第5話 ラップとはなんぞや?
夕暮れの中、帰路につく。夏は本当に時間感覚が分からなくなる。
まだ夕方前だろうと思っていたら、ふいに下校のアナウンスが流れ、二人は帰り支度をして、駅に向かった。日が暮れるまで練習に励む野球部の面々を横目にグラウンドを通り抜ける。正式な部活動としての活動が許されていない達也たちは下校のアナウンスが流れたら帰らざるを得ない。きららはまだ帰りたくないといった様子だったが、また明日もあるからと達也が諭すと渋々帰り支度をしてくれた。
駅につき、昨日と同じようにベンチに座る。
「今日は本当にありがとう! これからよろしくね」
「足を引っ張らないようにします……」
「これからだから! 田中君、頭いいから絶対すぐに上手くなるよ! あ、電車きた。それじゃ、また明日ね!!」
そういって乗り込んでいくきららを達也は見送った。するとすぐに逆側の電車、達也の家へ向かう方面の電車がきたので、達也もそれに乗り込んだ。
電車に揺られ、学校から二駅離れたところに達也の最寄り駅はある。自転車通学でもいいくらいの距離だが、根本的に運動が好きではない達也は電車通学を選んでいる。
電車から降りて、時計を見ると十九時に差し掛かろうとしていた。うっすらと赤みがかってはいるが、頭上の空はまだまだ明るい。遠くの方では微かに夜に変わろうとしている空が見え、朱色と紺色が綺麗なコントラストを描いていた。そんなとても趣深い風景の中、達也は早速、安請け合いをしてしまったと後悔していた。
(僕にできるのかな……)
あの後――達也ときららの拳が重なった後、早速きららのラップ講座が始まった。
まず知識がほとんどない達也のために座学から始まった。教室の黒板にきららがでかでかとした文字で「ラップとはなんぞや?」と書いたところから始まり、一方的な講義形式となった。
ラップを構成する要素は主に二つある。
一つ目はライム。同じ語感の言葉を繰り返すというもの。母音を合わせたり、子音を含めた、似た語感の言葉を用いて、リリックという所謂歌詞を紡いでいく。またこの行為は一般的に「韻を踏む」と言われる場合も多い。
もう一つはフロウ。簡単に言えば歌いまわしのことである。単調なメロディで棒読みのように歌うのか、それとも抑揚をつけて歌うのか。同じ言葉でもそこに個性が出る。
そしてこれらを音楽に合わせて即興で行い、相手をディスりあう。つまり貶し合い。それで勝敗を決めるものが、昨日達也が目撃したフリースタイルバトルである。
昨日のように観客の声で決まる場合もあれば、審査員がいて、その投票により決まる場合もあり、その勝敗の決まり方は様々だ。審査員の個性が多分に出るものもあれば、圧倒的な技術の差で完膚なきまでに叩き潰されることもあるらしい。
本当に好きなものを語る口調で、いつもより大分早口になったきららの説明を聞いた後、達也は早速自信をなくした。
率直な感想は「難しそう」だった。
昨日実際に生で見たステージと、きららの説明を合わせて考えてみる。相手の発言に対し、瞬時に反応し巧みな言葉で反論する。相当頭の回転が速くないとできない芸当だ。またフリースタイルバトルの評価点としてその返しの言葉も評価点になる。自分にそんなことができるだろうか。
その他に達也には超えなければいけないハードルがあった。それは実際にバトルをするとなれば、対戦相手をディスらなくてはいけないこと。つまり対戦相手を侮辱しなければいけないということだ。
達也は生まれてこの方、人の悪口を言ったことがない。他人を不快だと思ったことはあってもそれを言語化し、自分の心の外に発信したことがない。そんな自分が相手の痛いところを的確に指摘したり、侮蔑することができるのだろうか。
きららは初心者である達也にわかりやすく丁寧に説明していたが、だからこそ、その難しさも合わせてひしひしと伝わり、早速不安になってしまったというわけである。
(まぁ、心配しても仕方ないか……やるって言っちゃった以上、やるしかない……)
最寄り駅である北山駅を降り、田んぼ道を通ると閑静な住宅街に入る。この中の一角に達也の住んでる家がある。父親が三十五年ローンを組んでおり、まだ返済途中なことを何かの折に聞いたことがあった。
「ただいまー」
玄関のドアを開け、帰ったことを告げると達也の母である優子が出迎えてくれた。
「おかえりー。夕飯できてるよ」
「ありがと、すぐ食べるよ」
「お兄ちゃん、お帰り!」
リビングに入ると、主人が返ってきた犬のようにぴょんぴょんと跳ねながら、達也の元に女の子が駆け寄ってきた。
達也の妹の翔子だ。
肩で綺麗に切りそろえられた髪の毛がさらさらと動きに合わせて揺れる。達也の二歳下で現在中学二年生だが、その雰囲気とあどけない仕草は知らない人が見たら小学生と言われても信じるだろう。
達也に非常に懐いており、事あるごとに引っ付いてくる。好かれているのはありがたい話だが、いまだにすり寄ってくる妹にそろそろ兄離れをした方が良いんじゃないかとたまに心配になることがある。
「ただいま」
鞄を二階の自室へ置き、すぐにリビングに戻る。既に達也のために白米が盛り付けられており、ほかほかと茶碗から湯気だっている。その横にはハンバーグ。付け合わせににんじんとほうれん草のソテーが添えられており、空腹で帰ってきた今、非常に食欲をそそられる内容だった。
「えへへ、私もハンバーグ手伝ったんだよ」
そういって翔子が椅子に座りながら胸を張る。
「へーすごいな」
「なんかリアクション薄くない?」
「そんなことないよ。あれ、父さんは?」
「今日は遅番だって」
「そっか」
達也の父親の達央は京都市内のドラッグストアチェーンで店長職についている。シフト制のため、帰ってくる時間にばらつきがあった。早番の際は一緒に夕飯を食べられるが、遅番のときは帰宅時間が日をまたぐこともあり、なかなかハードな仕事だった。
「ま、だから先食べちゃいましょ。いただきます」
優子の一声に二人が声をそろえて「いただきます」と続いた。
ハンバーグを口に運ぶと口の中に肉汁がじゅわと広がった。ホロッと崩れる柔らかさだ。冷凍食品ではこの味は出せない。
「えへ、おいしいでしょ」
翔子が笑顔で尋ねてくる。あまり褒めると調子に乗るが、嘘をいうわけにはいかない。
「おいしいよ。さすがだな翔子」
「味付けはお母さんだけどねー。ま、味わって食べてください!」
その返事に満足したのか、翔子はにこにこと自分の目の前に置かれたハンバーグに手をつける。一口ずつ口に運ぶたびにいちいち幸せそうなリアクションを取っており、その感情豊かな様子に兄妹でこうも性格が違うかと達也は思った。
「今日は遅かったわね」
優子が達也に言った。高校に入ってからは部活もアルバイトもやっていないこともあり、放課後はすぐ帰宅することが多かった。中学で吹奏楽部に入っている翔子より後に帰ることはここ数カ月では本当に数えるくらいしかなかった。
「うん、ちょっと人と約束があって。明日もこのくらいになりそう」
「もしかして彼女?」
「え、嘘⁉ お兄ちゃん彼女いるの⁉」
優子の何気ない発言に翔子が過剰に反応する。達也が女子を苦手なことは母も妹も知っている。気兼ねなく話すことのできる女性は家族ぐらいなはずの達也に彼女の影を感じたとなれば兄のことが大好きな妹の立場として黙ってはいられない。悪い女でないか見極めないといけないという義務感からか、翔子の声のボリュームが上がった。
「いや、そういうんじゃないよ」
「じゃぁどういうの⁉」
翔子の勢いに負け、達也は昨日と今日あった出来事を説明した。
昨日ひょんなことからラップのイベントに行ったこと。そこで同級生の女の子に出会ったこと。その女の子に部活作りに協力してくれと頼まれ、文化祭でそれを披露することになりそうなことを簡潔に話す。
女の子という単語に過敏に反応した翔子をよそ目に、話を聞き終わったあとの優子は非常に優しい眼差しをしていた。
「だから明日からそれの練習で帰るのが遅い日ができるかも……って母さんどうしたの?」
「あ、いや、ラップって私あんまり詳しくないけど……でも、達也がまた歌うのが少し嬉しくて……あ、でも無理しちゃだめよ」
「はは。うん、まぁそうだね。無理はしないよ」
「で、どんな女の子なの⁉」
その同級生の女の子の詳細をしつこく聞きたがる翔子をあしらいつつ、ハンバーグをたいらげた達也は再び自室に戻った。
鞄から今日、きららに渡されたDVDをゲーム機に差し込み、再生ボタンを押す。DVD再生はおまけの機能ではあるが、あまりゲームをやらない達也にとっては、この機能を使うことの方が圧倒的に多い。そもそもこのゲーム機も父親が昨年末の家電量販店の福袋で当てたもので、家族の誰もゲームをしないから、消去法で達也の部屋に置かれているに過ぎない。
ディスクにはタイトル表記がでかでかとされており、「厳選‼ 田中君へ!」とポップに書かれていた。考えるに昨日の夜、達也と別れてから準備をしたわけだ。勿論達也が返事をする前なのだから、用意周到である。
(結果的に彼女の思惑通りだな……はは)
相当、楽しみにしてくれていたことがその文字から読み取れ、見る側にも少し気合が入る。
DVDはテレビ番組の切り抜きが主で様々なフリースタイルバトルが収録されており、そのどれもがハイレベルなものだった。昨日イベントで実際に見たものにも圧倒されたが、収録されているバトルはどれもプロのものであり、素人目から見てもレベルの違いがわかる。
その中でも達也を一際引きつけたバトルがあった。
チャレンジャーが三人のモンスターと呼ばれるラッパーを倒すと、ラスボスに挑むことができ、そのラスボスに勝利すると賞金が手に入るという趣旨の番組なのだが、そのラスボスの引退試合に達也はとても胸をうたれた。
ラスボスは最後の対戦相手にモンスターのうちの一人を指名した。お互いがリスペクトを持って戦い、最後はモンスター側がラスボスへの感謝の言葉を告げてそのバトルは終わりを迎えた。他の相手を貶しあってるバトルと比べて明らかに異色だった。が、しかし何か、言いようのない感動が達也の心に残った。
(すごいや……ただ貶しあうだけじゃないんだ……)
興奮冷めやらぬまま、達也は布団に入った。バトルの余韻のせいか、その日はなかなか眠ることができなかった。
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