第10話獄上の拷問
その言葉に、勇者タケルが剣を収め、物凄い勢いで飛び退って間合いを切った。
「な、なななな……!?」
「何を動揺している。――斬りつけたぐらいで、魔王である俺を斬れると思ったか?」
その
途端に、むん、と濃くなった魔王の殺気に、のえるだけでなく、他の魔族、そして他ならぬ勇者までもが怯えた。
「な、なんで、なんで斬れ――!?」
「簡単な理屈だ。木の枝で鉄塊を砕くことが出来るとでも? この場合、硬度とは魔力の総量、そしてどの程度研ぎ澄ませたかになる。単純に、貴様が振るった剣より、俺の指の方が硬かったというだけだ」
ゴゴゴゴ……と、音が鳴る勢いで魔王のオーラが勢いを増した。
勇者タケルはそのオーラの凄まじさに顔を硬直させ、気圧されたように後ずさった。
「人間どもに勇者だ英雄だと
ギリッ! と、魔王ベルフェゴールが目の前の勇者タケルを睨みつけた。
「貴様は俺の甘皮一枚も切り裂くことが出来ぬというのに、愚かにも裸一貫でこの俺の前にノコノコ現れた。その
「や、やっかましいわ! リア充が陰キャに偉そうに説教ブッこいてんじゃねぇぞ! それだからリア充は嫌いなんだ! 俺たちが必死に生きてるのをいつもいつも上から目線でバカにしやがって……!」
勇者は
怯え、震え、転生前と同じ、情けなさと自信のなさを丸出しにした声で、勇者タケルは再び剣を振り上げる。
「こっ、これで効かないなら次はもっともっと本気出してやる! 次こそはお前をギッタギタにしてやるんだからな……! これが勇者の本気だぁ!!」
その震え声とともに、勇者は魔力を全開にして地面を蹴った。
凄まじい程にほとばしるオーラが大気を焦がし、ゆらゆらと向こうの景色を歪ませながら突進してくるのに向かって――ベルフェゴールが、フッ、と息を吹きかけた。
途端に、勇者が纏っていた魔力が突風に吹き消されるようにして霧散した。
勇者が、ぎょっと目を見開いて身体に急制動を掛ける。
後に残ったのは、命綱である剣の束を握り締め、間抜け面を晒したまま立ち尽くす、愚かな青年がいるだけである。
「……え?」
「こうして俺に吹き消されるほどの本気、ということか。貴様はやはり最低のカス勇者であるらしいな。虚栄心、承認欲求、他者への優越感――そんな私利私欲のために振るわれる剣のなんと軽きことか――」
ベルフェゴールは硬直したままの勇者に一歩近づくと、むんず、とばかりにその剣の鋒を鷲掴みにするや、ほんの少し腕に力を込めた。
「ほら、片腕一本で持ち上げられる程に、勇者である貴様の存在は軽い――」
途端に――その剣の束を握る勇者タケルの身体までもが冗談のように宙に浮き、勇者タケルの身体が棒切れのように振り回される。
「うおっ……うおおおおおっ!?」
「きちんと受け身を取らんと大怪我するぞ――そら!」
瞬間、ベルフェゴールはまるで小石を投げるかのように勇者タケルを放り投げた。
ぐえっ! ぶべべべべ!! と、汚らしい悲鳴とともに地面を転がった勇者タケルは、土埃に塗れて地面に転がった。
凄い、魔力すら使っていないのに、魔王は既に勇者を完全に手球に取っている。
まだこの異世界に召喚されて長くないのえるにも、その凄まじさは十分に伝わっていた。
「ぐ――!? ぐおおおお……!!」
「何を寝転んでいる、貴様は勇者なのだろう? ここは魔王の御前なるぞ、勇者であるならばさっさと立ち上がってみせよ」
その圧倒的な挑発に、勇者タケルが両手を地面について起き上がろうとするのを――ベルフェゴールは何の容赦もなく、真上から蹴り潰した。
鈍い音が発し、勇者タケルが顔面を地面に叩きつけた。
「ガ――!」
「どうした勇者、俺は立ってみせろと命令したはずだぞ」
そう言って、ベルフェゴールは勇者の後頭部から足を離した。
勇者が咳き込みながら顔を浮かせた瞬間――再びベルフェゴールはその後頭部を蹴り潰した。
まるで勇者の肉体ではなく、心そのものをやすりで削り取るかのように――。
その攻撃、否、拷問はたっぷり五回ほども繰り返され――遂に勇者の鼻が潰れ、
勇者の頭が蹴り潰されるたびに、のえるは目を背けた。
見なければ、見届けなければという使命感を圧して、繰り返される攻撃音と悲鳴が鼓膜をひっ掻くかのようだった。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
勇者に一撃を加えるごとに、ベルフェゴールが魔王になっていく。
この半月、見知ったベルフェゴールが知らない誰かになっていく。
のえるが泣きそうになって歯を食い縛っていると、不意に、勇者の口から
「あ……あ……! う……!」
「もはや唸ってみせる気力もない、か。どうだ、これが勇者と魔王の闘いというものだ。どちらかが滅ぼされるまで永久に続く苦しみと痛み――貴様はこんなものになんの憧れを感じていた?」
ふと――そう言ったベルフェゴールの顔に、莫大な徒労感と哀れみが浮かんだように見えたのは――のえるの見間違いだったのか。
地面に顔を押し付けたまま震えている勇者タケルを見下ろして、ベルフェゴールがゆっくりと、右足を地面に下ろした。
「俺たち魔族は五百年の間、貴様たち人間とこんな歴史を繰り返してきた。この戦いによって命を落としたものの数はもはや数えることすら叶わぬ――それがこの世界の現実だ。仮にお前が俺を殺すことに成功したとしても、それで全てに決着が着くのか、それすらわからんのだぞ」
魔王の声が、何かを言い聞かせる声になる。
地面に顔を押し付けたまま、勇者タケルは微動だにしない。
「勇者とは英雄の呼び名ではない、この戦争で最も多く傷つき、最も多くの血を流して戦う人間の名だ。貴様にはとてもその任は務まらぬ、務まらぬ方がよいのだ。傷つき戦うお前の代わりに陰で安穏を
命令とも、懇願ともつかぬ言葉とともに、ベルフェゴールは勇者に背を向けた。
圧倒的な存在、圧倒的な戦力差、圧倒的な現実を前に――勇者はガタガタと震えたまま、獣のような唸り声を上げて身体を丸め、両腕で頭を抱えた。
殺さない、のか――?
のえるが視線だけで問うと、ようやくベルフェゴールの顔がわずかに綻んだ。
だって、お前はそう望むのだろう?
ベルフェゴールのその疲れたような笑みが明らかにそう言っているのを見て、ようやくのえるはベルフェゴールの下に駆け寄ることが出来た。
「ベルベル――!」
「もう心配はない。勇者は二度と勇者として立ち上がることは出来ぬ。――もはやお前がそう望まぬ限り、人間どもに連れ戻されることはないだろう」
その言葉に、安堵したとも言える気持ちになった、その瞬間。
ベルフェゴールの右手がのえるの頭の上に回り、えっ? とのえるはベルフェゴールを見た。
「心配はいらぬ。偽りの勇者などいなくとも、この世界には既にお前がいる。お前さえいればこの世界を救うには十分だ。お前の優しささえあれば――この世界の悲劇はきっと終わる。先程、言葉だけで俺たちの苦しみを救ってくれたようにな――」
ニコリ、と、初めて完全に笑ってみせたベルフェゴールの笑顔に――のえるの中の、今まで一度も震えたことのない部分が震えた。
元々、狂気的なまでの美形ではあるとはわかっていたけれど、のえるから見たベルフェゴールという男は、色々と男性としては残念な男でしかなかった。
しかし――先程の、まさに魔王のそれとしか思えぬ冷酷な戦いぶり、そこから一転してこのスマイル――。
反則、の一言であった。
自分の顔面に血潮が上る音が聞こえるようだった。
ぽーっと、何も言えずにベルフェゴールの顔を凝視すると、ベルフェゴールが少し戸惑ったような顔をした。
「のえる――?」
「イイ……」
「は?」
「マジヤバっ、コイツ、マジかよ……! こんなん反則じゃん……! むっ、無理無理無理……!」
「どうしたのえる、急に語彙が……」
その時だった、ぴちゃ、という小さな小さな音をのえるの耳が広い、はっとのえるは下を見た。
見ると――魔王の指先から血が滴り、自分の足元に小さな血溜まりを作っていた。
◆
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