私が書いた小説はあっという間に人気になり、本屋にたくさん並べられた。いくつかの賞を取り、あれよあれよという間にベストセラーとなり、映画化も決定した。全てがあっという間に過ぎていき、全て他人事のような不思議な感覚だった。窓の外を流れる景色を電車の中からぼんやりと眺めているような、そんな気分だった。


「あかりには才能があるって言っただろ?」


 現実が飲み込めずにいる私に、シリウスは自慢げに胸を張った。

 まとまったお金を手にした私は、叔母さんと暮らしていたあの家から出て一人暮らしを始めた。……いや、正確には二人暮らしだ。シリウスは変わらず私のそばにいてくれる。

 デビュー作がヒットすると、当然私は二作目を期待された。大ヒットした一作目を超えるような傑作を。そんな幻聴が聞こえるようになり、眠れなくなった。考えれば考えるほど私は泥沼にはまり、何も書けなくなる。


「シリウス、また聞かせて、昔話」

「もちろん」


 そうしてシリウスが穏やかな声で語り聞かせてくれるその昔話はやはり私に多大なインスピレーションを与えた。私は無事二作目を書き上げ、その小説はまた大ヒットした。

 三作目も、四作目も、私はそうやって書き上げていった。シリウスの昔話を聞きインスピレーションを得て、それを元に小説を書いていく。そのどれもがヒットし、私は一躍人気作家の仲間入りを果たした。

 最初は嬉しかった。自分の書く小説が世界から認められていくのが。

 けれどもそのうち不安になっていった。評価されているのは、私が書く小説ではなくその元となったシリウスの昔話なのではないか?

 私はその世界を生み出したわけじゃない。シリウスが語る話を、シリウスが見てきた世界を、私が広げただけ。

 私は躍起になって自分だけの小説を書こうとした。シリウスの昔話を元にしたものではなく、一から私が考えた、自分が創り上げた世界の話を。シリウスの語る昔話を聞きたくなくて彼を遠ざけた。自分が生み出した世界で評価されたかった。

 けれども書けなかった。いくら原稿用紙を見つめていても、頭の中の世界は膨らまない。

 もうだめだ。

 私はやっぱり、小説家には向いてなかったんだ。

 けれども世界は小説家の私を求めた。もうやめたかったけれど、やめたところで他に私にできることはない。その時私は二十四歳になっていた。高校を卒業してから六年、ずっと小説を書くことしかしてこなかった私がもし小説家をやめたとして、今更他の何者にもなれない。

 私はただ書き続けた。


「話して、シリウス」


 毎晩彼にねだるようになった。そうするとシリウスは心配そうに私の顔を覗き込んで、「今日はもう寝な」と幼子に言い聞かせるような優しい声で言う。


「ダメだよ、私は小説を書かないといけないんだ。そのためにシリウスの話を聞かせて」

「あかり……」

「聞かせて!」


 そう言って強請ると、シリウスは渋々と言った様子で昔話を語り出す。それを聞くと、私の真っ黒に塗りつぶされた心の奥は少しだけ色づいていく。その彩りを私は見逃さない。ノートに必死に文字を綴り、なんとか小説の枠組みを完成させる。そうして書いた小説はまた評価され、私は褒めそやされる。美しい世界観、突飛な設定、幻想的な雰囲気、その全てが素晴らしい。天才だなんて呼ばれるたびに死にたくなった。

 違うのに。

 違うのに。

 違うのに!

 この世界は、私の生み出したものではないのに!

 でも誰にも言うことができなかった。だって誰が信じる? シリウスの存在は私以外知らないのに。

 書いた小説が売れても、賞を受賞しても、ファンレターをもらっても、何も感じない。嬉しくなんてない、どんどん虚しさが積もっていくだけ。

 私はただ書き続ける。

 そのうち、シリウスの語る昔話を聞いても何も思い浮かばなくなってしまった。

 それに気づいた時、私は自分でも驚くほど冷静だった。今までだったらきっと、焦って叫んで喉を掻きむしって、自分に絶望していたのに。私の心は絶望すらできないほど擦り切れてしまっていた。なんの感情も浮かばないほど真っ黒に塗りつぶされてしまった。

 シリウスの穏やかな声を聞いても、もう眠ることはできなかった。私の心は救われない。ただただ、暗闇に沈んでいくだけ。

 けれども締め切りはやってくる。

 私は、シリウスが語る昔話をそのまま書いた。そしてそれを雑誌に連載した。


「先生、今回の話今まででも一番評判がいいですよ」


 嬉々とした声で編集者さんにそう言われても私は乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。

 ほらやっぱり、私なんていらない。




 シリウスから昔話を聞いて、それをそのまま文字に起こして、小説にして。その繰り返し。

 シリウスは昔話を語るのを嫌がるようになった。けれども私はそれを許さなかった。時には怒り、時には泣いて、彼に語るように迫った。


「話して、ねえ、お願い……」


 シリウスが私の涙にめっぽう弱いことを利用した。

 そんな生活が何年続いただろう。

 ある日突然私は倒れた。いや、その兆候はあったのだろう。たまに会う編集者さんも、いつもそばにいるシリウスも、口を揃えて私の健康を気にしていたから。けれども私はそれを無視した。睡眠も飲食も疎かにして、まさに命を削って小説を書いていた。その結果、私は意識を失い、目を覚ませば病院にいた。

 同居人を名乗る人物が救急車を呼んでくれたが、救急隊員が私の家に着くとそこに同居人の姿はなかったらしい。どこに行ったかわかりますかと聞かれて、私は力なく首を横に振ることしかできなかった。きっともう、私に呆れてどこかに飛び去ってしまったのだろう。


「仕事に熱中するのはわかりますが、きちんとした生活を心がけてください」

「はい」


 担当の医師にそう言われ、力なく頷く。

 原稿用紙も筆記用具もない入院生活では他にすることがなくて、私は一日中ぼんやりと天井を眺めていた。何より、シリウスが私のそばからいなくなった今、私はもう小説を書くことができない。そう思った時、まず浮かんだのは絶望ではなく安堵だった。もっと詳しく言うなら、ようやく解放された、というような心境だ。朝起きて、ご飯を食べて、夜寝る。そんな規則正しい入院生活の中で、おかしくなっていた私の精神はゆっくりと正常になっていった。

 私が入院してから一週間が経ち、退院を翌日に控えた夜。私はぼうっと窓の外の夜空を見上げていた。幼い頃は毎晩星を見ていたのに、大人になった今となってはもう随分と久々のように感じられる。きっと今夜も私を見守ってくれているパパとママは、こんな風になってしまった娘のことをどう思っているのだろう。

 初めて出会った日と同じように、シリウスは翼を羽ばたかせて真夜中に窓の外に現れた。

 あの時と違うのは、その金の瞳が怒りで苛烈に煌めいていることだ。すっかり長い付き合いになった私たちだけれど、シリウスのそんな顔を見るのは初めてだった。


「あかり」


 私の名前を呼ぶその声は今までに聞いたことがないほど低く、返事ができない。心なしか病室内の空気が重くなった気がした。

 病室内に降り立ったシリウスが、一歩、また一歩と私が座るベッドに近づいてくる。張り詰めた空気に耐えられなくて何か言おうと口を開き、けれど何も言えず口を閉じた。シリウスが今にも泣き出しそうだと気づいてしまったから。私の記憶の中のシリウスはいつだって笑っていて、涙を流している姿なんて見たことがなかった。


「なあ、俺は、君を追い詰めるために昔話を語っていたわけじゃないぞ」


 彼の激情に反応した翼が部割と広がり、病室内に風を巻き起こす。花が生けられた花瓶が棚から落ち、ぱりんと音を立てて割れた。

 思えば、シリウスの星の瞳を真っ直ぐに見つめたのは、もう随分と久しぶりのことのような気がした。シリウスの口から昔話以外の言葉を聞くのも。いや、私が聞いていなかっただけで、本当はシリウスはもっとたくさんのことを話していたのかもしれない。けれども私にはそれを聞く余裕はなかった。大事なのは、シリウスが語る昔話だけだったから。

 そんな私を見つめて、シリウスは言った。


「真夜中に孤独に震えて泣く子供のためだったんだ。この子の心を少しでも救えたら、この子が夜を越える手助けが少しでもできたら、そう願ってた」


 あの温かな夜を思い出す。夜空を自由に飛んでいた彼を縛り付けたのも、こんな顔をさせてしまったのも、ここまで苦しませてしまったのも、全て私のせいに他ならなかった。

 そっと、シリウスの細い指先が私の目元を撫でる。そこにはすっかり染み付いて取れなくなってしまった濃い隈があった。シリウスはそれに痛ましそうな顔をした。


「……もう、俺がいても君を苦しめるだけだな」


 その言葉を置いて、シリウスは窓から飛び去っていった。

 その背中を引き止める言葉を私は持たず、ただ遠ざかる背中が見えなくなるまでずっと見つめることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る