第15話








不知火しらぬい』という珍しい姓を持つ家があった。そんな家の家主であるまこととその妻である望美のぞみ

そんな二人の間に生まれた一人息子。

それが僕、不知火しらぬい 彼方かなただった。


仕事などで家を空けることが多い両親を持った僕は時折母方の伯母にあたる齊藤 清華せいかの家にお世話になっていた。


清華の娘で僕の従姉にあたる好実このみは僕を実の弟のように可愛ってくれて、気に掛けてくれた。だから僕自身もそんな彼女に男女のそれとは違う憧れや羨望といった類の好意を持ち、幼いながら好実のようになりたいと希望を抱いていた。




僕は物心ついた時から何もかもが他人とズレていた。

毎日毎日両親の口論を聞きながら育ってきた僕は、いつしか自分で自分自身生きている事を間違っていることなのだと思うようになった。


その上、幼いながらに自身の身体に強い嫌悪感や違和感を覚えてしまっていた。

この事には好実姉さんに憧れを抱いた事も要因の一つとなっているかもしれない。


「男らしく髪は短くしろ」


「赤系統の色の服より青系統の色の服を着ろ」


「女々しい男はキモいからやめろ」


家に帰れば毎日のようにそう注意されていた。少し前までは母が庇ってくれていたけど最近は仕事が忙しくて帰ってこない日が増えた。

母が居ないのを良い事に父は気にくわない事があるとすぐ僕に対し暴力を振るう。

そういう毎日が繰り返されるうちに僕は家では笑わなくなっていた。


男である自分が女の子と同じように振る舞うことはそんなに変?

毎日毎日痣ができてしまうほどに殴られなければならない程の事なのか?

ただ体が男の子として生まれてきただけなのにそれだけで遊び方、話し方、仲良くする人、服装や髪型、全てを決められてしまう程のこと?


以前と比較して、明るさの消えてしまった僕を見て、母は心配して何度も声を掛けていた。

僕はその度に母に心配を掛けないようにと作り笑いをして「大丈夫だよ」と言った。


皮肉にもそんな僕の言動が二人の喧嘩を招いていたのだとは、幼い僕は知らなかった。




保育園では僕は皆の人気者の ″ぬいちゃん″ だった。


入園してすぐの頃女の子とばっかり遊んでいたら保育士の女性に怒られた。

仕方がないから男の子とも遊ぶようになった。最初は怖かった木登りも気づけば日課になって男の子たちと遊んでいないときでも一人で登るようになった。


ある日、以前に僕のことを叱った保育士がこの保育園を辞めることになった。その女性はお昼寝の時間トイレにと起き上がった僕を捕まえて手を上げてきた。女性の力だったし、時折父から受けるものよりは痛くなかったので平気だった。女性は「お前のせいで辞めなければならなくなった」と言った。

彼女はひとしきり暴力を振るった後そのまま仕事に戻り、翌日から本当に保育園に来なくなった。




いつも作った笑顔ばかりだった僕が本当に心の底から笑えるようになったのは一人の女の子と仲良くなってからだった。


植村 愛梨。

母に連れられて保育園に来て、またいつも通り男の子たちに声を掛けようとしたときだった。


「……あ、あの。……おはよう!!!」


とても緊張した様子でその子は僕に話しかけてきた。照れくさそうだけど嬉しそうな顔で笑った彼女。

僕にとっては初めてのことだった。

元々自分からしか挨拶をしなかったのもあるけど、こうして僕と話せていることが嬉しいとでもいうように笑顔で挨拶をされたのは初めてだった。


僕もそれが凄く嬉しくて。

だから自然と顔に笑みを浮かべてそれに答えていた。



けれど、その日以降何があるわけでもなく時が過ぎてしまった。すれ違えばお互いに声はかけ合ったけどその程度で、一緒に遊ぶこともなかった。

何度か声を掛けようとはしたけど、その度に他の子の誘われてしまい、遊びに付き合っていた。


ある日、一人で本を読んでいる彼女を見つけた。

一緒に遊ぼう、とそう声を掛けてみたけれど「絵本を読みたいから」そう言って断られてしまう。

断られたはずなのに僕は少し嬉しく感じてしまった。なんとなくこの子が何を考えてそう言ったのか分かってしまったからだ。


--自分なんかが一緒にいていいのだろうか、僕のことなんか気にせずにいられる方が幸せなのではないか。


それは母が父から自分を庇うたびに思っていたことだった。

だからこの子が同じようなことを考えて誘いを断ったのだということに気が付けて少し嬉しいかった。


不思議ともっとこの子と一緒にいたい、とそう思えた瞬間だった。


「だって僕はあいりちゃんともっと仲良くなりたいし、あいりちゃんが好きな事も好きになりたい。それにもっと一緒にいたいもん!それじゃダメかな」


それは僕の口から自然と溢れ出た言葉だった。


その日からは僕達は自然と二人でいる時間が増えていた。




そうして半年ばかりが過ぎた。

母が多忙になってしまい、僕の面倒を見られなくなった。

そして清華伯母さんにも頼ることが出来ない状態になり必然的に父と二人でいる時間が増えてしまった。

それはそれは酷いもので、母がいないのをいいことに父は仕事で溜めたストレスを僕に暴力を振ることで発散していた。

仕事から帰宅した母が僕の身体の怪我を見るなり父の口論になる。

そんなことが毎日のように繰り返された。

僕は「お母さんとお父さんが喧嘩をするのは僕のせいだ」「僕がお母さんに迷惑を掛けている」と自分のことを責めるようになっていった。


それでも保育園に来れば何事も無かったかのように振る舞った。ただただ母に気苦労をかけたくなかったから。

だからこそ保育園という場所では男の子からも女の子からも人気者の元気な ″ぬいちゃん″ でいることにした。




保育園ではよく遠足についての話が出るようになった。


最初に持ち上がったのは遠足の目的地についての話だった。

男の子は歩いて三十分くらいのところにある公園、女の子はそのちょうど反対側にある綺麗な花が沢山咲いている河原へ。

そうして遠足の持ち物の話が出ると園児たちからざわざわと話し声が増えていった。持っていくお菓子の話や一緒にどんなことをして遊ぼうなど、それぞれが遠足に想いを馳せ騒いでいた。

遠足について一連の話を聞いてまず僕が考えたのはおやつを買ってもらえるかどうかの心配だった。

早々に溜め息が零れてしまいそうだった。


愛梨は僕が『男』のグループ、『女』のグループのどちらに振り分けられるかの心配をしてくれていたようで『体の性別』が男である僕が当然のように男に振り分けられたと聞いて、機嫌を損ねていた。


そして翌日。

保育園に着いてすぐに女の子の一人から糾弾された。


「ぬいちゃんの嘘つき」


突然の言葉に僕は唖然とするしかなかった。

そしてその後痰を切ったように他の女の子達からも非難を受けた。


「ぬいちゃんは女の子だと思っていたのに」


「ぬいちゃん、男の子だったなんておかしい」


「男の子が可愛い格好してるのは変」


家にいれば父と母は自分のせいで喧嘩をしていた。

だからこそ保育園での時間が一番楽しくて幸せな時間だった。


それなのにその一時の幸せさえも潰えてしまった。本来の性別が露見しただけ。ただそれだけのことで嘘つき呼ばわりをされてしまった。


自分のすることが女の子じゃないことを理由に変に思われる、なんてことは散々父にも言われていた。けれどそれでもやめられなかった。だって可愛い服も人形も好きだったし髪の毛だって短いよりも長い方が色々な髪型ができて好きだった。


最近の両親の喧嘩の内容から自分の異端さの自覚を持ちつつあった僕には今回のこの糾弾が酷く刺さった。

笑顔を作る余裕も無くその場に蹲るしか無かった。


「かなたくんは嘘つきなんかじゃない!」


そんな中で愛梨がそう言って声を上げた。

そして次の瞬間には最初に僕を詰った女子に殴りかかり取っ組み合いの喧嘩を始めた。保育士が仲裁に入ったことで事なきを得たが、両者とも顔に引っ掻き傷を残していた。




「どんな彼方くんでも彼方くんは彼方くんだから。だから大丈夫」


その後僕は愛梨に励まされながら、彼女と一緒に保育園を抜け出した。

そうしてただただ河原の傍を二人で走り続け、気づけば女子達が遠足で来る予定の公園にまで来ていた。


愛梨と二人走ったあの時は凄く楽しかった。

家でのこと、保育園でのこと。嫌なことも何もかも忘れて走った。


何より、愛梨が自分の居場所を作ってくれて、居場所になってくれた。

そのことが嬉しくて嬉しくてどうしても顔が笑ってしまった。




父と離れて、すぐに憧れだった好実姉さんとその家族が近くに引っ越してきて。

そんな怒涛の毎日を送って僕は小学生に進級した。


最初は今まで通り愛梨と一緒にいれればそれで良かったから、だから新しく出来た友達とはそこまで深く関わろうともしなかった。


その考えが良くなかったんだろうか。

学年が進むにつれ、周りから距離を置かれるようになって、クラスが離れたことで愛梨とも家以外では関わらなくなって。


そしてあの日の事が起きた。




愛梨と好実姉さんと一緒に登校した僕は自分のクラスに入ると自然と目を引かれ黒板を見た。


黒板には幾つもの僕に対する誹謗中傷が書かれていた。


『へんたい!』、『じょそうしゅみ、気持ち悪い!』、『シスコン』、『女ったらし』。

ふざけて書かれた『カナタちゃん付き合って笑』という文字。


そして続けて男子達から言葉をぶつけられた。


「今日はスカート履いてないんだね」


「今日も隣のクラスの植村さんと一緒に来たんでしょ。ヒューヒュー、ラブラブだね」


「女とばっかり一緒に居るとかキモい」


そして、そんな事があって始まったその日の体育の授業の時間。


「なあ、大原がなのか調べてみようぜ」


クラスの男子の一人がそう言って僕を羽交い締めると賛同した男子達に服を脱がされた。

上着の中に来ていたキャミが露になり、更に男子達によって履いていた短パンを降ろされた。

泣きながら抵抗するも力及ばずに教室のど真ん中で裸にされた。


クラスメイトは騒ぎ出し男子達は「ほらちんちん付いてんじゃん〜!」と囃し立て、一部の女子達は「え、気持ち悪」と侮蔑した。


主犯格だった男子は泣いてばかり僕の姿を見て腹を立てたのか、教卓から鋏を取り出すと僕は髪の毛を引っ張られ鋏を入れた。


パラパラと落ちる緑がかった黒い髪。


自分の髪が床に舞う光景を視界に入れ、ショックのあまり唖然とするばかりで何も反応出来なかった。


「ちょっと。それは流石にやり過ぎでしょ」


女子の一人からそんな声が上がると掌を返したように主犯の男子を責める声が上がる。


と、そこに担任の教師がやって来た。体育の授業に誰一人として現れない事を叱りに来たらしい。

教師は全裸のまま覇気の感じられない顔をしている僕と、僕の傍で鋏を握っている男子。彼の暴挙を止めることもせず教室で見ていた生徒達を一瞥して顔を真っ青にした。


「あなた達は何をしているの!」


教師の声を聞き、教室内にいた生徒達はハッとした様子で我に返りそれぞれの席へと戻った。


「チャイム鳴ってたんだ、気づかなかった」


「早く着替えないと」


「あ、私もまだ着替えてなかった」


「私もだ……」


まるで何も無かったかのように次の授業の準備に取り掛かろうとする生徒達。


「待ってみんな。この時間は学級会をすることにします。だから着替えなくていいから席に着いて」


授業内容の変更について述べた後、教師は虚ろな顔をした僕に服を着るように促してから僕を連れて保健室へと向かった。


そしてその日の事が原因で、数日後に母が入院した。


度々訪れた病室で、僕は母の眠った姿しか見ることが出来なかった。

けれど、それでも看護師の話から母が元気でいることだけは知れたから、それで良かった。

毎日毎日、話し掛けては泣きながら謝って。

そんな風にして、眠り続ける母とせめてものコミュニケーションを取り続けた。




お父さんが乗った車に轢かれ、父に連れられるがまま遠い遠い土地まで辿り着いた。


温かかったあの家あの土地を離れた僕が今いるのは母の実家だった。

屋敷と言ってもいいくらいに見えるそこそこ大きい邸宅で部屋数だって沢山あった。


「お前の部屋はここだ。飯は定期的に届くし便所も部屋ん中にあるはずだ。だから絶対にこの部屋から出るな」


そう言われ、部屋に放り込まれた。

そこはただの倉庫のような物置のような場所だった。

大きめの納戸と言った方がいいかもしれない。

物がごちゃごちゃと置かれ、とても生活する場所では無かった。


父の言う通り定期的にご飯が届いた。

給仕服を来た女性が部屋を訪ねて運んでくれるのだ。

トイレらしきものは無く、給仕さんに聞いてみたところ病院で使うような入れ物をくれた。

一日一回必ず新しいものと交換してくれるらしい。


暇な時間を過ごしている間に置いてあった段ボールなどを物色して、暇潰しが出来そうなものを探す。

そして見つけた物で遊んではすぐに飽きて次を探していた。


物色中に薄い本の様なものを見つけた。

箱の中に丁寧に保管されていたそれは卒業アルバムだった。古いものなのか、装丁がボロボロに痛み部分部分で破れそうになっている。


卒業アルバムというものを初めて見た僕だったが、物珍しい物だと思い中身をじっくり眺めた。

卒業生一人一人の顔写真を見ながら一人気になる顔を見つけた。父にそっくりだったのだ。

その生徒の名前は『大原 誠心』。


給仕さんにその男性について聞いてみると、やっぱり父だった。実のところ彼は母の叔父に当たる人物だったらしい。

そして給仕さんは卒業アルバムに載ってるいる一人の女子を指さして「この人がこの家の奥様です」と教えてくれた。


古賀 香織という名前の人だった。

母に似てる人だと思ったが、どうやら母の母にあたる人で、つまりは僕の祖母に当たる人らしい。

なんでも祖父と父は兄弟で、二人で祖母を取り合ったのだとか──。


ちなみに祖父の名前は大原 鉄心という。




物置部屋での生活を始めて一週間ほどが過ぎた。


「兄貴がお前を見せろって煩くてな」


この家に来てからというものこの家で一番大きいな部屋に籠りきって何かをしているらしい父が初めてこの部屋に顔を出した。

何か言われてはまずいと思い、卒業アルバムは部屋の奥の方に隠した。


少し機嫌の悪そうな顔をした父の話に耳を傾ける。どうやら伯父に会うことになるらしく、話しが終わると一緒に来た給仕さんに身嗜みについて色々と指示を出した後こちらに一瞥をくれるとすぐに引き返して行った。


給仕さんにご飯を用意してもらいながら彼女から伯父について少し話を聞いた。


伯父は元々はこの辺にいる所謂ヤクザという人達のトップをしていた人で、現在は何かの会社の社長をしているらしい。


とても偉い人なんだそうだ。


話しが終わり給仕さんに連れられて浴室に向かう。

昔、好実姉さん達と行った温泉みたいだった。

壁沿いにたくさんシャワーがあり、真ん中には大きな浴槽がある。


給仕さんに頭と身体を洗われ、軽くお湯に浸かる。

しばらく振りに入ったお風呂はとても気持ちが良かった。


入浴を済ませて、身綺麗な洋服を身に着けた僕は父に連れられその家で一番大きい部屋に来た。


「初めまして。私は君の伯父でも祖父でもある、大原 鉄心という者だ」


父の兄である伯父は父にはあまり似ていなかった。

なんというか父よりも柔和な顔をしているからかもしれない。過去、裏の世界で生きていたという話が嘘のように、優し気な顔をしている。


「僕はお父さんの……息子で、彼方といいます」


その日以降、伯父の計らいで物置部屋とは別に部屋を用意してもらった。

セミダブル程ある大きさのベッドがあり、その横には子供用の勉強机が設置されていて、大きめのクローゼットもある。

邸宅を好きに動き回ることも許された。毎日お風呂にも入れるし、排泄ボトルを使わなくても良くなった。


一つだけ変わらないことがあった。ご飯は今まで通り給仕さんに用意してもらい、給仕さんと共に自室で食べるように言われた。

その点に関して不満は持っていなかったので特に問題無く了承した。




僕は父に「今後兄貴の部屋には絶対に入るな」と言い含められた。


「分かりました」


──やっぱり伯父さんに会うのは何か問題があるのかな。お父さんも最初は全然会わせてくれなかったし。それに偉い人だって言ってたし仕事とかで忙しいかったりするよね。


そんなことを考えながらも一応父に尋ねる。


「やっぱり伯父さんには会わない方がいいんですか?」


「それは別に問題ねえよ。あの部屋に入んなきゃな」


僕の考えは杞憂だったらしく伯父に会うこと自体は構わないらしい。


──優しそうな人だったから会えなかったら残念だと思っていたけど会ってもいいんだ。良かった。


父は何度も何度も僕に同じ事を注意した後に自分の部屋へと帰っていった。




最初こそ父の言うことに従っていた僕だけど、あまりに言われ続けたせいか逆に伯父の部屋の中に何があるのか気になっていた。


給仕さんに聞いても教えてくれなかったし、こっそり中を見ようにも伯父の部屋の隣は父の部屋だ。

父はこの事に関してはギラギラと目を光らせているから部屋の傍を通って気づかないわけがない。

打つ手無し、という感じだった。


僕の悪戯心は日に日に募っていくばかりだった。そして僕と給仕さん以外はみんなで食事を摂っているであろう時間を狙って、給仕さんが来るのを待たずに例の部屋の傍を通った。


父の部屋に入ると、そこには母が眠らされていた。僕が知っている時よりもその顔が白くなっている母が。


感極まって触れてみるとその母の身体は冷たくなっていた。

温もりを一切感じない母に次第に涙が流れてきた。


「──お前、何してんだよ」


声が聞こえてきて振り返ると思い切り顔を殴られ、床に投げ出された。

母の事を知られた父は何度も何度も僕に対して殴打と蹴打を繰り返した。


この一年間、父が僕に隠し続けていたのは母のことだったんだと今更ながらに気づき、激しく吐血をして気を失った。


部屋にいない僕を探し回っていた給仕さん、食事が終わって自室へと戻ってきた伯父。

二人が見たものは、血に汚れたカーペットとその上に横たわる僕の姿だった。


その後、父は傷だらけの僕を連れ、伯父に追い出される形で大原邸を後にした。




その後、父は僕を連れてとある家を訪れた。


大原邸とは比べ物にならないくらいに古くてボロボロの木造住宅だった。

その建物の二階にある一室の前に立つと父は何度か力強く扉をノックし、反応が帰ってこない事に苛立ち「おい!開けろ!」と叫びながらより一層強く扉を叩いた。


しばらくして怯えた様子で女性が扉を開いた。

父は「遅えんだよ!」と女性を殴り、中に踏み込んだ。


この一年間使ってきたベッドと寝心地が全然違ったために布団に寝かされているだろう事は何となく分かった。

それまで意識を失っていた僕は目を覚ましてからここが何処なのか気になって身体を起こそうとした。

けれど受けた傷が癒えておらず節々の痛みから起き上がることすら叶わなかった。


「目、覚めた?」


そうこうしていると眼前に一人の女性が来た。


その人は母とそっくりな人だった。

何を思ったのか僕のことを強く抱き締め、目から大きめの涙をボロボロと流していた。


「……あなたが生きててくれて良かった」


けれどそんな彼女は何処か違和感を覚えたらしく、顔を顰めてお父さんを睨みつけた。


「おい彼方。今日からそいつがお前の新しい母親だ」


彼女の名前は、志村 真利愛。元は母の生徒だったと自己紹介をされた。

母が過去に教師をしていたなんて初めて知った。何だか最近になって初めて知ることばかりだった。


「僕の名前、彼方っていいます」


『不知火』が父の本当の姓でないと知った以上、その姓を名乗るのが正しいのかどうか分からなくて敢えて名前だけの自己紹介だ。


それからしばらくは真利愛さんと二人だけの日々を過ごした。

真利愛さんには僕と瓜二つの息子さんがいたらしい。現在も行方が不明なんだそうだ。

僕も家族の話をした。母の事、由紀菜さんや愛梨のこと。清華さんや好実姉さんのこと。


その間父はほとんど家に帰ってこず、たまに帰ってきては僕に手を上げることでストレスを発散していた。


たまに会う父からは香水やお酒の匂いが混じり混じった酷く気持ちの悪い臭いがした。


一ヶ月程が経って、とあるクリニックに連れて来られた僕は麻酔もされないままに手術を施された。

あまりの痛みに耐えきれず僕は手術台の上で気を失った。




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