第4話 龍皇結界の森の主
アスターは剣鹿と対峙する。一方のソードディアも逃げる気はなし。餌場を荒らした不届きな新参者を突き殺そうと鼻を鳴らしている。
勝負はソードディアからしかけた。
(え、速……)
「ピィ!」
一鳴きして猛然と走り出した剣鹿。アスターは反応できずに、剣角でどつかれる。しかも角で空中にかちあげられる始末。
「いってえええ!?」
尻から落下したアスターは、攻撃の衝撃にうめいた。しかし、やはり風穴は開いてはいない。ソードディアの角の威力を完全に殺している。
(目で追えない程じゃない。転移してすぐ遭遇したら死んでたかもしれないけど、魔纏装が身体に馴染んできた今なら……!)
前日からのダルさは引きずっていたが、体の中の魔力は増えている気がした。アスターは身体を覆う魔力を分厚くし、魔纏装の出力を底上げする。
準備は万全だ。
アスターは空いた手でソードディアを挑発した。ここで変に恐れられて逃亡されるより、怒らせてその場に留めたほうがいいいう判断である。
「ピィィィィィ!」
敵になめられているのくらいは理解したのだろう。
剣鹿はいなないて角を向け、強靭な脚力で突進しはじめた。アスターは剣鹿が進路変更しないか見極めて、突進攻撃を受けて立った。
「馬鹿正直な突進で……助かるぜ!」
アスターは剣角を避けながら、ソードディアの首を取って組み合った。しかし、流石に自分の体より一回り大きい中型の魔物を相手にして、突進を止められるわけがない。
「っ!」
「ピィッ!?」
勢いのまま引きずられたアスターは大木に激突してから、ようやく動きが取れるようになった。また角が樹木に突き刺さっているところを見るに、ソードディアの頭はあまり良くないだろう。
これはアスターにとって都合が良かった。逆手に持ちかえたミスリルナイフを剣鹿の首――――動脈に突き立てる。
ミスリル製の鋭利な刃は、抵抗なく首に突き立った。ほぼ同時に、ソードディアの悲鳴が森中に響く。
「ピッ、ピイッ、ピィィィィィ!?」
ガツッとナイフから伝わる感触が、ナイフが脊椎に達したことを教えてくれた。おそらく剣鹿にとって初めて味わった刃物の痛み。
ミスリルナイフの一撃を受けて暴れ回るソードディア。そのはずみで、アスターは首元から振り落とされた。ついでに、首から刃が引き抜かれ、鮮血がぼたぼたと草木を濡らす。
地面にへたりこんだアスターはというと、ミスリルの蒼刃を濡らす赤黒い血を見て、動悸を抑えられないでいた。無理もない。血を見る経験なんて15年の人生の間、せいぜい鼻血を流したときくらいだろう。
騎士や傭兵、冒険者たちのような戦いを生業にしている存在ならともかく、公爵家の末子だったアスターには流血の経験などなかった。
「ピィ……」
血を流す剣鹿が、アスターを睨みながら衰弱していく。ソードディアは暴れすぎて首から血を流し過ぎたらしく、足をふらつかせている。
その姿を見て、生きるか死ぬかの境地に立っていた自分が重なって見えた。
(そうだよな。どんな時だって生きたいよな。でもそれは俺も同じだ……俺も生きなきゃいけないんだ)
腹をくくったアスターは、グリップを握りしめて剣鹿との間を駆ける。
もう動く力も残っていない剣鹿。アスターはそんなソードディアの胸部、心臓目掛けてナイフを思い切り刺した。
そして震える手で……ゆっくりと……引き抜く。
ナイフの刃に続くように、剣鹿の胸から血が噴き出す。瞬間、ビクリと痙攣したソードディアは完全に膝を屈した。ぶるぶると体を震わせているが、それも時間経過とともに収まる。
もう息はなかった。
「………………」
アスターが歓喜の声をあげることはなかった。しばらく、ただただ無言で光を失った瞳と見つめ合っていた。
やがて心の整理がついたらしいアスターは、剣鹿の血抜きと解体をしようと近づいた。横たわる獲物の亡骸に祈り、ナイフで首を絶ち切る。
それから血抜きした剣鹿の解体に取りかかった。赤色の筋肉を覆う半透明の筋膜と白い皮下脂肪がたっぷりついた毛皮をナイフで切り離し、魔物生態学の内容に照らし合わせながら手を動かす。
(本にはすごい簡単そうに書いてあったけど、この皮剥ぎ、かなりの重労働なんだな。ミスリルナイフの刃でも、だいぶ脂肪で滑っちゃうし)
手元を誤って毛皮に穴を開けること一時間弱。
毛皮を剥ぎ終えたアスターは、剣鹿の腹を開き、内臓を出していく。胃や腸を取り出したあと、掌に乗っかるくらいのポンプのような臓器が見つかる。
ソードディアの心臓だった。
心臓は魔素が一番濃い部位だが、火を通せば食せたはずだ。それに旨味もあって美味しい。心臓は持ち帰ることにして、後ろ足を枝肉にしはじめる。
落ち葉や土が付くのに手間取りながらも、アスターは後ろ足を肉塊に仕上げた。
(うーん、片足だけで陽が暮れそうだ……)
逡巡の後、アスターは拠点に戻ることにした。さすがに夜作業は怖いし、帰り道を見失ってしまう。
「さて撤収を…………」
枝肉を肩に担いだアスターは、解体現場を去ろうとしてピタリと動きを止めた。
――――ズ、ズン。
(この足音、最初の夜の奴だ)
龍皇結界に転移した初夜、アスターはこの足音を聞いていた。間違えようもない。拠点の木を真っ二つに引き裂いた大型魔物が縄張りの巡回に来たのだろう。
もしくはアスターの存在に気付いたか。
(どうする、逃げるか?)
理性が正論を告げていたが、敵の正体を知りたいという思いもあった。
それに相手は強大な力を持つ大型の魔物だ。走って逃げきれる保証はないに等しい。なら近くに潜んで魔物の姿を拝んでみるのも悪くない。
そう決断したアスターは大木の裏に隠れた。
――ズ、ズン、ズ、ズン。
段々と魔物の気配が近づいてくる。荒く力強い息遣いに、たまに混じる野獣のような唸り…………それと息を吸うような音が複数聞こえる。
明らかに魔物の足音は一体分のはずなのに、魔物の息遣いは明らかに二つ以上は聞こえる。
二日前の夜は、アスターの意識は朧気で複数の気配には気付かなかった。しかし、今ははっきりとわかる。
そこでハッと思い出した。
(いや、いる。いるぞ……龍皇結界には多頭の大型の魔物が!)
アスターは記憶の中の存在と近づいてくる魔物の正体を照らし合わせるため、大木と茂みの間から現場を覗き見た。すでに足音は途絶え、ソードディアの死肉を貪る咀嚼音が響いていた。
(やっぱり、本物だ)
そこには獅子の頭と身体(からだ)、三つの毒蛇を臀部に従えた獣が、夢中になって剣鹿に食らいついている。
(タイランター帝国の象徴・キマイラ!)
煌々した獅子の瞳に、金色の体毛。三頭それぞれの蛇は、食事中の本体が襲われないよう周囲を警戒している。
タイランター帝国の国旗、硬貨にも描かれているキマイラに他ならなかった。
当然、龍皇結界・冒険録にも載っていて、龍皇結界の森の一部を縄張りにしていると書いてあったはずだ。
(なんですぐに思い出さなかったんだ! キマイラは小さな町一つを壊滅させられる魔物だぞ! 大都市すら滅ぼせる最強種ではないにしてもマズい)
魔纏装を得て気が大きくなっていたアスターは、冷水を被ったように身体を震わせた。目の前で骨ごと噛み砕かれる剣鹿を見て、完全に腰が引けていた。
しかも、よくよくソードディアの剣角を観察すると鉄ではなかった。ダマスカスと呼ばれる、鉄が魔綱に変化したものだった。
単純な硬度だけなら、ミスリル以上の硬度の魔綱である。
キマイラはソードディアの頭に口を近づけていく。
どうするのかと注視していると、獅子の頭が火を吹いた。キマイラの胃には可燃性のガスを発生させる機能があり、喉の奥の火打石のような器官で着火させることができるらしい。
それは真実のようだ。
キマイラの吐いた業火によって、ダマスカスの剣角は融解を始めた。キマイラは、溶ける角に厚い舌を這わせ――。
(おい嘘だろ)
ペロッ、と――表情に出たわけではないが――美味そうに舐めた。耐熱に優れた舌なのは炎を吐く時点で分かってはいたが、肉が焼ける音もしないのは人間のアスターからすれば異様な光景だ。
他の魔物を取り込んで身体を強靭にする……魔物生態学的に見れば、そういうことなのだろう。実際に目撃してみるとかなりショッキングではある。
一部始終から、アスターは目を離せなかった。本の知識しか知らなかったアスターは、眼前の恐怖にすら感動を覚えた。
食い入るように、言葉を出せないほどに魅入る。
食事を終えて立ち去っていくキマイラに対して、アスターは襲うわけでもなく、逃げ出すわけでもなく茫然(ぼうぜん)と見つめていただけだった。
*
冷ややかで淡い蒼月の光が、夜道を照らしていた。アスターはその月明かりを頼りに拠点まで戻ってきていた。
左手には剣鹿の心臓を持ち、右肩には枝肉を担いでいる。
「なんだろう。どっと疲れた……でも腹は減るんだよなぁ……」
龍皇結界転移後では、一番鬼気迫る出来事だった。
よく拠点に帰ってこれたものだと自分に感心してから、アスターは肉の処理を始めた。もう腹が減って仕方がない。
「さて、ちょっと手元が暗いけど焚火と竈を作ろう」
近場にある手頃な石ころをかき集め、それらを談を囲うように石壁にしていく。鍋を作った時の木くずを火種を中心に盛り、小さな山を作った。その上に乾燥してそうな木の枝を組めば火口の完成だ。
あとは大きめの石をミスリルナイフで削って平たくすれば、肉を焼く石板の出来上がり。
アスターはファイアで火を起こして追加の枝を燃していく。火の下に炭が溜まり、白い煙がもくもくと上がり始めたら準備完了だ。
スライスした鹿肉を熱した石板にのせた。
赤身から滲み出す血と溶け出す獣脂が石板を伝って焚火に落ちる。
木の枝がはぜる炎の中に、滴りがジュッと混じって燃え上がった。
食欲をそそるコゲが肉の表面に付くくらいじっくりと焼いてから、アスターは木の枝の箸で持ち上げた。
「こんなに分厚い肉、初めてだ」
何年ぶりのまともな肉だろう。アスターにとって人生で最も至福にさえ感じられた。
「いただきます」
自然とその言葉を口にした。すべてを自分で行ったからだろうか。屋敷では一度も使ったことのない感謝が漏れ出てしまったのかもしれない。
ともかく、アスターは肉汁のこぼれる肉を頬張った。
「…………!」
美味い、とすら言えなかった。そんなことより二枚目を口に運ぶほうが鹿肉への礼儀に相応しい。
アスターは言葉を忘れて食事を進めた。
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