【短編】大人風味の青い春

三文

大人風味の青い春

 漆川町、快速電車はとまらない。


 電車が一本素通りし、僕は後に来た普通電車に乗った。休日の昼間ということもあってか、乗客は少なく、何の気まずさもなく座ることが出来た。さらに言えば、こういう日の電車は何の遠慮もなしに向かいの窓を見ることが出来るから好きだ。高校に行く時に乗る電車は人が多いから、たとえ座る隙間があったとしても若者の自分が座るなんていうのは少し憚られるし、他人と目が合うことが怖くて窓なんて見ていられない。


 電車が揺れると、僕の体は吊り革よりも大きく傾いた。そのまま椅子に倒れこんでしまうなんて言うのは恥ずかしいからしないけれど、人が誰もいなくなればそうするのも悪くない。


 一息吐いて、僕は車窓に映る景色をただ眺める。土日、なんとなくつけたテレビ番組を見る時と同じ目で。


 外の景色を見ることは好きだけれど、目の前にあるものを楽しむことが出来るとは限らない。僕の生まれた町というのは、風情もなければ迫力ある建物もない都会ぶろうとしているだけの田舎町だ。夜になると、孤独に光っているものがある。どこからかやってきたショッピングセンターがこの町を見下ろしているのだ。


 最近は、この国で外国人を見ることは珍しくなくなったけれど、この町は外国人にとって未踏の地ではなかろうかと思える。わざわざ外から訪れるような場所ではない。ナンバープレートを見たらそれが良く分かる。


 いつかこの景色を「懐かしい」と言う日がくるだろう。いや、そうではなくて「随分と変わったね」かも知れない。


 とにもかくにも、二年後、僕は高校を卒業すればこの町からは出ていくことになるだろう。二つある夢、そのどちらを追ってなのかは分からないけれど。一つは薦められた夢、大学への進学。もう一つは写真家という家族や先生には言えていない夢だ。


 この夢をもったきっかけは後悔から。


 中学生の時、僕は友達を交通事故で失った。この事実を変えれないとして、僕が過去に戻るのなら二人で写真を撮るだろう。当時、僕は写真なんてものにあまり興味がなかったから彼の写真なんて一枚もなかった。学校の行事とかで映った写真やクラスの集合写真なんかには彼の姿があるけれど、それではあまり意味がない。僕は二人の思い出の証拠が欲しいのだ。それがないせいで、彼が亡くなった途端に彼という存在が妄想の産物かのように思われた。思い出は夢のように薄れていく。


 電車が一度大きく揺れると力強い光が差し込み、乗客の目線が外に奪われていったのを感じた。


 僕は目的地が近いことを悟る。車窓には海が映っていた。家から盗ってきた型落ちの、少し重たいカメラを向けるも、何をためらったのかシャッターを切ることが出来なかった。


 海というのは案外黒い。




「遅いぞー」


 改札を抜け、目を凝らしてみると大きな輪っかが二つあった。男子がつくるものと女子がつくるもの。


 文化祭の打ち上げにはクラスの半分くらいが来ると聞いていたけれど、女子の方の集まりが少し悪い気がする。


 僕は怪訝そうに見つめる大人達の間を頭を下げながら、小走りで、騒がしい方の輪へ向かった。


「山田、遅いぞー!!」


 到着し、頭を下げようとするやいなや遠藤に肩を掴まれた。そのままお構いなしに遠藤が腕を押し引きすると、頭がぐにゃぐにゃと揺れて視点があちらこちらに飛んでいく。


「ごめん、ごめんって!!」


「許しません!!」


 そう言いながらも遠藤は手を放してくれた。視界が回って、まだ少し気持ちが悪いけれど、自分の創り上げた台本を遂行するため僕はポケットから携帯を取り出し時間を確認した。 


「遅刻って言っても五分じゃん。わざとじゃないんだし、そんなに責めなくてもいいじゃんか」


 予定されていたセリフ。僕は意外にも役者である。


 もう一本早い電車で行くと、集合時間の二十分前になってしまうから僕はわざと五分遅刻した。僕だけが違う方面からの電車だから、この悪事がバレることもないだろう。と、思っていた矢先——


「いやいや、コイツわざと遅刻してきたんじゃね? 電車の時間的にさ」


 安西が急所をついてきた。去年も一緒のクラスだったからか、安西には色々と見透かされている気がする。いや、知り合った頃からそうだったか。今まで何度もやられてきたからか、人の心でも読めるんじゃないかとさえ思えてくる。とりあえず、僕は会話を逸らしてみる。


「ところでさ、僕が一番最後?」


「ああ、そうだよ」


 遠藤がそう答えると、安西が僕の疑問の言葉を待たずして、質問に答えた。


「でも、女子が何人か買い物に行ってるからな。それが帰ってきたら海に出発だ」


 女子の人数が思ったよりも少ないと思ったのはそういうわけだったのか。


 チラと女子の方を見てみると、思わず視線をすぐに逸らしてしまった。安西と目が合うとニヤリと、いつもの嫌な笑みを見せて来た。


「なんか、いつもより可愛いよな」


「ああ、まあ、うん」


「なんだよ、その反応は」


 男子がつくる輪っかと女子の輪っかの間には少しの空間がある。普段は男女共に仲の良いクラスで、こんな風に分裂していることほまずない。ただ、今日はお互いになんとなく距離を置いてしまっているような気がする。理由なんてのは考えるまでもない。いつもの制服とは違う、見慣れない私服姿。学校ではなんとも思っていなかった子が少し可愛く見えたりして、でもそんな風に見てるとか意識してるんだとか思われるのが恥ずかしくて。いつも通りにしなきゃという心掛けがもうすでにいつも通りじゃないことで、なんだか頭が混乱してしまって、距離を作ってしまっている。


 ただ、一つ思うことは女子の方から時々、安西という名前が聞こえてきて少し腹が立つ。


 確かに安西という人間はいわゆるモテる男だとは思う。人との距離感を掴むのがうまいし運動神経も良ければ、頭も良い。ファッションセンスのない僕から見ても安西はオシャレに見えるし。


「で、山田。田中さんを見てどう思うよ?」


「え?」


 脈略もなく突然、安西がそんなことを訊いてきた。


 田中さんというのは僕の好きな人で、安西にそのことを言ったつもりはないのだがいつの間にかバレていた。


「おいおい、誤魔化すなって。心の中では一つのチャンスだと思ってきたんだろ?」


「そんな風に言うなよ……」


 そんな他愛もない話をしていると、買い物組の女子達が帰ってきていた。


 女子達が「おかえりー」と言うと、それに呼応して男子の方からも少し小さめに「おかえり」という声があがった。


「じゃ行きますか」


 ようやく人数が揃ったのか、僕達は遠藤の声に導かれて打ち上げの舞台である海へ向かった。


 道中、二つの輪っかは潰れて四つぐらいの粒になった。男子だけのもの、女子だけのもの、混ざったものが二つ。言うまでもなく、僕は男子だけの粒にいる。さっきまで隣にいた遠藤は知らない間に姿を消した。どこにいるかは想像がつく。あの、一番うるさいグループだろう。


「そのカメラにさ、田中さんの写真何枚ぐらい入ってるの?」


「は?」


 道すがら、安西はここぞとばかりに話題を恋バナに持っていく。


「遠藤と一緒に向こうに行かなくていいのか?」だとか、「遠藤も田中さんの事が好きだから、とられるかもよ?」だとか、嫌なことをきいてくるものだから、僕が適当に返事をしていると、安西はとうとう意味の分からないことを口走って来た。


「いや、山田っていつもそのカメラ持ってるからさ。田中さんのことを何回か盗撮してるんじゃないかと思ってさ」


「してるわけないだろ」


「本当かー? ま、いいけどさ」


 つまらなそうに、安西は視線を下げて道草を眺めている。


 僕は、ほのかに聞こえる海の音に耳を貸しながら少し申し訳ない気持ちになった。でも、僕に非はないだろう。


「ところでさ、なんで田中さんのこと好きになったの? ちょっと天然なところ?」


「んー、なんでだろう? 一目惚れかな」


 よく覚えていないフリをしながらも、僕は一年前のあの日のことをよく覚えている。


 あの時は田中という苗字すら知らなかった。駅のエスカレーターで登っていく彼女を見た時、僕は惹かれたのだ。


 たとえそれが帰り道であったとしても、学校以外の場所で同じ制服の人を見ると、目で追ってしまう。


 長い髪の毛が寸分も違わずすらりと肩のあたりまで下りていて、上品な姿勢をしていたから余計に僕の目は釘付けになった。動きのない所作があまりに美しく見えたものだから、同じ制服を着ているのに違う学校の人間かと思ったほどだ。


 そして、なによりも彼女を美しくしていたのはスカートを抑えていた手だった。


 エスカレーターの下の段にいる人から見られないようにと大事をとった行動だと思うのだが、僕の十七年男をやって来た経験として、どの角度からどう頑張ったってパンツが見えることなんてない。つまり、彼女のそれは無駄なことなのだが、それが何よりも彼女を美しくしていたのだ。品があるとはこういうことなのだと思う。


 それが理由で心が惹かれ、その次の年に彼女と同じクラスになった時にはなにか運命じみたものを感じた。


「おー!! 海だー!!」


 後方から遠藤の声があがるやいなや遠藤の姿は目の前にあり、砂浜を駆けていった。


 女子の笑い声が聞こえると、それから何人もの男達も遠藤に続き、安西は僕の腕を引いて走りだした。


「ちょっと、恥ずかしいって!!」


「いいじゃんか、いいじゃんか!! この程度の恥ずかしさ!!」


 砂に足が沈むから、次の一歩を踏み出すのが難しい。


 みんな考えることは同じなのか、宙に何個もの靴が浮いた。


「ほら、山田! お前も脱げって!!」


 一足先に行っていた遠藤が急にこっち向かってきて僕の靴を脱がせてきた。


「脱げ脱げー!! 海に行ったら靴は脱ぐんだよ!! お前、海初めてか?」


「え? あ、うん」


「おい、マジかよ! ほら、行くぞ!!」


 野次馬根性の声にも煽られながら、靴を脱ぎ捨て自然と競争が始まる。


 遠藤と安西の後を追いかけ、全力で走る。


「痛い! ちょっと痛いんだけど!!」


 何かの骨を踏んでいるような気分だ。いや、これは貝か。やっぱり靴を脱ぐんじゃなかった。


「おーい、遅いぞー!!」


 その時、海はとても煌めいていて何よりも青かった。きっと、ここの海が全国で一番綺麗なんだろうと思った。確信した。


 僕はパシャリと一枚、友達を画角に入れてシャッターを切った。




 時間が経つのはあっという間だった。


 バーベキューにビーチバレー、それから遠藤を砂で埋めたり。さっきまで手に乗っけて遊んでいた夕日はいつの間にか沈み、夏だというのに少し寒くなってきた。それと同時に体の疲れが急にどっと襲って来て、頭にチラつく帰りの電車に憂鬱になってきた。


 ――パチパチと音が鳴る。


 打ち上げの締めは手持ち花火。バケツがあちこちに置かれており、どこかの漫画で読んだパーティーみたいになっている。それぞれが好きなバケツの周りに集まって、好きなタイミングで移動する。騒がしいところもあれば、静かなところもある。


 他のバケツとは少し離れたところにあるから人気がないのか、最初はわいわいと他の人もいたが僕のところは安西と二人きりだった。


 一つ、騒がしいところには随分と人が集まっている。


「山田はさー、趣味があっていいよな」


「え?」


 今まで散々騒いで疲れたのか、少し低いトーンで安西がそんなことを言ってきた。


 こういう、しんみりとした空気は落ち着くことが出来て好きだ。


「写真撮るのってそんなに楽しいの?」


「んー、楽しいっていうのはちょっと違うけど。安西は趣味とかないの?」


 言いながら、安西の方を見るが視線は合わない。夢中になって閃光を眺めている。


「今はないけど、将来は競馬とかしようと思ってる」


「……本当に? やめときなよ、あんまり良いイメージないよ?」


「いや、俺ならなんか行けそうなんだよな。俺が応援した方がだいたい勝つし」


「そういう人間に限って負けるのが競馬でしょ?」


 目が合い、静かな夜に笑い声が響く。いつの間にか、向こうの声は何も聞こえなくなっていた。


「はあ、来年から本格的に受験勉強か」


 安西は肩をすくめてそう言った。


 遠くを見ながら自分の未来を少し不安視しているようだが、安西という人間はなんでもそつなく、そしてなんでも人より出来る人だ。きっと、ここから遠くにある大学に行くんだと思う。


「それでさ、山田は大学とか、——あっ」


 安西が話を続けようとしたその時、二人の手持ち花火が同時にポチャンとバケツに落ちた。


 自然と顔を合わせて笑ってしまう。そして、もう一本ずつ取り出して会話を続けようと火をつける。


 一瞬、安西は目を細めてどこかを見た後、さっきとは違う顔をした。


「競馬をするってなって一万円渡されたらさ、どうする?」


「えっ? んーまぁ、とりあえず強い馬に賭けるかな」


「それで、大体負けるんだよな」


 安西は経験者のような顔をして、人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。


 そうして、安西は始まったばかりの手持ち花火をわざとバケツに落として立ち上がって行ってしまった。


「えっ?」


 僕も彼について行こうと、慌てて立ち上がろうとするも言葉で制止されて、「ここぞという時に攻める馬を逃しちゃいけない」と謎の言葉を吐き捨てていった。カッコつけてるのだろうか。安西が向こうの方へ行くと、その名前を呼ぶ黄色い声があがった。嫌なヤツだけど、嫌いにはなれないのだから不思議だ。


 そして、田中さんがやって来た。


 理由は分からなかった。安西目当てでこっちに向かってきたけど入れ違ってしまったのか、それとも元居た場所の人数が溢れてしまい、こっちにやって来たのか。田中さんはいつもの上品な所作で横に置いてあった袋から手持ち花火を取り出し、火をつけた。


 胸が高鳴る。バケツ一杯の距離に好きな人が座っている。


 でも、水に微かに映る顔を見ることが精一杯で、顔をあげることなんて出来なかった。向こうから、いやに大きな笑い声が聞こえてくる。海の波打つ音がうるさい。


 ミサンガが首を絞めつけているようだった。願いなんて叶わなくていいから、早く切れてくれと思った。話しかける勇気なんてないから、手持ち花火なんて早く全部散ってしまえばいい。


 そう思っていた時だった。


「山田君って、写真撮るの好きだよね」


「えっ、ああ、うん——あっ」


 僕は話しかけられたことに驚いて、言葉を返すことに夢中になりすぎて持っていたものを落としてしまった。


 田中さんはそれを見て笑ってから、何を思ったのか彼女も手を離した。


「えっ、えっ、えっ!?」


 僕の驚いた声なんか無視して、彼女は僕の隣にやってきてポケットから小さなカメラを取り出した。


 僕の傷がついているものとは違い、新品のように綺麗だ。


「この写真どう思う?」


「いい、と思うけど」


 突然、見せられた写真には僕達がここに来た時の走っている様子が映っていた。


 最初はよく分からなかったけど、いい写真だった。一目で素人が撮った写真だと分かる。だけど、何かの思いに駆られているのがよく分かる。現れたシャッターチャンスを逃すまいとなんとか捕らえた一枚。これほど、写真一枚に魅せられたことはない。


「この写真はどうかな?」


 そう言って見せて来たのは桜の写真だった。


 今度の写真はあまり良いものとは思えなかった。それは、彼女の技術不足だとか画角がおかしいとかではなくて、さっきの写真と比べるとなぜか物足りなさがあった。


「この写真はどこで撮ったの?」


 とは言っても、はっきりと「悪い」なんて言うことは出来なくて僕は話を少しだけ逸らすことにした。


 訊かれた彼女は顎に手を当てて、「えっと」と呟いてから気まずそうな笑みを浮かべた。


「覚えてない……」


 無言の時間を恐れるように矢継ぎ早に彼女は言葉を紡いだ。


「この写真、あんまりだよね?」


 一度、「そんなことはない」と言葉を濁そうと思ったけれど彼女の前で役者になったところで見抜かれるような気がして、演技をやめた。


「確かにあんまりかも。でも、桜って撮るの難しいからね」


「そうなの?」


「桜の魅力は目に見えないから」


 彼女は首を傾げた後、僕のセリフがおかしいと言いたげな顔をして手で顔を隠しながら微笑んでいた。


 それを見て、僕が無意識のうちにロマンチストになっていることに気が付いた。


「違う! 違う! そういう意味じゃなくて!!」


 思わず大きな声が出てしまっている僕自身に驚きながらも、恥ずかしさを早く無くそうと言い訳をした。


「桜の魅力って紫外線を乱反射するところにあるんだよ! 紫外線は可視光の外側だから、見ることは出来ない。だけど、感じることはできるらしくて、その。なんて言うんだろう、そういうことじゃないんだ」


 余計に惨めになっていることに気が付いて、僕は言い訳をすることすら諦めていた。


 彼女はと言うと、小鹿を見守るような微笑みをしていたが、嫌な気はしなかった。むしろ、なぜだか嬉しかった。


「山田君は桜を撮ったことあるの?」


「いや、僕はこのあたりの写真しか撮らないから」


 僕は基本的に地元の写真しか撮らない。いや、撮れないと言った方が正しいだろうか。一度、電車に乗って遠くの景色を撮りに行ったことはあるけれど、どうしてかシャッターを切ることが出来なかった。


「山田君はさ、どうして写真を撮るの?」


 少しの空白の後、田中さんが思ってもみないことを訊いてきた。恥ずかしくて、目が合うだけでどうにかなってしまいそうだから、彼女の視線を逸らすために僕はカバンからカメラを取り出して自分の撮った写真を見せていった。田中さんは目を輝かせて、その一つ一つに感想を言ってくれた。嬉しい言葉だらけで少し照れくさかったから、もったいぶるのはやめて質問に答えた。


「忘れてしまったらさ、なんか全部なかったことみたいになっちゃうじゃん。それが嫌で僕は写真を撮るんだ。田中さんは?」


 訊くと、田中さんは困った顔を見せた。それから小さな笑みを浮かべて、そして覚悟を決めた顔をした。


「私はシャッターを切らされたんだ」


「えっ?」


「私の好きな人には写真で思いを伝えるのが一番だと思ったから」


 そう言って、田中さんはカメラを少し触ったあと、僕の胸にそれを押しあてた。


 受け取って画面を見てみると、そこにはまた一枚の写真があった。田中さんは顔を手で覆って隠している。


 砂浜の写真。木の棒で文字を掘っている。


 僕はそれを見た瞬間、嬉しい気持ちと同時にしまったという思いが走った。


 考えるより先に彼女の手を取って海に走っていた。


 ラストスパート、まだ終わってはいないはず。ゴールテープは僕が切りたかった。走りすぎて、足首が波に打たれるところまで来てしまった。彼女は不思議そうに首を傾げながらも、笑っていた。それだけが救いだった。


 息を整えて、田中さんの顔を見て、彼女を引っ張った手をもう一度彼女の方に伸ばした。


 そして、僕はあの文字と同じ言葉を口にした。


「好きです、付き合ってください」


 頭が真っ白になった。こんな言葉は二度と言いたくない。それぐらい恥ずかしい言葉だった。


 でも、手を握られた瞬間そんな思いが全部吹き飛んで、彼女の笑顔だけで頭が一杯になった。人生で一番幸せに死ねるのは今日だと思った。


 手を離して、お互いが見つめ合う。


 ああ、きっと僕は死んだんだと思う。ここは天国に違いないだろう。


 そんな感傷に浸っていた僕を即座に現実に連れ戻したのは、彼女の不可思議な行動だった。


 彼女は小さなカメラからメモリーカードを抜き去り、「えいっ」と言って海に放り投げた。それは音すら立てず闇に消えていく。


「えっ? ちょっと?」


 慌てて、僕は彼女の方を見た。


「忘れたら、なかったことになるような気がして、それが怖いから写真を撮ってたんだよね?」


 僕はゆっくりと頷いた。


「忘れたとしてもさ、思い出はなかったことにならないよ。だってあるんだもん」


 彼女は海に沈んでいったメモリーカードを指さしながらそう言った。


 彼女の表情は満足気だった。


「あれ、いいの? 投げ捨てちゃって」


「もともと、伝えるための写真だから。ねえ、今度は私の為に写真を撮ってよ」


 僕は言い切られるより先にシャッターを切らされていた。


 不意の一枚、彼女の腑抜けた顔。背後には、昼に見た時よりも青い海が映っている。


 僕が風景を彩るものの正体に気が付いたのはその時だった。




 快速電車に乗りながら車窓に映る思い出の海を見て、俺は「ここだけは変わらないな」と呟きそうになった。


 あの告白を受けた日から十年程度が経っただろうか。漆川町は随分と様変わりをし、あの時は孤独にポツンと立っていたショッピングセンターが様になっていた。


 カバンから黒光りのカメラを取り出し、海にレンズを向ける。


 あの日、ここの海は世界で一番青くなった。回想しながらシャッターを切ろうとしたとき、少し視線をさげると一匹の虫が横たわっていることに気が付いた。


 俺はそれを画角に収めることにした。


 いつか、被写体を変えて同じような写真を撮るような気がする。そして、俺が死んだときに天国で妻に見せるのだ。これがお前のために撮った最後の写真だと。たくさんの思い出をありがとうと。

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