吉田さんが帰って家で一人になってからも、私はぼんやりとそのことを考えていた。

 来客用に出した座布団を直そうと押し入れを開ける。すると中に入れられていた段ボールに手が当たり、その衝撃でばさり、と段ボールの上に乗っていたものが崩れ落ちてきた。


「あっ!」


 やってしまった。

 深くため息を吐き、しゃがみこんで足元に散らばったものを一つ拾い上げる。

 それはどうやら原稿用紙のようだった。一度ぐしゃぐしゃに丸められた後丁寧にのばされたのだろう、全体的に細かな皺が寄っている。それに書かれた内容を、私は見たことがあった。当たり前だ、だってこれは、私が。


「どうして」


 そんな言葉が口から漏れた。

 それは確かに、私が書いた小説だった。けれどもこれは捨てたはずだ。書き出してみたもののすぐに行き詰まり、衝動のままに原稿用紙を丸めて床に投げ捨て、無力感に項垂れた。おかしくなっていた頃の名残。

 他に床に散らばった原稿用紙を一枚一枚拾っていく。その全てが、私が丸めて捨てたはずのものだった。私がその後どうしたかは覚えていないから、シリウスがそれを拾い上げて保管していたのだろう。丸められたそれを一枚一枚丁寧に広げて、皺を伸ばして、まるで大切なもののように押し入れに仕舞い込んで。そうしているシリウスの姿を思い浮かべてみるけれど、うまく想像することはできなかった。いったい彼は、どんな顔をしてその作業を行っていたのだろう。

 まだあるのだろうかと押し入れの中を探す。すると、可愛らしいキャラクターが書かれたクリアファイルが出てきた。私が小学生の頃に使っていたものだ。中に大量の原稿用紙が挟まれて膨らんでいる。

 そうっと、クリアファイルに挟まれた原稿用紙を取り出す。原稿用紙は使われてから長い年月が経っているのだろう、黄ばんで所々の字が掠れていた。それでも、そこに書かれた丸っこい文字には見覚えがあった。


「これ……」


 それは、私が国語の授業で初めて書いた小説だった。シリウスを家に引き止めたいと思って書いたもの。紛れもなく、シリウスのためだけに書いたものだ。

 私は押し入れの襖を閉めると、ふらふらとベッドの上に座って壁にもたれかかった。この原稿用紙を読むのはなかなかに勇気のいることだった。

 一つ深く息を吐いて、震える手で一番上のページを捲る。

 覚えている。鉛筆を握って、一文字一文字に思いを込めて丁寧に書いた。それでも物語の設定は破綻しているし、キャラクターの言動は支離滅裂だし、誤字脱字だってひどい。私が小説家として書いてきた小説とは比べ物にもならない、ひどいものだった。当時シリウスはよくこれを読んで褒めてくれたものだ。

 けれども、私が今までに書いてきた小説の中で一番、思いがこもっているものだった。小学生の私が書いた丸っこい文字が愛おしくて、そうっと指の腹で撫でる。瞼を閉じるとあの頃を思い出す。孤独に枕を濡らし、両親を思い出して星空を見上げていた。すると空から星が降ってきた。その輝きを逃したくはなかった。

 毛布の上からそうっと優しく撫でてくれる手。小説のページを捲る細い指先。孤独な夜に寄り添ってくれる穏やかな声。微睡の中で私を導いてくれる星の瞳。それさえあれば、他に何もいらなかった。

 他に何もいらなかった、はずだったのに。

 気がつけば、私は瞳からぼたぼたと涙をこぼしていた。それは原稿用紙の上に落ち、まだらに染みを作っていく。鉛筆で書かれた文字が落ちた涙に滲んで溶けていく。私はそれを拭うことも忘れて、必死に原稿用紙に書かれた文章を目で追っていた。

 いつの間にか見失っていたものが、ここにはあった。それはキラキラと輝いて、私の目の前を明るく照らす。まるで夜空で一等輝くシリウスのように。


 シリウスのためだけに小説を書きたいと思った。


 孤独な夜にそばにいてくれた、彼のためだけに。


 私は涙を拭うと立ち上がった。財布を引っ掴み、上着も羽織らずに家の外に飛び出す。冷たい風が容赦なく私の肌を打ち、乾いた涙の跡が冷たくなってその存在を思い出させた。けれどもそんなことも気にせず、私は一目散に目的の店へと向かう。

 そうして入った文房具店で、私は棚に置かれた原稿用紙の入ったビニールを掴み、脇目も降らずにレジに向かった。きっと私の顔はひどいことになっているのだろう、店員はギョッとした顔をしたものの、原稿用紙をレジに通し「百十円です」とだけ言った。私は財布から小銭を取り出しトレーに置くと、「レシートはいいです」と言い捨てて店を飛び出した。

 原稿用紙を抱きしめ、早足で家路を歩く。歩く速度ははやる心に急かされるようにしてだんだんと早くなっていき、ついには駆け出していた。ハッハッと細かに吐き出される息は白い。私の背を押すようにして吹いた追い風が髪を弄ぶ。これほど寒いのに、体の芯はひどく暖かかった。額からつうと汗が流れ落ちる。

 飛び込むようにして家に入ると、私はそのまま机の前に座った。原稿用紙が入っていたビニールを破り、床に投げ捨てる。それほど粗雑な動きだと言うのに、机の上に原稿用紙を広げる手つきだけは丁寧だった。

 そうして私は、鉛筆を握ると再び小説を書き始めた。



 一ヶ月後、私はカフェで吉田さんと向かい合っていた。

 私が書き上げた小説を一ページずつめくりながら真剣な眼差しで読んでいる吉田さんの顔をそっと窺い見る。自分が一から考えた小説を書くのはとても久しぶりで、私はとても緊張していた。そわそわと体が動いてしまい、気持ちを落ち着かせるためにコーヒーを二杯もおかわりしている。

 三杯目のコーヒーを飲み干した頃に、吉田さんがゆっくりと原稿用紙の束から顔を上げた。

 そして一言。


「私、この小説とても好きです」

「ほ、本当ですか」


 思わず前のめりになってしまった私に吉田さんは苦笑して、「もちろん直すところはたくさんありますが」と付け加えた。


「面白かったです」

「ありがとうございます!」


 無意識のうちに緊張していたのだろう、体から力が抜けて私は椅子の背もたれにもたれかかった。ほう、と安堵の息を吐く。


「お疲れ様です」


 そんな私に、吉田さんはそう言って店員さんにコーヒーのおかわりを頼んでくれた。四杯目のコーヒーはすぐに届けられる。


「惜しいですね」


 四杯目のコーヒーを飲んでいるとそんなことを言われて、私は吉田さんを見た。


「これで辞めてしまうなんて」

「すみません、わがまま言って」


 深く頭を下げる。


「いえ。先生が決めたことですので」


 そう、私は結局小説家をやめることにした。

 シリウスのために小説を書き始めた。けれども小説家になり有名になっていく中で、自分がなんのために小説を書いているのかをいつの間にか見失っていた。シリウスが私のそばから飛び去ってしまい一人ぼっちに戻ったことで、昔の気持ちを思い出したのだ。

 そうして私が書き上げた小説は、まさしくシリウスのためだけに書いたものだった。


「この小説が出版されたら、シリウスさんもどこかで読んでくれたら良いですね」


 その言葉に、私は思わず泣き出しそうになりながら、「はい」と頷いた。

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