第25話
舞菜が生まれたあの日以来、私は舞菜の世話をするので精一杯になった。
定期的におっぱいをあげなければならないし、毎晩毎晩舞菜が夜泣きする声に起こされて、疲れて寝た後にはもうお昼だったりする。
一緒に起きた舞菜のオムツを交換してあげて、また授乳してあげて。
毎日がそんな繰り返しで最近は愛梨と話すことが出来ていなかった。
颯斗は忙しい身の上になってあまり帰ってこなくなっていたし、愛梨には寂しい思いをさせてしまっているかもしれないと申し訳なく思ってしまった。
一年が経って、舞菜の育児にもひと段落が着いた頃のことだった。
携帯電話の着信音で目が覚め、慌てて電話を取った。
「もしもし、久しぶり」
その電話の相手は以前私が看護師をしていた時の先輩、宮﨑 帆南さんだった。
少し世間話のようなものをした後で、彼女がコホンとわざとらしく咳をした。
「それでね、実は私今は中学校で養護教諭をしているのよ。あなたの娘が通っている中学校でね」
「えっ、そうなんですか。だったら教えてくれれば挨拶にも行けたのに……」
「いいのいいの。早くも娘さんに ″会えた″ しね」
「 ″会えた″ って。愛梨が保健室に行くような用事って……」
「そう。今日はそのことで電話をしたのよ、あなたの娘さん──、愛梨さんね、上級生の子達と喧嘩をしたのよ。友達を庇って間に入ったら喧嘩に発展しちゃったみたいで。不良だった彼らに結構やられちゃってね」
「…………、愛梨は無事なんですか?」
「激しい打ち身で何ヶ所か目立つ痣はあるけど骨折もしてないし、肉離れも無いし、大丈夫よ」
「そうですか。良かった……」
「ついでにあの子の右眼を診せてもらったのよ。充血して、角膜がひび割れてたわ。あれって前からそうだったの?」
「その、それがいつ出来たものかは分かりません。事故のすぐ後に診せてもらった時にはそうじゃなかったのでその後に出来たのは間違いないんですけど……」
「じゃあそれ以降あの子の右眼を診てあげることは無かったのね」
「……はい」
「由紀菜さん、これは余計なお世話かもしれないけど。ちゃんと娘の状態くらい知っててあげなさいよ。何も知らなかったらそれがいつ出来たものかも気づけないし、今日みたいに何かあった時に気づくことも出来ないし、対処だってしてあげられないでしょ」
「……そうですね。その通りだと思います」
「まあもうすぐ帰り着く頃だろうからあの子が帰ってきたらちゃんと話をしてあげなさい。喧嘩のことあの子は何も悪くないんだから、叱るのはいいけど責めちゃダメだからね」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
最後に一言声を掛けてから電話を切った。
長いこと電話をしていたらしく、構ってもらえないことに舞菜がグズり出した。
帆南さんが言った通りだった。
愛梨は定期的に病院にこそ行っていたが、私はそれに同行したことは無かった。全て颯斗に任せて、それで済ませてしまっていた。
いつしか眼帯姿の愛梨に違和感すら抱かなくなってしまっていた。
愛梨の眼帯の中がどうなっているかを最後に考えたのはいつだっただろうか。
私は舞菜のことばかりで愛梨のことを全然考えてあげられていなかった。
舞菜へのご飯を済ませて、オムツを取り替えてあげて。
帰ってくるはずの愛梨はなかなか帰ってこなかった。
そして窓の外が暗くなり始めた頃、家の扉がガチャガチャと音を立てた。
そして玄関から「ただいま」と声が聞こえた。
「愛梨、おかえり」
そう返してあげると、愛梨は慌てたように自分の部屋に走っていった。
その後、愛梨と話をして右眼を見せてもらって、彼女のことを気にも留められていなかった口惜しい気持ちから途中で気持ちの押しつけになってしまっていたように思う。
愛梨が喧嘩をするのはいつも誰かのためだった。今までは彼方の為だったし、今回は友達の為だった。
傷つかないで欲しいのは本当だけど、それが誰かのために動いた結果なら「偉いね」とでも言って褒めてあげるべきだった。
愛梨に対する色々を悔いながら、舞菜の世話をして眠りに就いた。
翌日、再び帆南さんから電話が来た。
「今度は登校してすぐに校門で絡まれて喧嘩に発展したそうなの。あの子は『最悪な事態へ陥らないために必要だと思ってやった』とそう言ってたわ」
「……そうですか。連絡してくれてありがとうございます」
「まあこれが仕事だからね」
「それでも、ですよ」
ソファに腰掛けて電話に耳を傾ける。話を聞いて胃に痛みを感じた。
状況が状況でそうせざるを得ない事態だった事は分かった。私も最悪の事態なんて想像したくない。
「あのね。このままズルズル行くと、あの子はこういう事を繰り返してしまうと思うの。私の方からも教師に苦情は入れておいたけど、多分何も改善はしないと思う。だから何も変わらずにこういう事が続くようなら、転校でもなんでもして無理矢理にでもあの子と彼らとの距離を作ってあげるべきだと思うのよ。この学校に拘る理由も特には無いんでしょう?」
「それは、そうですね。強いて言うならば愛梨とは別のクラスに知り合いの子供が一人いるくらいです。その子と仲がいいのでその事には何か言うかもしれませんけど、でも特段拒否はしないと思います」
「まあ言っては見たけど、そんなすぐに決める必要は勿論ないわよ。あなたも育児の真っ只中で大変でしょうし」
「気遣ってくれてありがとうございます。でも必要なことではあると思うので少し検討してみようと思います」
愛梨本人は吉野くんと離れる事にそんなに抵抗を感じないだろう。対する彼はそうじゃないだろうけど。
新しい友達の方は詳しい話を聞けていないのでどんな感じなのか分からないが、恐らくは問題ないだろう。
問題があるとすれば帆南さんの言ったように私の方だ。まだ小さい舞菜を連れて引っ越しというのはキツい。
颯斗だってやっと復職したばかりだというのに今色々と動くのは難しいだろう。
だからといってこの家から別の中学校へ愛以を通わせるのは不安がある。近くに他の中学校が無いから登校するのにどうしても距離が出来てしまう。
それは彼女にとって負担になってしまうだろう。
とにかく、今私の中で勝手に決めてしまっていい事で無いのは確かだ。これは家族全員で話し合って決めるべきだ。
私が黙って色々を考えていると、何かを思い出したように帆南さんが話しかけてきた。
「──そうだ。昨日あの子家に帰るの遅かったでしょ?他の子にあの子の事を聞いてみたらあの子が普通に部活に参加してから帰ったらしいことを教えてくれたのよ」
「……はあ。ほんとあの子は」
「流石に呆れちゃうわよね。もし今日帰ってくるのが遅いようだったらちゃんと叱ってあげなさいよ。そこに関しては間違っているから」
「はい、勿論です」
私は電話を切ると自分の膝に肘をついて頭を抱えた。
「……はあ」
考えなければならないことが多すぎて、脳がパンクしてしまいそうだった。
愛梨の喧嘩の件、それに対する予防措置の件、転校の件。
それよりも急務なのは帰ってきた彼女にどんな風に接してあげるか、どんな風に叱るべきかということだ。
昨日こそ接し方で反省させられた手前どうしても悩んでしまう。昨日は思わず彼女に泣き着いて気持ちの押しつけをしてしまった。それが違うと気づけたのだから、もう少し他の接し方もあるはず。
だからといっていきなり頭ごなしに怒るのは違う。
彼女が考えた結果行動した結果なら認めてあげるべきだし、その方法が間違っているなら正しい方法を教えてあげればいい。
今日は自分も守る為の喧嘩だったみたいだけど暴力で解決しようとすること自体は正しいことじゃないし、そこは指摘するべきだろう。
もし昨日と同じくらいの時間帯に帰ってくるようであれば、そのことだって叱ってあげなければいけない。
そんなことを考えていると再び携帯電話が鳴った。
溜め息を吐きながら携帯電話を見てみると、今度は颯斗からの電話だった。
「おっ、起きてたか」
そんな一言から始まり、私は愚痴を零すようにここ最近の愛以の話をした。
「……それは許せねえな」
颯斗は不良の生徒達に対しても生徒への対応がザラだという教師に対しても怒りを露わにした。
転校の話をすると「そんな学校にいつまでも娘を置いてはおけない」という意見と「でも愛梨は何も悪くないのにこっちが色々と悩んで転校までしなきゃいけないなんてそんなのおかしいだろ」とどっちつかずな意見を述べた。
その後、「学校側に直接苦情を言う」とだけ言って電話を切られた。
一度電話を置いて舞菜の世話をした。舞菜は私が長時間傍から離れていたことに対して不貞腐れていた。
泣きもしないが笑いもしない。ただただ眉間に皺を寄せて頬を膨らませていた。
あまり時間が経たないうちに愛梨が帰ってきた。
慌てて玄関へ向かう。分かってはいた事だったが愛梨の顔は今朝見た時よりも傷だらけだった。
さっきまでの悩んでいた時間はなんだったのか。私は自然と溢れる涙を堪えつつ愛梨の頬をを軽く引っ叩いてしまった。
愛梨を諭したつもりが上手くいかず、彼女と口論になった。
勢いで言ってしまったことを掘り返され言い訳じみたことを言っていると舞菜が泣き喚いた。
初めて聞く声で騒ぎ出した舞菜を宥めながらリビングに戻ると既に愛梨は居なくなっていて、私舞菜を抱いて愛梨の部屋に向かった。
ノックをして声を掛けると愛梨は僅かにだけ部屋の扉を開いた。私は仲直りのきっかけを作ろうとして声を掛けたが、それを愛梨に拒絶されてしまった。
また失敗したと思った。
扉の前に蹲って謝罪の言葉を口にした。
しばらくは舞菜の夜泣きが酷くて、また朝に目覚めることが出来なくなって、愛梨とも距離が出来てしまっていた。
改めてきちんと謝ろうと思い朝早くに朝食を準備した。愛梨が起きてきてからも私はなかなか踏み出せず、何も話さないまま朝食を終えた。
その日結局手を振って見送ることしか出来なかった私は舞菜を抱き締めて泣きじゃくった。自分が情けなかった。
泣き疲れて眠ってしまったらしい私は異臭で目が覚めた。
起き上がって臭いの原因を探ると、舞菜だった。舞菜が盛大にうんちをしていた。
その後、お尻を拭いてあげてから一緒にお風呂に入った。
風呂から上がった私は簡単にお昼ご飯を作って食べてから、舞菜を寝かしつけた後に一緒になって眠りに就いた。
玄関のインターホンが鳴り、その音で目が覚める。
眠る舞菜を布団で包んでから抱く。立ち上がってリビングに出ると窓の外は日が落ちているのか既に暗くなっていた。
そんな時間なら愛梨はもう帰ってきているのだろうか。
玄関に行き、扉を開けるとそこには私の知っている顔より少し老けた顔をした帆南さんがいた。
彼女は私の顔を見て軽く微笑んだ後、頭を下げてきた。そして何も言わず私の腕を掴んだ。
私は彼女に手を引かれるままに家の前に停めてある彼女の車まで連れてこられた。
彼女の行動の意図が掴めず戸惑う私だったが、帆南さんに介助してもらいながらその車から降りてきた少女の姿を見て息を飲んだ。
その少女は愛梨だった。
頭に包帯が巻かれている。その包帯は今まで眼帯をしていた頭部の右半分にまで及んでいる。首や腕、太腿と制服の下から覗く素肌からは痛々しい痣が見えた。
今の彼女の状態は昨日までの怪我が可愛く見えてしまうほどに酷いものだった。
私は問い詰めたい気持ちを必死に抑えて、帆南さんに愛梨の補助をしてもらい家へと上がった。
リビングに入ると帆南さんへ椅子に掛けるように勧めた。彼女は椅子を引き先に愛梨を座らせた後で椅子に腰掛けた。
私は舞菜を抱いたまま二人の向かい合う形で椅子にに座った。
「ごめんなさい。愛梨さんを守ってあげることが出来なかった」
そう一言謝った帆南さんはぽつりぽつりと事情を話してくれた。
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帆南先生の説明を聞いた母は恐る恐ると言った様子で私の方を見た。
だから私は笑顔を返した。ただ、悲痛な顔をする母に安心して欲しかった。
「──私、あいつに殺されるかと思った。蹴られて、殴られて、背中を壁に打ち付けられて。最後には首を締められて。段々息が出来なくなってもうダメなんだって、死んじゃうんだって思った」
男性である時任に理不尽に責められ、暴力を振るわれ、痛かった、苦しかった。
殺されてもおかしくなかったあの状況はとても怖かった。
母は私の傍まで来て舞菜を抱いている方とは逆の腕で私を抱き締めた。
母の肩に頭を乗せた私は微笑みながら、続きを話した。
「全部を諦めかけた時にね、走馬灯って言うのかな。彼方のことを思い出したの。彼方は小さい時からこういう暴力に耐えてきたんだなって。凄いなって、そう思った。私には耐えられなかったから。痛くて、怖くて。何も出来なかった。でもそんな時に楓奏が来てくれたのが分かって、助かるんだって思った。教室を飛び出して思わず『助けて!』なんて言っちゃって。解放されたと思って油断して、さらに痛い思いをした。結局、こんな風にしか戻って来れなくてまたお母さんに心配掛けちゃった。……ごめんね」
「……ううん、あなたが無事に帰ってきてくれただけで私は嬉しいわ。本当に良かった」
母はそう言って強く私を抱き締めてくれた。私は左目から涙を流してその抱擁を受け取った。
帰宅するという帆南先生を見送るため玄関へと向かった。
事態が起こった空き教室の特定や怪我の応急処置、病院への搬送や医師とのやり取りに関してまで、何からなにまで助けてもらった。
帆南先生には感謝してもしきれない。
「じゃ、また学校でね」
そう言って私の頭を撫でてから彼女は帰って行った。
その日は母の部屋で母と舞菜と一緒に寝た。
怪我に関して万が一何かあった時のためにと嘘をついて母に頼んだのだ。
本当は一人になるのが怖かっただけだった。
母はそんな私の本心に気づいているのか「素直じゃないんだから」と呆れたような表情で了承してくれた。
翌日は大事をとって学校を休んだ。昨晩のうちに母が父に連絡を付けて、急遽帰ってきた父を混ぜて家族会議みたいなものをした。
まずは父に昨日起きたことを話した。
話の間、母は苛立ちを隠せない父を宥めるのに必死だった。
そのくらい父が私の事を想ってくれてるんだと分かって少し安心した。
結論としては、私はこのままあの中学校に通うという話で落ち着いた。
私の喧嘩云々の問題に関して母は否定的だったが、父は意外にも肯定的だった。
教師に頼れない以上は生徒同士で問題を解決する他ないという意見だ。そう述べた上で「けれどもしまた教師側から何かされそうだったら何としてでも逃げろ。
そして学校外に助けを呼べ」と言ってくれた。
「──あのね。私自身のこれからのことで昨日の夜考えたことがあってね」
「うん」
「聞こうか」
話にキリが着いたところで私は二人の顔を交互に見て話を切り出した。そんな私に父も母も何も言わずただ一つ頷いてから次の言葉を待った。
「……私、最近喧嘩ばっかだったせいで、ただでさえ舞菜の事で大変なお母さんに心配掛けてちゃってた。学校でも帆南先生に迷惑掛けてしまっててばっかりだった。それで、そんな私じゃダメなんだなって思ったの。誰かに守ってもらってばっかりじゃダメだって分かった」
二人は私の言うことに頷きながら黙って話を聞いてくれていた。
一度言葉を区切った私は一つ深呼吸をして続きを話した。
「だから私は自分と大切な誰かを守れるくらいに強くなりたいって思った。お母さんみたいに優しくて、お父さんみたいに誰かを守れるような、そんな人になりたいって思った。強くなって舞菜に胸を張って『お姉ちゃん』だって名乗れるような人になりたいって思った。──私はお母さんとお父さん、二人の娘で、舞菜の姉だから」
私は一度言葉を切って、下を向いた。けれどすぐに顔を上げて二人の目を見てから続けた。
「ダメな事はダメだってきちんと教えて欲しい。私が何か間違った事に走ってたら止めて欲しい。私は素直じゃないし怒りっぽいから言う事聞かずに文句を言うかもしれないけど、そんな時は叱って欲しい。叱って、怒って欲しい。そうでもしないと私また独りよがりに暴走しちゃうだろうから。私のなりたい私になるために、二人にはこれからもそうやって私を見守ってて欲しい……です」
言い終わった私は二人に笑いかけた。二人の目には涙が溜まっていた。
幼馴染みを守ろうと決めた。
守ることが出来ずに悔しい思いをしたことがあった。
自分の弱さを思い知らされた。足りないものが分かった。
私には強さが足りなかった。
弱かったから守れなかった。
だから強くなろうと思った。
今度こそ自分を、誰かを守れるように。誰も失わないために。
「ああ、勿論だ。手を貸して欲しい時には言ってくれ。なんだってしてやる」
父が言った。
「もし辛いことがあったら言ってね。いつでも支えてあげるからね」
母が言った。
「うん、ありがとう。お父さん、お母さん大好き!」
そう言って私は両親と母の腕の中にいる舞菜に抱き着いた。
目元に雫を溜めながら笑いあって、久しぶりに ″家族″ の時間を過ごした。
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