6(完)
それからしばらくして、私が書いた小説が出版された。
タイトルは【シリウス】。
物語は、両親を亡くして孤独な少女の元に星の精が現れるところから始まる。彼は暗かった日々を明るく照らしてくれ、少女はだんだんと彼に心を開いていく。ここまでは私とシリウスが歩んできた道のりと同じだけれど、その後の物語の展開は現実とは違っている。少女は彼のことを傷つけたりしないし、彼は少女のそばから離れていったりしない。二人はずっと仲良く暮らすのだ。
本屋の棚に平積みされたその表紙を、私は一人見つめていた。
これは私からシリウスに宛てた手紙だった。彼のためだけに書いた物語だった。
このタイトルにしたのは、どこかでシリウスがこの本を見かけた時に手に取ってくれないだろうかと思ったからだ。読んで、私の思いを知って欲しかった。ずっとそばにいてくれた感謝を伝えたかった。
そっと、表紙に金のインクで印刷されたシリウスの四文字を指でなぞる。
そうして私は本屋を後にすると、家までの道を歩いて帰った。冬の夜は日が落ちるのが早く、外はすっかり暗くなっている。吐き出す息は白い。手袋を持ってくれば良かったな、とかじかんだ手をすり合わせながら私はぼんやりと夜空を見上げた。
今私が住んでいる街は都会の方なので、夜でもビルの明かりやネオンが眩しく星はあまり見えない。それでもシリウスは夜空に輝きその姿を見せていた。何度も調べて見上げていたせいで、すっかり場所を覚えてしまったのだ。今では夜空を見上げれば真っ先にその輝きを見つけることができる。
「シリウス」
そっと、その名を呟いてみる。もちろん応えは返ってこない。
悲しくなって目を伏せる。すると、足元を明るく照らしていた月光に大きな影がかかった。そう、まるで、鳥のような。
私はばっと勢いよく顔を上げた。
暗い夜空に映える白い翼。月光に照らされたその姿は、見覚えのあるものだった。
星のような輝きを持つ金の瞳と目が合う。
「シリウス!」
そう叫ぶと、彼はその目を細めてにんまりと笑った。けれどもそのまま地に降りてくることはなくどこかに飛び去っていく。
小さくなっていくその姿が病室の窓から飛び去った姿と重なって、寂しさが胸をよぎる。
本当は、少しだけ期待していた。シリウスが再び私の元に戻って来てくれるんじゃないかって。けれども仕方がない、私に彼を引き止める資格はない。
私は再びのろのろと歩き始めた。
家にたどり着くと、ドアの鍵穴に鍵を差し込む。ドアノブを掴んで引くと、開いたドアの隙間から漏れ出た照明が足元を照らした。
「あれ、どうして」
まさか、電気をつけっぱなしにして出かけてしまっただろうか。慌ててドアを開けて家に入る。そして部屋の中の光景を見て息を呑んだ。
そこにはシリウスがいた。記憶の中にある姿と同じ姿勢で、部屋の隅で椅子に座って本を読んでいる。どう声をかけていいかわからず立ち尽くしていると、部屋に入ってきた私に気づいたのか本から顔を上げた。
「おかえり」
その金の瞳と目が合う。
先ほど月光に照らされていた神秘的な姿が、家の照明の下ではとても身近なものに見えた。
ああ、星だ、と強く思った。
夜空に数多輝く星ではない。これは私だけの星だ。
「シリウス……?」
「ああ、君だけのシリウスだぞ」
いつまで経っても動かない私に痺れを切らしたのか、シリウスは椅子から降りて距離を詰めてきた。そうして私の顔を覗き込む。
「これ、読んだよ」
掲げられたその手には、出版したばかりの小説【シリウス】があった。それを認識した途端、ばっと顔に熱が集まるのがわかる。彼に読んでほしいと願っていたはずだったのに、いざ目の前に出されると羞恥でいっぱいだった。だって、この本は私のシリウスに対する心を曝け出したものだったから。
「ど、どうだった……?」
「面白かったよ。あかりから見たら俺ってこんな感じなんだな」
「それは言わないで」
「どうして? 嬉しかったのに」
「本当?」
「本当だよ」
そう言いながら笑ったシリウスに、私もようやく笑みを浮かべることができた。
「それ以上に、あかりが書いた小説を読めることが嬉しかった。昔読んだ小説を思い出したよ。やっぱり、君には才能があるな」
「ありがとう。でも、もう小説家はやめるんだ」
そんな私の言葉に、シリウスは驚いたように目を見開いた。
「私には向いてなかった。一度、原点に戻って考えてみたんだ。どうして、私が小説を書き始めたのか。そして思い出した。……全部、シリウスのためだったんだ。だからもう小説家はやめる。これからは、シリウスのためだけに小説を書くよ」
その金の瞳を真っ直ぐに見つめて言う。
「だから、また読んでくれる?」
ばくばくと鼓動がうるさい。シリウスが一体なんと返すのか、気になって仕方なかった。
シリウスはしばらく黙り込んだ後、ふっと表情を和らげた。
「俺の秘密を教えてやろう」
「う、うん」
脈絡のない言葉に目を丸くする私に、シリウスは続ける。
「本当は、あかりに小説家にならないでほしかった」
「え?」
予想外の言葉に驚く。開け放たれた窓から私たちの間に風が吹き、シリウスの顔はふわりと浮かんだ髪に隠れて伺い見ることができなかった。だから、私は彼がどんな表情をしているのかわからない。ただ、泣いていなければいいなと思った。彼の涙を見るのなんて、あの病室での一度だけで良い。
「あかりが小説を書き始めたのって、家にあった小説に興味を持って居座っていた俺を引き止めるためだろ。それが愛おしくて仕方なかった」
「し、知ってたの」
「気づくさ、ずっとそばにいたからな」
羞恥に頬が染まる。それは彼のために小説を書いたという動機が知られていることではなく、今の今まであの幼い執着心を隠しきれていると思っていたことへの恥ずかしさだった。
「俺のためだけに書かれる小説が愛おしかったんだ。でもあかりが小説家になったら、君が書いた小説は俺だけのものじゃなくなるだろ。それが嫌だった。でも、あかりの夢を邪魔したくなかったから、応援することにしたんだ」
その口から紡がれる言葉は私の知らない事実ばかりで、私の頭の中は混乱していた。けれども、シリウスは止まることなく話し続ける。
「でも、俺のせいであかりの世界が壊れていった。それは想定外だった。涙を止めたくて語り始めた昔話が、余計にあかりを泣かせてる。どうすればいいのかわからなかった。毎日ずっと机に向かって書き続けるあかりの背中をずっと見守ることしかできなかった。そして、あかりが倒れてしまった時に、思ったんだ。俺がそばにいない方がお互いのためだって」
「そんなことない!」
咄嗟に叫んだ私に、シリウスは笑うだけで答えない。
私はその手を力強く握りしめた。そうしないと、またシリウスがどこかに飛び去ってしまうのではないかという疑念が頭をよぎったからだ。また私の傍に来てくれたこの手を離したくなかった。もう二度と、一人になんてなりたくない。
「そんなことないよ。シリウスがそばにいてくれるのなら、他に何もいらないの。だから、お願い、行かないで……」
嗚咽混じりに絞り出されたその声はひどく震えていた。
私の冷えた指先を、シリウスがそっと握る。
「行かないよ」
「嘘。だって、この手を離したらまたどこかに飛び去っちゃうでしょ」
「行かないよ、約束する。それで、今日は渡したいものがあるんだ」
そう言って、シリウスは私の指先を握る手とは反対の手で服のポケットから何かを取り出した。はい、と手渡されたそれを受け取る。それは真っ白な封筒だった。表には綺麗な字で私の名前が書かれている。
「シリウス、字綺麗だね」
思わずそう漏らすと、シリウスは「今そこかよ」と苦笑した。
「いいから早く中見てくれ」
そう急かされて、私は恐る恐る封筒を開ける。中には便箋が一枚入っていた。それを取り出して開くと、中にはこれまた綺麗な文字で一言だけ。
【俺も君のそばにいたい】
びっくりして顔を上げると、シリウスは手に持った小説を掲げ、にんまりと悪戯っ子のような笑みを浮かべて言った。
「これ、俺に宛てた手紙だろ? だから返事を書かないとなって思って」
便箋を持つ指が震えて、手から離れた便箋がひらひらと床に落ちる。けれども私はシリウスから目を離すことができなかった。
そんな私の頭を、シリウスはそうっと撫でた。相変わらず優しいその手つきに、瞳から涙がこぼれ落ちる。
「俺だけのものでいてくれ、──星(あかり)」
「私はずっと、あなただけの小説家だよ。だからあなたも、私だけの星でいて」
シリウス。夜空で一等輝く星。パパとママの魂が眠る夜空から降ってきてくれた、私だけの星。
あなたがそばにいてくれるのなら、他に何もいらないの。本当よ。今度こそ、間違えない。
私たちは二人でいれば、どんな夜だって乗り越えられる。
輝く星ごとシリウスを抱きしめて、私は幸せだと笑った。
私だけの星でいてくれ 祈 @inori0906
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます