翌日、退院した私は一人で家に戻ってきていた。

 玄関ドアに鍵を差し込み、開く。


「……ただいま」


 応えは返ってこなかった。当然だ。それでも、少しだけ期待していた。部屋の中から、あの穏やかな声が聞こえてくるのを。シリウスが笑顔で「おかえり」と迎えてくれるのを。

 玄関で靴を脱ぎ、部屋に入る。パチリと電気をつけると、部屋の中が明るく照らされた。

 ここ数年の記憶は曖昧であまり覚えていないけれど、堕落した生活を送っていた自覚はあるのでゴミ屋敷のような部屋を想像していた。しかし想像に反して部屋の中はそれほど汚くはなかった。ゴミは袋にまとめられているし、ベランダを見ると洗濯した服がきちんと物干し竿に干されているし、食器カゴには洗われた食器が綺麗に並べられている。必要なものは通販で買っていたのだろう、分解された段ボールが押し入れに何枚もあった。

 ゴミの分別も洗濯も掃除も食器洗いも、どれも自分でした覚えがない。ということは、他に該当する人物は一人しかいなかった。

 シリウスは日中に外に出るのを嫌っていたから、夜中にこっそりゴミ捨てに行っていたのだろうか。洗濯機はうまく使えたのだろうか。ものを食べなくても生きられると言っていたのに、私のために食器を使ったのだろうか。携帯電話に驚くような世間知らずだったのに、どうやって通販でものを買うことができるようになったのだろうか。

 どれも想像の域を過ぎない。ずっと一緒に住んでいたはずなのに、そばにいてほしいと最初に願ったのは自分であるはずなのに、何も知らない。シリウスが家で何をしていたのか、何も見ていないのだ。見捨てられて当然だった。毎日おかしくなりながらも机に向かってひたすらに筆を走らせる私の背中を見て、シリウスは何を思っていたのだろうか。私がそれを知ることはもうない。

 ぽたぽたと瞳から涙がこぼれ落ちていった。昨日の夜には流れなかった涙だ。私は誰もいない部屋を見て、ようやくもうシリウスはいないのだということを実感したのだった。

 ひとしきり泣いた後、私はお腹が空いたのでお昼ご飯を買いに外に出かけることにした。冷蔵庫の中にはシリウスが通販で買ったのであろう食材が入っていたが、一週間放置されたそれらは食べられそうになかった。

 今の家に引っ越してきてからだいぶ経つが近所のスーパーに行ったことはなかったため、携帯電話で地図を確認しながら歩く。

 不健康な食生活をしていた私の胃はすっかり小さくなってしまったらしい。医師がまずは消化に良いものから食べてくださいねと言っていたことを思い出して、ゼリー飲料をいくつか買い物かごに入れた。レジに向かうと列ができていたので最後尾に並ぶ。

 自分の順番が来るのを待っていると、ふと壁に貼られたポスターが目に飛び込んできた。


【レジスタッフ募集】


 私はレジの列を離れ、そのポスターに近づくとそこに書かれた文章を一文字残さず目で追った。そして、近くを通った店員に声をかけ、あれよあれよと言う間に面接を受け合格し来週から働くことになった。

 そうして、私はスーパーのレジでアルバイトを始めた。毎日決まった時間に起きてご飯を食べ、スーパーに出勤して働き、帰ってきてご飯を食べて眠る、その繰り返し。そんな生活をしているといつしか目の下の隈は消えた。

 安定した精神と安定した生活を手に入れると、気になったのはシリウスのことだった。彼は今どこで何をしているだろう。今夜も、月光を背負い星々に照らされながらどこかの空を飛んでいるのだろうか。

 けれども、会いたいだなんて言えるはずがなかった。最後に見たシリウスの顔を思い出す。いつだって笑っているようなシリウスが涙を流していた。それほど彼を傷つけたのは、間違いなく私だった。

 ベッドの中に潜って、膝を抱えて丸くなる。寄り添ってくれるぬくもりも、私を眠りに誘う穏やかな声ももうない。限りなく孤独だった。けれどもそれを選んだのは私だ。

 そして静かな夜は、思考を延々とめぐらせてしまう。

 私はどこで間違えてしまったのだろう。パパとママが死んでしまって、ずっと孤独だった。寂しかった、誰かにそばにいて欲しかった。そんな時に天から星が降ってきたものだから、私はそれをどうしても手放したくはなかった。そしてシリウスとずっと一緒にいるために小説を書き始めたのだ。


 ──シリウスがそばにいてくれるのなら、他に何もいらないよ。


 それは本心だったはずなのに。 




 その来訪者は突然やってきた。


「こんにちは、先生」


 吉田さん。小説家の私の担当編集者だった人だ。


「こんにちは」


 私はなんと言えば良いのかわからなくて、咄嗟に挨拶を返した。そんな私に彼女は笑顔を崩さず、「中に入っても?」と言う。私はそれに頷いて慌てて押し入れから座布団を出してきた。

 そうして吉田さんを部屋に通すと、私は机の前に座布団を敷き座るように勧めた。そして自分も吉田さんの正面に座るけれど、目の前の彼女の顔を真っ直ぐに見ることができなくて視線を彷徨わせた。

 まさか家に来るとは思わなかった。

 けれども考えてみれば当然だ。

 私は退院してすぐ、吉田さんに『小説家を辞めます。今までお世話になりました』というメールを送っていた。きっと彼女に迷惑をかけただろう。


「……突然辞めるなんて言ってすみません」

「はい、驚きましたよ。どうして辞めたいのか、理由を伺っても?」

「もう、書けなくなりました」

「スランプは誰にでもあります。私もできる限りサポートしますよ、一緒に乗り越えていきましょう」

「そういう問題じゃないんです。私はもう書けない」


 その語気は思いの外強いものになってしまった。けれども吉田さんは調子を変えることなく、ただ真っ直ぐに私を見つめる。


「どうしてそう言い切れるんですか?」


 その質問に、私は視線を彷徨わせた。吉田さんにシリウスのことを言ったことはない。けれども他に良い言い訳が浮かばなかった。

 何より、誰かに聞いて欲しかった。私だけの星だった、彼のことを。

 覚悟を決めて、真っ直ぐに彼女を見据える。


「本当は、小説の元を考えていたのは私ではないんです。信じてもらえないかもしれないけれど、私には人ではない同居人がいて。彼──シリウスはとてつもなく長寿で、たくさんの世界を見てきました。私はシリウスが寝物語に語ってくれる昔話からインスピレーションを得て、その世界を広げて書いていたに過ぎないんです」


 この時点で一笑に伏されるかと思っていたが、予想に反して吉田さんは真剣な顔で私の言葉を聞いてくれていた。


「そのシリウスさんはどこに?」

「もういなくなっちゃいました。今どこにいるかはわかりません」


 だからもう書けないです、ともう一度言うと、吉田さんは何かを考え込むように口元に手を当てた。それきり黙り込んだ吉田さんを私はただ見つめる。

 どれほどそうしていただろうか。やがて、吉田さんがゆっくりと口を開いた。


「……私は、先生の書く文章が好きです。先生の小説は世界観や設定が評価されがちですが、先生の書く文章は読者の心をその世界にするりと入り込ませる力を持っている。それは間違いなくあなたの力です。今までに書かれた小説があなたの世界ではないと言うのなら、私はあなたの文章で書かれたあなたの世界が見てみたい」


 そんなことを面と向かって言われたのは初めてで、まるで電流が走るような衝撃が私を襲った。なにしろいつだって褒められるのは小説の内容のことばかりで、その賞賛は私が受け取るべきではないものだと思い避けてきたものだから、私は褒められることには慣れていない。私は何も言えずに黙ってしまうと、吉田さんは「だから、ずっと待ってます」と続ける。


「いつでも良いです。いつか、先生の生み出した世界を私に読ませてください」

「ありがとうございます」


 それは心からの言葉だった。

 自分でも驚くほど嬉しかった。もう小説は書けないだろうと思っていたのに、いつか書けるかもしれないという気持ちが湧いてくる。


 ──でも。


 もし私がまた小説を書くことができて、それを読んでもらうなら、その相手はやっぱりシリウスがいい。

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