第2話 100の絶望と1の希望

 転移したアスターの目に飛び込んだのは、深い密林だった。むせかえるほどの草と土の匂い。


 地面にはシダ植物や低木などの木々が群生し、大樹には蔓が巻き付き、見知らぬ茸が生えていた。遠方からは、魔素で変異した生物――魔物の鳴き声が響き、空を仰げば飛竜ワイバーンが飛翔している。


 そこには秘境の風景があった。


 アスターは手元のシースナイフを握りしめた。くっと力を入れて刀身を抜くと、目元が銀の輝きに照らされた。よくみると、その光沢は銀よりも蒼白い。


「これ……ミスリルナイフじゃんか」


 ミスリルは魔力を帯びた金属、魔綱まこうの一種だ。ミスリルの特筆すべき点は、銀の持ち味そのままに、硬度を増していることだろう。刃に加工すれば、砥石要らずと言われる一級品である。


 魔綱はその希少性ゆえ、一般の市場には滅多に出回らないはずだが……。


(これ一本で煉瓦の民家が建つくらいの価値があるはず。姉上……いや。クソ姉貴、貴重なミスリルナイフを捨てるとかマジでイカれてやがる)


 おそらく公爵家の財力で、護身用として買ったのだろう。


 そんな貴重品だが、アスターを殺す余興のためにポイと捨てられる程度の物だったらしい。


(ま、完全に裏目に出てるけどな)


 内心でルスティメリの知識不足を笑った。


 丸裸でダンジョンに転移させられてどうしようかと思っていたが、ナイフがあるなら生き残る可能性はぐんと高まる。


 ナイフの安心感に守られつつ、周囲を見回す。


 植物は旺盛だが、苔類は少ない。空気が湿っぽいだけで、近場に水場があるわけではないようだ。


(しばらく水場を探しながら、食えるものを採るか。いや……)


 今日は昼も夜も飲まず食わずでいた。

 くわえて緊張と疲労が押し寄せており、じっとりとした汗を噴いている。


(唇がカサついて、唾が出ない……まずいな)


 典型的な初期の脱水症状だった。まず喉を潤す必要があるだろう。


 水の初級魔法・ウォーターでも使えればよかったのだが、あいにく魔法の適正はないし、夜の闇のせいで正確な魔法陣を描くことも難しい。魔法陣の作成は明日の朝に回すしかない。


 さて他の水確保の手段となると、選択肢はかなり狭くなる。

 アスターは樹木に巻き付いた太い蔓をよく観察し始めた。


「この蔓。龍皇結界・冒険録に載ってたやつだ」


(ということはやっぱりここは龍皇結界なんだろうな)


 書斎にあった本には、ほぼ全て目を通している。

 特に龍皇結界・冒険録は何度も読んでおり、暗記しているくらいだった。


「樹木に寄生して栄養を奪う蔓、パラバイ。毒性はないが、食べられるという記述もなかった……けど、食ってみるか」

 

 樹木に巻き付いた蔓を切断して、断面をジッと見る。じわっと水が染み出る。異常な水分を含んでいるのか、滴の垂れる速さは五秒に一度を切っている。


 これは期待以上だった。

 

「よしっ! よしっ、いいぞ! 水っ、水だ……!」


 歓喜の声を上げ、これなら……と蔓の先端を口に含んだ。口腔に湿り気が広がっていく。


 試しに噛み潰して味わうと、繊維の間から水がはじけ飛んだ。青臭いが、食べられなくはない。何よりみずみずしく、生命力に富んでいる。大気中に満ちる魔素が、ここの生態系を育んでいる証拠である。


 ゼスティベルク家で軟禁生活を送っていた頃は、ただの一度も贅沢を許されていなかった。


 スープに入った根菜類は萎びて歯ごたえがないし、パンは硬くてボソボソ。領民の方がいい食生活を営んでいそうだと何度考えたことか。


 思い出したら悲しくなってきた。



 パラバイ発見で水・食料解決で安堵するのも束の間。すでに夜行性の魔物がうろつき始め、気温が下がる頃合いだった。ならば優先するのは寝床の確保、あるいは作成だろう。


 できなければ翌朝に魔物の餌となるだけだ。


 周囲を見回せば大樹がある。自然の洞を探そうかとも思ったが、それよりも作った方が堅実に思えた。幸い、手元にはミスリルナイフがあるのだから。



 アスターは遠くに見える龍皇結界の本山を見据えてから、やや斜めに生える大木の裏側に回った。ここならば、雨水が斜面を流れても洞には入り込まない。それに樹木がどんな風向きで育ったかを考えば、裏手は風下側と推測できる。これで雨風を凌ぐこともできよう。



「ここにしよう」



 まずは根元から30センチほど、膝丈ほどの高さにナイフで傷をつける。彫り抜く高さは、座高に頭一つ分を足したくらいでいいだろう。

 横幅と奥行きは体が収まる程度には必要だ。


「魔物に見つかる前に完成させたいな……」


 手頃な石で樹皮を削って、拠点の設計図を下書きし、すぐ彫り作業に移った。


 ミスリルの刃を幹に立てると、さくりと樹皮が裂けた。表面組織に沿って白刃を動かしたとはいえ、その鋭利さには舌を巻くしかない。ナイフを引き抜いて、繊維に逆らって差し込んでみる。


 これもまるで抵抗を感じなかった。


(流石はミスリルナイフ。これなら一時間もせずにくり抜ける)


 それからは無我の境地で、幹に張り付いて作業をしていた。作業中に出た木くずや切れ端は一か所に集め、30分ほどかけて洞が完成した。途中、パラバイの根があったり、樹木の中に住む虫などを払いつつの作業だった。


 仕上げに人を包めるサイズのシダの葉を採取し、編んだパラバイの蔓で大樹の幹にくくりつける。シダのカーテンの出来上がりである。


「こんなもんかな」


 仮にも公爵家の屋敷に住んでいた人間からすると、野蛮人の住処も同然だった。しかしながら、今のアスターにはこのくらいしか作れない。それでも自作した満足感はあり、とても充実した気持ちはある。


「……ああ、それにしても眠い」


 シダの葉を避けて洞に入ると、アスターは疲れが押し寄せてくるのをひしひしと感じた。本格的な夜更けが近いのだ。


(明日は……明日で考えるしかないか)


 もう余裕は残っていなかった。疲労からか若干熱っぽいし、全身に疼痛のような症状も出ている。

 一刻も早く体を休めるべきだ。意識を失う事への恐怖はあったが、三大欲求たる眠気は止められない。アスターは失神するように眠りに落ちていく。


 そうして、日の出まで眠るはずだった。

 睡眠に入ってから数時間、唸るような地響きを聞くまでは。


「――――っ、なんだ……?」


 ズ、ズン、ズ、ズンという規則的な地響き。四足歩行をする大型魔物の足音である。


 アスターは息を潜めた。


 魔物のほとんどは獰猛だ。肉食ならなおのこと気性が荒い。見つかったら捕捉されたら命はない……。


(ここらへんは大型の魔物の縄張りだったのか……!? 他の魔物が少なすぎるとは思ってたけど。それは襲えなかったか、それとも……)


 外を闊歩する魔物に捕食されているのか。


 思い返すば、背の低い植物の食害が少なすぎた。草食の魔物がいるなら、もっと木々がハゲていてもおかしくない。


 葉が青々と茂っている時点で疑うべきだったのだ。


(すでに縄張りの魔物を食い尽くしているのか? それで俺の臭いに気づいた? いや、嗅覚が発達してるとは限らないし、ただの縄張り巡回かも……)


 脳内でつらつらと思考を綴(つづ)っていると、急に足音が絶えた。遠ざかって行ったわけではない。


 魔物が……立ち止まった。


「…………」


(ばれたのか!?)


 アスターは思わず固唾を飲んだ。


 外にいる魔物にどれ程の知能があるか分からない。しかし、人間に近しい常識と知能を持つ存在なら、アスターが作った洞を怪しむだろう。


 龍皇結界でなら、地竜(リザード)や飛竜といった竜種(りゅうしゅ)からランクアップした龍種(りゅうしゅ)がそこに該当する。


(もし龍種なら、それも最高位の魔物、最強種(さいきょうしゅ)だったら……終わりだ)


 アスターは息を詰める。


「グルァ!」


 獣の咆哮。


 瞬間、大樹が震撼した。全身をビリビリと伝う衝撃。間違いなく、アスターの潜む大樹が何らかの攻撃を受けている。


「っ!?」

「ヴヴ……?」


 震えが止まるまで生きた心地がしなかった。まだ、外では獣のうなり声がしており、アスターを探しているようである。


 ズ、ズンと近くを彷徨いている。


(早く行け! 早く行け! 早く行け!)


 そんな風にアスターが祈ること数分。

 痺れを切らしたらしく、足音が遠退いていった。しかし、安堵するには早い。狡猾な相手は、どこかで見張っている可能性がある。


 最低でも夜が明けるまでは、洞に隠れているのが最善と考えられた。いつ死ぬかも知れない。恐怖が支配する夜。


 そんな闇の中で、アスターは再びの眠気に誘われていった。



 龍皇結界・二日目の朝が来た。

 陽はすでに昇り、シダの葉の隙間からは木漏れ日が差している。


「散々な夜だった……」


 全身の疲労が抜けきらないような、慢性的な脱力感が残っていた。過度のストレスが睡眠の妨げになったのかもしれない。


 首を回したアスターは、恐る恐る外を覗く。


「昨日のは……いないな」


 外敵がいないのを確認してから、ようやく外に出る。

 うーんと背伸びをして、後ろを振り向いたアスターは絶句した。


「なんだこれ……!?」


 拠点にしていた大樹が、半ばからボッキリ折れていたのだ。昨夜、アスターを襲った衝撃の正体に違いない。

 大樹の断面には、爪で引き裂いたような痕があった。根は地面から浮き、大樹は右に傾いている。


「すごい怪しまれてる。この拠点、使い続けるのはヤバイかな……」


 拠点の作り直しを考えるが、すぐに取りやめた。いたずらにリスクを増やすより、この拠点で粘った方が確実だろう。


 アスターはパラバイの蔓で朝食を済ませた後、昨夜の襲撃について考えた。


 この森に化け物がいるのは確実だ。そいつより強く、少なくとも生き残れるくらい強くならなきゃならない。


 魔物を倒す、敵から逃げる、どちらを重視するにせよ、アスターは修行をし、強くならなければいけなかった。

 武器はミスリルナイフを遠慮なく使うつもりだが、それも自分があってのものだ。


「まずは魔纏装まてんそうと魔法陣を使いこなせるようになるか」


 即決したアスターは、まず自分の腕に魔力を纏わせた。不可視のエネルギーを均等になるまで伸ばすと、やがて魔力の動きが安定した。


「うん。魔纏装は屋敷で練習してたから大丈夫だな」


 アスターは魔纏装状態でミスリルナイフを握った。同時に、ミスリルナイフの方にも魔力を覆わせていく。


 その状態で倒れた大木の樹皮を切り取ると、恐ろしいほど軽く鋭く樹皮が剥がれていった。


 身体能力の向上と武器性能の強化。これが魔纏装の効果だ。

 そして、魔纏装状態で出来ることがもう一つある。


「……人生初の魔法陣作り、か」


 それが魔法陣の作成だ。アスターは初級魔法の描き方ぐらいしか知らないが、それでもかなり助かることには違いない。


 脇に抱えられるくらい大きな樹皮と睨めっこした後、アスターはナイフの切っ先を慎重に添えた。


 魔法陣作成には、魔纏装を維持しながら模様を描かなければならない。しかも、同濃度の魔力を込め続けながら、正確な線を刻まないと、途中で魔法が暴走する恐れがある。


 たいてい、魔法陣から弾かれるだけで終わるが、それでも危険だ。


 いろいろ考えた後、アスターはウォーターの魔法陣を描くことにした。初級魔法の陣で、攻撃魔法でもないウォーターなら、たとえ暴発しても死ぬ確率は低い。


 ――スッ、と切っ先を動かす。ウォーターの魔法陣は、円の内側に波打つ水紋(すいもん)を刻み、さらにその中に等間隔に三重の円を描けば完成である。


「…………っ」


(これ、凄い集中力が必要だ…………! 簡単にできるなんて思った自分が恥ずかしいぜ……)


 円と波線を描くのは直線より難しい。

 樹皮に軌跡を刻み始めてから、半円が完成したところで切っ先が弾かれてしまう。


「まーじか…………こんなに出来ないもんなのか?」


 ふうと息をついてから汗を拭う。

 まさか全工程の1/5も進まないとは思わなかった。このサバイバル環境下では、心がくじけそうになる結果だ。

 それでもアスターはもう一度掘り始めた。


(諦めねえ。俺は絶対に生きるのを諦めないぞ……! 絶対に水を手に入れて、そしたら次はファイアで火種を確保する! そしたら……)


 食料に寝床、水、そして火。生き延びるための必需品が揃った時、アスターの次の計画が動き出す。


(魔物を狩る!)


 アスターが次の目標に定めたのは食料――それも魔物の肉だった。

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