第3話 変調の兆し

 魔物の肉を食べるということは、水の魔法陣はもちろん、火の魔法陣も必要だ。血抜き、解体、調理、どれにおいても水は必要だし、特に食べるためには火を通さねばならない。間違えても生肉を食すなんて御免である。


 それに龍皇結界は魔素が濃いため、魔物の生肉に火を通して魔素を抜く作業も必要だろう。


 あまりに多量の魔素を取り込んだら、魔素の過剰摂取になってしまうからだ。そうなったら、倒れて丸一日は動けない。事実上の詰みとなる。


 それは回避したかった。


「まあ、まずは水の魔法陣を完成させないと話にならないんだけどな」


 ハハ、と乾いた笑いが漏れた。


 早朝から洞の中で魔法陣作りに励んでいるが、昼を過ぎたのにまだ半分も書けていない。だがコツは掴んできているように思う。


 陽が落ち、紅月が顔を出す前には水の魔法陣は完成するだろう。


「………………」


 シューッ、シューッ、シューッとナイフが板の上を滑っていく。たまにバチッと叩かれたような音を立てて、ナイフが弾かれるが、アスターはめげずに彫り続ける。


 そうして日が暮れる前に、アスターは水の魔法陣を作り終えた。


「市販の魔法陣より歪に見えるけど、自分で作ったものは味が違うな」


 羊皮紙にインクで描いたものや、石板に彫ったより、アスターの作ったウォーターの魔法陣は壊れやすいだろう。


 彫り抜いた表面の凹凸具合を指でこする感覚もたまらない充実感を与える。


 アスターが魔法陣に愛着を抱いたのは当然だった。


 次は完成した水の魔法陣に魔力を通して、水塊を生み出してみることにした。これでウォーターが発動すれば言うことなしだ。


 外に出たアスターは、魔法陣に手を乗せて魔力を通し始めた。


「さあ発動してくれよ! ウォーター!」


(これ一度言ってみたかったんだよ!)


 ――――本当は魔法名を言わなくても、魔法陣は作動するのだが…………魔法名を叫んでしまったのは、初めての魔法行使で興奮するアスターの童心のせいだった。


 その瞬間、水球が出現した。

 直径30センチの水球は、アスターをざぶんと飲み込んだ。


「ぷはぁ! 魔法陣の上に効果が出るのを忘れてた……あーあ、屋敷から着てた服がびちょびちょだよ」


 張り付いた肌着を摘まみながら愚痴るアスター。しかし、その顔は初めて魔法を使えた喜びのせいで緩んでいる。

 今回の失敗は、水を受ける器が無かったことだろう。


 ならばこれからの食事にも使えるしちょうどいい、とアスターは食器を作ることにした。


 隣にある倒木を大きめにカットし、洞を作ったようにナイフでくりぬき始めた。この作業は手慣れたもので、形を整えるまでにそう時間はかからない。


 陽が落ち始める頃には、スープを煮込めるくらいに大きな器が出来上がった。もはや鍋サイズだったが、水を貯めるのにはピッタリなので良しとした。


 アスターは鍋を地面に置き、ウォーターの魔法陣を用意する。


「よーし、これでもう一度…………ウォーター!」


 やはり必要のない魔法名を呼びながら、ウォーターを発動させると、今度こそ鍋の中に水塊が落ちた。


「ああ~、もう我慢できねえ!」


 なみなみと鍋の中に注がれた水面を見て、アスターはたまらず顔を突っ込んだ。喉を鳴らして体を潤し、汚れた顔を洗い始める。

 まるで命と魂を同時に清めているような心地よさだった。


「ふうっ! これでスッキリしたけど、もう時間がないんだよな。これから夜になるし……ファイアの魔法陣は明日つくろう」


 魔物の活動も考慮して、火の初級魔法陣は翌日に後回しすることにした。

 軽く食事をしてから就寝したアスターは、やはり体が熱くなるのにうなされながら眠るのだった。 


(パラバイに毒性はないはずだし、中毒とかじゃない。下痢とか腹痛もない。まあ。今心配することじゃないか……)


 ――そんなふうに結論付けて。



 そして翌日。


 龍皇結界に転移してから三日目の朝を迎えたアスターは、大木の樹皮を削り取り、ファイアの魔法陣作りに取り掛かる。

 ファイアは攻撃魔法と補助魔法の中間に分類される。

 大円の内側に炎を模る不均等な波線を描き、中心に二つの正方形をずらしたものを配置して完成だ。


 均等な曲線だけを使えばいいウォーターの魔法陣より、難易度は幾分(いくぶん)か高い。だが成功すれば、アスターは火という心強い文明の力を手に入れることができる。


 リターンを考えれば、少々の労力は些細なものだ。


 しかし、ウォーターの魔法陣と同様に、何度も弾かれるナイフ。


「いてっ、また弾かれた」


(こりゃ長丁場ながちょうばになるな……)


 と思っていたアスターだったが、昨日の今日で彫刻技術になれたのか、試行回数を重ねるごとにナイフを弾かれる回数は減っていく。


 明らかに、魔法陣作成のコツを掴んできていた。


 燃えさかるような波線を描き切ったアスターは、二つの正方形を重ねて満足げに息をついた。


「ファイア完成! まだ陽が昇り切ってないな。これなら、午後は周辺の探索に回せそう」


 または冒険ともいう。探索目標は、パラバイ以外の食べ物を見つけることと魔物とのエンカウントである。出会った魔物がアスターでも仕留められそうなら狩猟も行う……こんなところだろう。


 アスターはミスリルナイフを腰に括りつけた。簡単だが、これで準備完了だ。ウォーターの魔法陣を持って行けば便利だと考えたものの、壊れたりしたら目も当てられない。二つの魔法陣には、拠点で大人しく留守番をしてもらうことにした。


 いざ冒険に出発するアスターだったが、ここは深い森の中である。迷わないような目印は必須。一応、太陽の動きの確認と樹木に付ける傷で順路を把握しておく。


 あとは単純に記憶力を頼りに捜索を始めた。


 ところが、アスターでも仕留められる小型の魔物は、臆病なのか姿が見えない。


「……一応、木の実を齧った残骸みたいのはあるから確実にいるんだろうけど。捕食者の前に姿を見せるわけがないか」


 特に小型の魔物は、他の中型、大型の魔物から狙われやすい。相手がアスターでなくとも尻尾を巻いて逃げるだろう。そうなるとアスターの狙いは必然、中型の魔物になる。


 大型の魔物なんて相手にしたら瞬殺されてお終いだ。


(龍皇結界の中型の魔物といえば、剣鹿(ソードディア)とか鋼鉄猪(アイアンボア)、地走竜(リザードラン)、風飛竜(ストラーダバーン)が有名だけど、今の俺で敵うかどうかは……)


 低木の前で、ひょいと屈んだアスターは下半分に注目した。よくよく観察すると分かるが、アスターの首元くらいまで木はハゲている。

 これは草食の魔物による食害で見られるものだ。


(これはソードディアの食痕かな。ここら辺が食事場になってるわけだ)


 それに……とアスターは雑草や落ち葉に隠れた地面を見た。落ち葉を退けてみると、うっすらだが足跡――――二又(ふたまた)の蹄で踏みしめた痕跡がある。


(足跡が消えてない。まだここは使われている、か。良い発見をしたな……)

 

 まだこの辺を餌場にしているのなら、ソードディアの姿が見られるかもしれない。そう考えたアスターは、背の高い樹によじ登って待つ。

 運が良ければ、数日中に遭遇できよう。


「それまでこの木の上で待つか」


 この数日で、貴族としてのアスターは死んでいた。今ここにいるアスターは、野生に解き放たれたただの人間に過ぎない。

 自覚はしていないものの、アスターは着々と龍皇結界に馴染みつつあった。



「うぅ……ん……」


 獲物を待っていたアスターは、いつの間にかうとうとと傾眠状態になっていた。気を張っていたとはいえ数時間も樹の上で待っていれば、眠くなるというものだ。


 そんなアスターを襲ったのはドズン!という振動だった。


「――っ!? な、なんだ?」


 乱暴に起こされたアスターが下を覗くと、鋭い剣角(けんかく)を持った鹿がいた。


「ソードディアだっ!」

「ピイイイッ! ピィッ!?」


 甲高い泣き声をあげ、大木の幹から角を引き抜こうとしている。

 ソードディアが樹に突進するなんていう習性はない。ならこの行動は、食事場を奪おうとした――ソードディアの勘違いだが――アスターを狙ったものだろう。


 そして角が抜けなくなったと。


(これは攻撃するチャンスなんじゃ?)


 ソードディアの剣角は鉄でできており、プレートメイルすら貫通する威力を誇っている。頑丈なアスターの体でも、突進を喰らえばその角で引き千切られてしまうはずだ。


 じゃあ体を狙えばいいか、と考えるとそれもダメだ。ソードディアは短い体毛ながら、非常に高い硬度を誇っており、生半可な刀剣では表面を滑ってしまう。


 火魔法と水魔法をぶつけると体毛が融解凝固して動けなくなるという弱点はあるが、魔法陣を持って来ていないアスターには不可能な手段だった。


(なら、首の後ろを狙うか。成功すればいいんだけど……いや、成功させなきゃ俺が突き殺される)


 通常のソードディアなら体毛の薄い腹部に刃が通るが、今回、アスターの位置からは狙えない。だが、もう一つソードディアには弱点がある。

 普段から反り返った角で守られている後ろ首は、体毛が柔らかいのだ。


 なら角が幹に刺さって、弱点が剥き出しになった今が攻撃のチャンス。


「このまま、仕留めてやる!」


 アスターはミスリルナイフを引き抜いた。強靭な体毛を持つソードディアとて、アスターが全体重をかけて、ナイフを突き下ろせば刃は通ろう。


「ふうー…………よっしゃ」


 初めての狩り――否、野生の魔物と闘うこともあり、アスターは緊張で震えてきた。当然、魔纏装を全身にかけて身体強度を上げておき、ミスリルナイフにも魔纏装をかける。


 後は、アスターの覚悟だけだった。

 

(殺るか、殺られるか…………!)


「上等だぜっ!」


 タッ、と枝を蹴ったアスターが獲物目掛けて落ちる。「ピィッ!?」と驚愕の鳴き声を上げるソードディアが、必死になって逃げだそうともがく。


 ――――瞬間、ソードディアの角が幹からすっぽ抜けた。

 

(えっ…………?)


 頭の中が真っ白に変わる。幹から抜けた角は、当然首を振り上げてアスターの方を向いている。


 鉄板を貫くソードディアの剣角がだ。


(あ、これ死ぬやつ)


 死の影を感じたアスターの鳩尾をズドッ!!という衝撃が襲う。そのまま剣鹿の振り払いで、土手っ腹に突き落とされる。


「いぃっ…………がぁ!」


 背中から叩きつけられて呼吸が詰まる。

 アスターは体を起こしながら、胸から流れ落ちる鮮血を―――。


「あれ?」


 鳩尾の付近を撫でるが、そこは服が裂けているだけだった。掌には血など一切ついていない。服の下からは、色白な肌が露出しているだけである。


(どういうことだ? 俺の体って、こんなに頑丈だったっけ?)


 確かにグランツに殴られたり、初級魔法をくらう程度だったら無傷でいられるだろう。しかし、ソードディアの一撃に耐えられるほど頑丈ではなかったはずである。


 戸惑うアスターだったが、すぐにソードディアの追撃がくると思い立ち上がった。


「ピィィ……?」


 しかし、ソードディアの方も自慢の角が通じないことに首を捻っているようだった。


(いや、くらった俺が一番驚きたいんだが。いくら魔纏装をしていたからって……ん、魔纏装?)


 自分の体に呆れながら、アスターはあることに気付く。


(もしかして俺の体と魔纏装って……相性がいいのか?)


 理由はともかく、アスターの頑強な体と魔纏装の組み合わせはソードディアの剣角すら防げたのだ。常人の魔纏装より、身体が超強化されている可能性が十分にある。これは後で実験してみる必要があるだろう。


「ふ、ふふふ……いけるぞ」


 家に閉じこもっていただけでは絶対に発見できなかった事実に、アスターはほくそ笑んだ。


 逆手に持っていたミスリルナイフを持ちかえて敵と向き合う。


「ピィ?」


 ソードディアはその笑みの意味をまだ理解していないようだった。

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