幸せを感じるために重要な才能とは
まする555号
鈍感力
幸せを感じるには鈍感力という才能が必用なのではないでしょうか。
同じ行動をしているのに、幸せそうにしている人と、嫌々している人の2種類に分かれる場合をよく見かけると思います。
前者を幸せを感じるための鈍感力がある人、後者を幸せを感じるための鈍感力がない人と考えたら良いと僕は思っています。
ジョギングを楽しいと感じれる人は、体が疲れるという苦しみを感じない鈍感力が必要なのではないでしょうか。
他人の握ったおにぎりを食べて美味しく感じれる人は、他人は不潔かもしれないと思わない鈍感力が必要なのではないでしょうか。
知人の幸せには共感して幸せを感じれる人は、嫉妬を感じない鈍感力が必要なのではないでしょうか。
公衆の面前のバカップルな行為で愛情を感じれる人は、周囲の目線を感じない鈍感力が必要なのではないでしょうか。
ファミレスでステーキを食べて居る時に、殺された牛の痛みを想像したり、育てるのに必要な穀物の量を想像したり、カロリーの多さに太る事を想像したり、もっと高級なステーキ肉の事を想像したり、ボッチで食事をしている寂しさを想像したり、隣の客のステーキに方が大きそうだと想像したら美味しさは低下します。
何も考えず鈍感に、ステーキうめーとだけ思える人が最も幸せにステーキを食べる才能を持った人なんじゃないかと思います。
幸せや不幸は気分の上下の幅によって感じるものだと思います。
生活の中で上下は同時に発生しています。幸せを掴むにはお金や時間や労力などが必要だからです。365歩のマーチという歌で、しあわせは歩いて来ないから歩けと言っています。歩く時間(=金(タイムイズマネー))と労力をかけろと言っている訳です。
でもせっかく幸せが訪れてくれたのに、浪費したお金や時間や労力というものを考えてしまったら幸せは減ってしまわないでしょうか。
考えない鈍感力がある人が、最も幸せを感じられるのではないでしょうか。
人はネガティブな事を考えるように出来ています。ネガティブに考える事は、危険察知能力が高いことを意味するからです。
苦難な環境ではネガティブな人ほど生き延びて来ました。
でも人にどこか必ずネガティブを認識出来ない部分があると思っています。根拠も無いのに、自分だけは大丈夫と考えてしまう部分が必ず何処かにあるのでは無いでしょうか。それは全てがネガティブだと、新たな開拓をしなくなってしまい、生き物として停滞を発生させてしまうからではないかと考えて居ます。
ネガティブに感じない部分とは鈍感力が高い部分です。そこを伸ばす事で得られそうな幸せに心当たりありませんか?
ちなみに伸ばし過ぎると依存症になるのでご注意を。ギャンブル依存症、アルコール依存症、スピード狂、万引き依存症、下着泥棒、露出狂、放火魔。
周囲が理解できない事に幸せを感じる人の末路だと思います。
幸せを感じるために重要な才能とは まする555号 @masuru555
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