってしまった。
僕は小学生のとき、歌うことが大好きだった。
最初はアニメの歌とかを口ずさむことから初めて、父や母が聞いていたJPOPもよく歌うようになった。家族でカラオケに行くとよく両親や妹が褒めてくれた。すっかり調子に乗った僕は、歌えば褒めてもらえると思って、色んな曲を覚えて披露するのが楽しくて仕方なかった。
中学生に上がって合唱部に入部した。最初は声変わり前だったからソプラノを担当していて、声が変わってからは男声を担当した。声変わりはちゃんと来て地声は低くなったんだけど、ありがたいことに歌える音域はあんまり変わらなかった。合唱は、一人で歌うことやカラオケとは全然勝手が違うんだけど、やっぱり歌うことはとても楽しくて、一生懸命練習に参加した。中学一年生のころ、男子が少なかったのもあったけど、学校代表としてNコンのステージにも立った。全国行きは残念ながら逃しちゃったんだけど、その悔しさをバネに僕はますます歌うことにのめり込んでいった。僕の中学は合唱に結構力を入れていて、自分で言うのもなんだけど、強豪校だった。
僕は他の人よりももっと上手くなりたい、来年は全国に行きたいっていう一心で放課後残ってたくさん練習したし、朝練も積極的に参加した。
その甲斐があったのか、中学二年のコンクールのとき、ソロに選ばれた。ソロパートは本来女性が担当するはずだったんだけど、音域的には僕にも出せたし、一生懸命練習しているところを先生が見てくれていたから抜擢してもらえた。
僕は本当に嬉しかった。自分の頑張りが認めて貰えたこともそうだし、僕の頑張りが直接、みんなの役に立つ感じがした。だからこそ練習量も増やした。家でも学校でも早朝も放課後もいつも歌のことを考えていた。
だけどそれは僕の独りよがりだった。
ある日のことだった。
僕は練習に出ようと思って音楽室まで行った後、忘れ物に気づいて教室に取りに戻った。すると同じ合唱部の女の子たちが何人か教室で話していた。決して盗み聞きするわけじゃなかった。でも教室の前まで行ったら聞こえてしまったんだ。クラスメイトの女の子たちも僕が戻ってくるとは思ってなかったんだと思う。
「田中くん、最近調子乗ってるよね」
「そうだよね、頑張ってますアピールしてさ」
「なんか声も少し変わっているよね。確かに音域は広いけど」
「なんかさ、あのアニメキャラみたい。あの……なんだっけ。アニメ映画の……」
「カエルじゃない?」
「あ、それそれ! よくわかったね!」
「だってそっくりだもん。前はもっときれいな声してたけど、今は微妙だよね」
「なんかガラついてるよね。顔が可愛い系だからなんか面白くて」
「そうそう。練習中、結構吹き出しそうになっちゃう。絶対にひとみがソロ歌った方がいいよ」
「えー、そうかな」
「そうだよ。先生、可愛い男の子だから選んだんじゃない?」
「あはは! かもねー!」
笑い声とともに聞こえてくる内容に僕は崖から突き落とされたような感覚に陥った。
人は嘘をつく。悪口も言う。そんな生きていれば当たり前のことが、幸運なことに、十四年間の僕の人生にはなかった。だからそれだけ衝撃を受けた。
そのクラスメイトの女の子たちは僕がソロに選ばれたとき、笑顔でおめでとうと言ってくれていた。
あの笑顔が嘘だったって考えると、僕は何を信じればよいのかわからなくなった。それに他にこれといって取り柄のない僕にとって、歌や声は唯一誇れるものだった。それをけなされた途端、自分が空っぽな人間に思えて仕方なかった。
僕はその日、合唱部に入ってから初めて練習をさぼった。先生に体調不良と連絡を入れ、自転車にまたがり、誰もいない場所に逃げ出したくて、あぜ道をひたすら走った。でも、どこに行ってもさっき教室で聞いた女の子たちの会話が頭の中で反芻されてしまった。
翌日は練習に顔を出した。女の子たちが体調を心配して話しかけてくれた。昨日僕に対して色々言っていた女の子たちだ。勿論、素直には喜べない。僕は大丈夫だよと苦笑いを浮かべるしかなかった。
そして練習が始まると、声出しのときからずっと周囲の視線を感じてしまった。まるで世界中の人間が僕のことを笑っているような気がしてしまった。あれだけ楽しかった部活が地獄のように感じられた。そして、全体練習に入り、ソロパートを歌い出したとき、僕は吐いた。
その後のことはよく覚えていない。僕の吐瀉物はきっと誰かが処理してくれたんだろうけど、誰かはわからないし、それ以来、練習にも行けなくなった。いや、行かなかった。
僕は部活を辞めた。僕の後のソロパートは、あのとき教室にいた女の子が担当したって、噂では聞いた。
そうして僕は人前で歌えなくなった。歌おうとすると吐きそうになるんだ。当時のことを思い出してか、理由はわからないけど、条件反射のように、記憶が僕の邪魔をしてくる。
家族の前でも試してみたんだけど、結果は一緒だった。あれほど好きだった歌を歌わなくなって、母さんや妹は心配してたみたいだけど、深くは聞いてこなかった。こっちとしてはありがたかったけどね。
それからは人前で歌うことを極力避けた。クラスの行事や音楽の授業などは最低限の声でこなして、他の人のサポートに回った。自分に注目されるという感覚がなければ大丈夫みたいで、それは別に難なくこなせた。そうして自分の身体を守りながら過ごしてきた。
僕は自分の弱さを呪った。他の人ならきっとなんてことないことなんだろう。だけど、そんな陰口を一回聞いただけで、歌わないことを選ぶことができた自分を嫌いになった。
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