第2話




保育園ではよく遠足についての話が出ていた。

最初に持ち上がったのは遠足の目的地についての話だった。

男の子は歩いて三十分くらいのところにある公園、女の子はそのちょうど反対側にある綺麗な花が沢山咲いている河原へ行くことになった。


遠足の持ち物の話が出ると園児たちからざわざわと話し声が増えていった。持っていくお菓子の話や一緒にどんなことをして遊ぼうなど、それぞれが遠足に想いを馳せ騒ぐ中で私が気になったのは一つ。

彼方が男の子のグループと女の子のグルーブどちらに振り分けられるのかについてだった。


当然、『体の性別』が男である叶多は当然のように男に振り分けられた。


その事に納得出来ずにいた私は帰宅後母に相談した。


「かなたくん、あんなに可愛いのに男の子と一緒なんてやっぱり変だよ!」


しかし母から帰ってきた言葉は「こればかりは仕様のないだから」の一言だった。


それでも納得のいかなかった私は椅子から立ち上がると「もういい!」とだけ言い残し自室に向かった。

勢いよく扉を開けるとそのままベッドに飛び込んだ。



翌日のことだった。


不機嫌な態度を隠さないまま母に挨拶をした私は母と喧嘩になった。

叱る母の言葉を聞こうともせず、無言で朝食を食べた。

保育園にも行く気が起きなかったが、母に無理矢理着替えさせられ結局保育園に連行された。


そんなこんなでただでさえ機嫌が悪かった私だったが、その日同じクラスの女の子達と少し過激な喧嘩をすることになった。


溜め息を吐きながらそれでも心配そうに見つめる母の視線から目を逸らしながら母と別れ保育園に来た私はいつものように彼方と一緒に過ごそうと思っていた。


そこで聞こえてきた。


「ぬいちゃんの嘘つき」


女の子の声だった。


そしてその女の子に賛同するかのように何人もの女の子が彼方を囲って立っていた。


「ぬいちゃんは女の子だと思っていたのに、本当は男の子だったなんて」


「ぬいちゃん、男の子だったんだ」


「男の子が可愛い格好してるのは変だってママが言ってた」


女の子達に絡まれる彼方が頭を抱えて蹲る姿を見て私は居ても立ってもいられなくなった。


「かなたくんは嘘つきなんかじゃない!」


そう叫びながら近寄ると彼方を庇う形で女の子に掴みかかった。

そのまま相手の女の子ともみくちゃになり挙句の果てには殴り合うような喧嘩になった。


ややあって騒ぎに気づいた保育士が仲裁に入った事でこの喧嘩は終わって女の子達はそれぞれ彼方に頭を下げていたけれど、私はやっぱり納得出来ないままでいた。


保育士の女性に言われるまま喧嘩になった女の子と向き合う形を取って、相手の子が謝るのを待った。


──だって、わたし何も悪いことしてない。だから絶対謝らない。


どうやら相手の女の子も私と同じことを思っているようで全く頭を下げる気配が無かった。


そんな膠着状態がしばらく続き数分後、結局うやむやのままにどちらからも謝ることなくこの場は解散となった。


私は部屋の中で落ち込んだ様子の彼方に寄り添いながら午前の時間を過ごした。

そして午後になると保育士達が傍にいないことを見計らって私は彼方の手を引いて保育園から抜け出した。

保育園の傍にある河原をひたすら走って走って──。


気づけば遠足で私と他の女の子達が行く予定となっている公園に辿り着いていた。


公園に着くと真っ先にブランコへ向かった。

走り疲れて座る場所を求めたが残念ながらこの公園にはベンチの一つも無かったから。

だからちょうどいいと思ったのだ。


そこからしばらくは特に何をするでもなく時間だけが過ぎた。




私の方は時折ブランコを前後に揺らしたりまた立って漕いでみたりもしていたが、彼方の方はじっと座ったままの状態でずっと俯いていた。


最近よく一緒に時間を過ごすようにはなったものの、私は彼方の事をまだよく知らない。

けれど私はそれでもいいと思っていた。だって知らなくたって彼が私と一緒にいたいって思ってくれる気持ちだけがあれば私はそれで十分だったから。

だから本当は彼が男だからとか女の子みたいな見た目をしていることとか、そんな事はどうだってよかったのかもしれない。

彼が『不知火彼方』だから私は彼と一緒にいたいのだと、心の底からそう思えるから。


だからこそ昨日のグループ分けに納得がいかなかったし、『仕様がない』という言葉で私を納得させようとした母の言葉が許せなかった。

女の子達の彼方への理不尽な詰問に対して腹が立った。

だってそれらは全部『不知火彼方』を否定する物だったから。


──わたしはかなたくんについて何も知らない。

だってかなたくんは自分の事を頑なに話そうとしないから。


──わたしはかなたくんが何が好きで何が嫌いなのかも知らない。

だってかなたくんはわたしと違って好き嫌いなんてしないから。


──わたしはかなたくんのお母さんお父さんの事だって知らない。

だって何も教えてくれないから。


──わたしはかなたくんが何に苦しんでこんなに辛そうにしているのか分からない。

着替えの時にたまたま見てしまった身体中にある痣の事も、その理由も、かなたくんは何も話してくれないから。


私は何も知らなくたって、彼方と一緒にいたいと思ってるし、彼が同じように望んでくれてる限りそれで十分だと思っている。

でも彼方は?

彼方は私の事をどう思っているのだろうか。


私が彼の事を知らないままでいることが本当に私達にとって正しいのだろうか。


本音を言えば……、知りたい。もっと彼の事を知りたいし、知っていたいと思う。

いつでもどこにいても彼の事をなんでも分かっていてあげたいとさえ思うほどに。


ブランコを揺らしながらそんな事延々考えて背中がむず痒くなってきた頃、俯いてた彼方がやっと少しだけ顔を上げこちらを向いた。


私は慌ててブランコの速度を落として彼方の方へ向き直った。


「ねえ、あいりちゃん。どうして僕をここへ連れてきてくれたの」


突然の彼方の質問に対し私は即座に返事を返すことが出来なかった。


『あのままあの場にいたくなかったから』とか『辛そうなかなたくんを放っておけなかったから』とかなんでもすぐに答えればいいのに、私は答えを返すことが出来なかった。


何故なら彼方の顔が私の知らない顔をして、知らない顔のまま涙を流していたからだった。


私は、この時彼方の笑顔以外の顔を初めて見た。


刹那私はブランコを降りて彼方の真正面に立った。そして彼の目元に触れながら彼を慰めようとして頭を撫でてあげた。

すると彼方は痰を切ったように嗚咽を漏らしながら泣き始めてしまった。

私はそんな彼を見ながら何もしてあげられなくてただただ立ち尽くしているだけだった。


しばらくして、泣き止んだ彼方は私に笑顔を向けてくれた。

くしゃくしゃの、どこか無理をしたような顔で。


私のためにと笑ってくれた事が嬉しくて、でも同時にすごく歯痒くて悔しい気分だった。


「かなたくん。わたし、かなたくんのためにならなんだってしてあげたいよ。だから聞かせて、かなたくんのこと」


だから、意を決して踏み込んだ。

『不知火彼方』について知りたいとそう思った気持ちを彼にぶつけた。


彼は変わらず笑顔のまま、頷いてぽつりぽつりと語ってくれた。


自分の事で毎日喧嘩をする両親の事。

自分が生きている事が間違いなのではないかと考えてしまう事。

従姉のお姉さんに憧れている事。

それが自体間違いだと言う父親の事。

父親に暴力を振るわれる事。

その傷を見た母親が泣きながら謝る事。

家での事が辛くて保育園が唯一心休まる場所だった事。

けれど昨日今日の件でそうではなくなってしまうかもしれない事。


私は彼方の話してくれる話をただただ黙って聞いた。

中には私の想像も及ばない話もあったけど、でもそれが彼方を苦しみの一因となっているのならば、知っておきたいと思った。



こうして彼方と公園を訪れてからだいぶ時間が経過していたらしく、辺りは真っ暗になってしまっていた。

公園に設置されていた時計の長針は『7』、短針は『1』と『2』の間を指していた。


「……!もうこんな時間!」


私につられて時計を見た彼方が形相を変えて慌てだした。

私はまだ時計の見方も時間の概念も薄いため彼方が焦る意味がよく理解出来ない。


「あいりちゃん、僕早くお家に帰らなきゃ、またお父さんに怒られちゃう。またお母さんに迷惑掛けちゃう」


ブランコに座ったまま彼方はそう言ってまた泣き出してしまった。


私は彼方の載るブランコの前にしゃがみ込み声を掛けた。


「かなたくん、大丈夫だよ。泣かなくて大丈夫」


彼方を元気づけたくて、彼の泣き顔が見たくなくてそう言って彼を慰めた。

私の声を受けた彼は涙を流しながらいつもの笑顔が嘘みたいな下手くそな笑顔を私に見せてくれた。




私達は来る時に走ってきた道を引き返す形で保育園へと戻った。するとすぐに保育士がそれぞれの家族に連絡を取ってくれた。

連絡を取ってくれている間、私達は別の保育士からのお説教を受けていた。彼方が色んな意味で酷い顔をしていたのもあって、それはそう長くは続かなかった。

その後すぐにそれぞれの母が迎えに来てくれて保育士に何度も頭を下げていた。


私は母に手を引かれながら車へと向かう中、ずっと彼方とその母親の事を見ていた。母親に抱かれながら泣き喚く彼方と彼を抱き締めながら泣き続ける彼女から目が離せなかった。


「愛梨、明日保育園に行ったらもう一回ちゃんと先生達に謝りなさいね」


「でも、わたしたちが逃げたのはあの子たちがかなたくんに酷いこと言ったからで──」


「うん、事情は保育士さんから全部聞いたから知ってる。だけどそれとこれとは別よ」


「むー、なんで?」


「愛梨は彼方くんのためにって彼方くんを保育園から連れ出してくれた。それは凄い事だと思うし、褒めてあげたいと思う。でも同時にあなた達が保育園から居なくなったことで保育士さん達にはすごく沢山迷惑を掛けてしまったの。だからその事についてはちゃんと謝らなきゃ。ね?」


「……はーい。」


「うん、偉い偉い」


母はそう言って拗ねた私の頭を撫でてくれた。優しい手で優しい声で私を甘やかしてくれた。


昨日みたいにちょっとした言い合いはこれまでだって何度もあった。けれどそれでも私は母の事がずっと大好きで、そんな母の子どもで幸せだったと思う。

今更ながらそんな事を思ったのは彼方の家の事情を聞いた後だからなのだろうか。


「ねえ、おかあさん。あのね、かなたくんね──」


気づけば私は今日彼方から聞いた話をそのまま母に話して聞かせていた。

母は何を言うでもなく私の話を複雑そうな面持ちで最後まで聞いてくれた。


「そう、彼方くんがそんな事を」


「うん。それでね、わたし、かなたくんのために何かしてあげたいの。何かわたしに出来ることないのかな」


「そうね。愛梨がそう思って傍にいてくれるだけで彼方くんはすごく嬉しいんじゃないかなって母さんはそう思うな。だから愛梨、これからも彼方くんと仲良くしてあげてね」


「うん!」


それからその日は久しぶりに母と一緒の布団で眠った。なんとなく母親の愛情みたいな物が恋しくなったから。

母も嫌な顔ひとつせず受け入れてくれた。


こうして母の熱を感じながら、私にとって濃い物となった一日が終わった。



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