第27話




新しい学校での生活が始まってからも私は陸上部を続けつつ夜は道場に通う生活を続けていた。

そしてそんな生活を行っていた私がある日いつものように家に帰ると母が呆れ顔のまま私の帰りを待っていた。

「話があるから」と声を掛けられ椅子に座るように促される。


机の上には遅れて届いた私の成績表と共に先生からの手紙が置かれていた。


「──まずはこれを見なさい」


そう言って向かいの席に座る母が届いた成績表を開いた。

保体のみ『5』という数字が表記され、その他は『2』もしくは『1』だった。


私は薄ら笑いを浮かべることしか出来なかった。

私の反応を見た母は次に先生から届いた手紙を開いて見せた。

私にそれを読むように促し、母は無言のままある一文だけを指でなぞっていた。


『今後綾辻さんのこの成績が続けば高校受験は愚か卒業が危ういかもしれません』


私は自然と佇まいを正し、母と向き合った。


「──いい?愛梨。陸上部も合気道も愛梨が必要な事だって思うことならさせてあげたい、って私は思ってる」


「……はい」


「だけど、だからといって勉強を──、学生としての本分を蔑ろにしちゃダメ。私が言ってること、分かるよね?」


「……はい、分かります」


「なら良し。勉強と運動の両立は大変だと思うけど、無理しない範囲で頑張ってね。私は愛梨なら出来るって信じてるから」


母の優しい言葉を受け止めながら、私は今一度成績表を見返してみる。


私が特に苦手なのは文系、つまりは記憶問題だった。

理系がまだマシなのはなんとなくだけど解き方を覚えているからだ。


それはどれもこれも全部吉野の手柄。これからも彼に教わりながらやっていけば何とかなるだろう。

そう、安易な思考に走った時だった。


「──あ、もし次のテストで赤点ばっかりだったら……その時は、覚えておいてね」


最後に母は笑いながらそう言って舞菜の眠る部屋に戻っていった。


私はしばらく固まったまま動けずにいた。


翌朝、学校に行って昨晩の母との会話について吉野に話をしたところ「自業自得だ」と笑われた。

大して成績の変わらない楓奏まで私を馬鹿にしてきて心底ムカついた。


私は授業を受けながら考えた。

試験で良い点数を取るために何をどうしたらいいのか。そして部活や道場との両立。

時間の配分次第じゃどうしてもいずれかが疎かになってしまう。


ならば徹夜でもするか。そうも考えたが、それは巡り巡って体調不良に直結するため却下。もし寝不足で通学して階段から落っこちるような事があれば怪我をして日常生活に支障が出るだろうし、家族にも迷惑が掛かる。

それは良くない。


授業の板書をするでもなく、ただただノートにあれこれと殴り書きしていく内に授業は終わりを告げた。




「わざわざ家での勉強の時間を作らなくたってまず授業をちゃんと聞いていれば試験だってなんとかなるはずなんだけどな」


休み時間になって勝手に私のノートを見たらしい吉野からそんなことを言われた。

隣で私達の話を聞いていた楓奏が胸の辺りを抑えながら蹲った。

やはり生まれ持った物が違うのか、この男には私達のような凡人の悩みは理解出来ないらしい。


「はい、出た出た。頭良いアピー!天才アピー!授業聞いて理解出来るんだったらクラス全員高得点取れるはずでしょ。そうじゃないってことはそういうことじゃん!」


「そうだそうだー!」


「……はー、さいですか」


楓奏が本気か冗談か吉野に対して抗議の声を上げた。便乗する形で私も笑いながら吉野を揶揄うと彼は溜め息を吐きながら自分の席に戻っていった。


そんな一幕はあったものの私が自分の学力を何とかしなければならないのは事実なわけで。

ならやっぱり何とかして家庭学習の時間を捻出していかなければならないわけで。

私は家に帰る道すがらも頭を悩ませた。


私にとって必要な物とそうでない物、取捨選択をしなければならない。


帰宅して、自室で机に向かい合いながら頭を悩ませていると「ドンッ」と扉に何かがぶつかった様な音がした。

ゆっくりと扉を開けてみるとそこには舞菜がいた。


最近ハイハイを覚えたらしい舞菜は目を離すとすぐに何処かへ行ってしまうのだと少し前に母が嬉しそうに話してくれた。


こうして私の部屋に遊びに来てくれた舞菜を抱いて頭を撫でて褒めてあげると舞菜は嬉しそうに笑った。


私は悩んでいた事を一旦放棄して舞菜を連れてリビングへと向かった。

慌てた様子の母に感謝され、リビングで舞菜を抱えてソファに座った。


ソファの上でボーッとテレビを眺めているとそれからそう時間の経たない内に膝の上に座っていた舞菜が大人しくなった。

そしてすぐにつられるようにして気づけば私も眠ってしまっていた。




馨しい匂いと共に目を覚ますと私達の隣には母が座っていた。テレビを見ては一喜一憂して、とても楽しそうだ。


「──この匂い、ビーフシチューだ」


「あ、起きた?もうすぐご飯出来るからね」


私の膝から眠る舞菜を引き取りつつ母はそう言って食卓に着くように言った。


母の作った美味しいシチューを食べながら、私は再び頭を悩ませた。

日常生活の時間配分についてや生活を送る上での取捨選択について考えていると、ふと私の目の前で夕飯を食べているはずの母が私の方を見て固まっている事に気がついた。


「──何かあった?」


「ううん、考え事してただけ」


「そう。もし何か困ってるんだったら話訊くけど?」


母はそう言って一口お茶を啜った。


「うん。実は成績の事、お母さんに言われてからずっと考えてて」


「……私の言った事、プレッシャーになってたりする?」


「ううん、違う違う、そうじゃないんだ。お母さんに言われて勉強もちゃんと頑張らなきゃって思って、だけど今のまま陸上部も合気の道場も続けるなら、私いつ勉強出来るんだろうって、どうしたらいいのかなって今日一日、ずっと考えてた」


「そうなんだ。それで、何かいい答えは出た?」


「ううん、全然。学校で吉野にも相談したんだけど『ちゃんと授業聞けばなんとかなるはず』みたいな役立たない答えしか返ってこなくて」


「ふふ。まあ吉野くんは頭良いからね」


「そうなの!だからまともに相談乗ってもらえなくて──」


ご飯を食べつつ母に悩み事の相談をして、結局何にも決められないままに私はその日を終えた。


翌朝、教室に入ると吉野に何やらノートを渡された。


「これ昨日の授業の板書。要所要所で理解わかりやすいように注釈とか入れといたから」


「……ありがと。えっでも、なんで」


「お前、昨日悩んでる事殴り書きするばっかでまともに授業聞いてなかっただろ。昨日俺が言った『授業をちゃんと聞いてれば』っていうのは、そういうことだよ」


「『悩んでる暇があるなら授業ちゃんと受けろ』ってこと?」


「そう。別に授業さえ聞いてれば点数取れるなんて俺も思ってない。だけど授業すら聞いてないのは、点数を取る以前の問題だろ。

授業を聞いてさえいれば、いくら覚えが悪くたって何かしらは得られる物があるかもしれないんだから。それすらせずに勉強が出来ないだとか、そのための時間だとか、 ″天才″ だとか ″凡人″ だとか。そういうのは、違うと思う」


ド正論だった。

渡されたノートの字がいつもの彼の字より少し雑に見えるのは、感情の現れなのだろうか。


「──吉野、ごめん」


「謝らなくたっていいよ。愛梨何も言ってないんだし」


「ううん。それでも、だよ。私はするべき事を何もしないまま、ただただ勉強が出来る吉野に妬みみたいな物を感じてた。だから、ごめん」


私は教室の中で吉野に頭を下げて謝った。既に登校していたクラスメイト達は私のそんな姿に戸惑っていた。

それを受けた吉野は周りの目を受けて溜め息を吐くと私に頭を上げるように言った。

顔を上げ見られている事に今更ながら気づいた私は気まずさを覚え慌てて自分の席へと向かった。

その後吉野はあとから来た楓奏に何やら揶揄われていた。


私は吉野にもらったノートを片手に自分の席に着いて、自分のノートに写していった。

本当に分かりやすくまとめてくれていて、ついでに板書をする際のコツまで書いてくれている。

昨晩だけでこれを作ったというのだから、吉野はやっぱり凄い。


私がウダウダと悩んで無駄にした時間を彼はこうして有効的に使っていたわけだ。


教えてもらった事を活かして授業に望んだその日は何となくだけどいつもより授業の内容が理解出来た気がした。


道場が終わって帰宅すると母が晩御飯を用意して待ってくれていた。


「──今日はスッキリしたような顔してる」


ご飯を食べる私の顔を見て母がにこやかにそんなことを言った。


「くよくよ悩んでても仕方ないし、寧ろ悩んでる時間が無駄だって気づいたから。だから取り敢えず一つ一つを一生懸命やってみようと思って」


「愛梨のそういうところはほんと颯斗にそっくり。見た目はこんなに私に似てるのにね」


母は私の頬を撫でながらそう言って微笑んだ。

少し、くすぐったい。


「じゃあお父さんとお母さんのいい所取りだね」


「勉強嫌いな所は似ないで欲しかったけどね」


ご飯を食べ終わって、私が食器を片付けていると食卓から顔を覗かせた母が私の方を微笑ましいそうに見ていた。


「お母さん?」


「──吉野くんでしょ」


「……え?」


「『一つ一つを一生懸命』にって愛梨がそう思えたの吉野くんのおかげかなって」


「──まあ……うん、そう。そうだよ、吉野のおかげ」


「……ふふふ、やっぱり」


「昨日吉野が言ってくれたあの答えも私が勘違いしてたみたい。吉野は『理解出来なくたってせめて授業くらいはちゃんと受けた方がいいんじゃないか』ってそういう事を言おうとしたんだって。私昨日は全然授業聞けてなかったから」


「それはそうね。授業はちゃんと聞かなきゃ。せっかく学校行ってるんだしね」


「うん。悩む以前の問題だったみたい」


「もし色んな事を真剣にやってみて、それでも上手くいかなかった時はまた改めて悩んだり考えたりしてみたらいいんじゃない?その時はまた私も相談に乗るから」


「うん、そうする。その時はお願い」


「はい。任されました」




翌日、放課後の部活までの空き時間に吉野を呼んで話をした。


「──って言うわけで、何事にも全力で取り組んでみることにしたの。悩むのはそれが上手くいかなかった時にしようって」


「そっか。それは良かった」


「うん、吉野のおかげ。ありがと」


それから俯き加減で頬を掻きながら吉野は胸中を話してくれた。


「実はさ俺も昨日家帰ってから色々考えたんだ。なんで俺、あの時愛梨のノート見てあんなに腹立ったんだろうなって」


「私と楓奏が煽ったからじゃないの?」


「それが無いわけじゃないけどな、それだけじゃなかったんだ。──あの時、時間の事で悩む愛梨を見て、少し悔しかったんだ。愛梨は部活で走ったり道場通ったり、色々やってて。だからこそ勉強についていけててなくて。俺はそんな愛梨とは真逆で、有り余るほどの家での時間を勉強で潰してるだけだったから」


彼の家庭の事情は前に少しだけ聞いた事がある。

父子家庭で、その父親もたまにしか家に帰ってこない。そのためほとんどの時間を家の給仕さんと過ごしている。

欲しい物はなんでも与えられてきたから、日常生活にも娯楽にも困らない。


独りである事を除けば不便は何も無いとそう彼は話してくれた。


そんな彼は中学生となった今有り余った時間の使い方に悩んでる。そして多分その事に悩む自分に違和感みたいな物を覚えてしまっている。


「……それなら。それなら吉野も何か始めてみたらいいんじゃないかな。勉強以外で何か、趣味みたいな物を見つけたらいいんじゃないかな」


「趣味ならある。ゲームしたり漫画読んだりアニメ見たり、絵を描いたり」


「へぇー、良いじゃん」


「だけどそれも歳を重ねる毎に好きだったはずの物が暇潰しの道具にしか感じられなくなってきたんだ。最近は特に、何してても独りだと虚しく思える時があって。子供の時は独りが当たり前だったのに、愛梨と出会ってからは独りの時間を辛く感じるようになったんだ。──多分俺寂しさみたいな物を感じてる」


吉野の言葉を喜べばいいのか、彼の境遇を憂いたらいいのか。私は彼にどんな反応を返せばいいのか困ってしまう。


「家で独りでいる時間が苦痛で何か新しい事をやってみたいってことだったらさ。吉野さえ良かったらだけど、うちのお父さんに相談して私と一緒に道場通ってみる?」


「……俺、身体動かすのとか得意じゃないから」


「それは知ってるけどさ」


「だったらなんで急にそんなこと」


以前同じ部活に入ろうと誘おうとした時、吉野は運動が苦手だからと文芸部に入部していた。結局吉野は文芸部にはほとんど参加してなかったようで、私の家に頻繁に遊びに来ていたわけだけど。

その時も私の部活が終わるまでわざわざ待ってくれて、一緒に帰ったりしていた。

どうせ待ってくれるなら同じ部活に入ればいいのに、と何度かそう思ったけど、結局私は彼を誘うことはしなかった。彼が『運動が苦手』だったから。

私も幼い頃から勉強が苦手だったし、苦手な物を他人から押し付けられるのは嫌だったから、だから無理には誘わなかった。


きっと吉野が言う『運動が苦手』と私の『勉強が苦手』は似たようなもので、達成感や面白さを知らないから、だから意欲が湧かないだけ。


「──私、吉野のおかげで苦手だった勉強を頑張ろうって思えたんだ。だから今度は私の番。吉野に身体を動かす楽しさを教えてあげる」


「なんだよ、それ」


私の言葉を聞いて俯いてた吉野の顔が上がり、ようやく私達はお互いの顔を合わせた。


「それに護身術としても役立つはずだから習っておいて損は無いと思うよ」


なんだか見つめ合ってるのが気まずくなって私は顔を逸らしながら補足事項を述べた。


「……家に帰って少し考えてみる」


吉野はそれだけ言って帰っていった。




「──なーんであんな言い方したんだろ。自分で自分が恥ずかしい……」


「愛梨、風邪でも引いた?顔真っ赤だよ」


「大丈夫、大丈夫。これはそういうのじゃなくて、なんて言うか赤裸々で」


「赤裸々……?もしかして『赤っ恥』の事言ってる?」


「……多分それだ。ああ、もう今日の私ダメだ。一時間くらい前からやり直したい」


部活中さっきの吉野とのやり取りを思い出して一人悶えていた私は楓奏から真面目な心配をされ挙句の果てに更なる恥をかいた。


顔を手で覆って蹲る私とそんな私を見ながらお腹を抱えて笑っていた楓奏は部長から注意を受け、ペナルティとして追加でグランドを走るよう言われ、ついでに部活終わりの片付けを二人だけでするように指示された。


「楓奏の馬鹿。あんぽんたん」


「だって、今日の愛梨面白かったんだもん」


「だとしてもあんな笑わなくたっていいじゃん!」


そう言ってじゃれ合いながら私達は帰路を歩いていった。




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