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翼を持つシリウスはきっとすぐに私の部屋から飛び去ってしまうと思っていたけれど、その予想に反して、彼は次の日も、その次の日も私の部屋にいた。どうやら本棚に置かれた本にすっかり夢中になり、端から順番に読んでいるらしい。
「いやあ、この翼だからな、堂々と本屋に行ったりできないんだ。道端にまとめて捨てられている本を夜にこっそり拾って読んだりしてた」
「満足するまでここにいていいよ。私も、シリウスがいたら寂しくて泣くことは無くなるかも」
「それはいいな。俺の存在で世界から泣く子供が一人減るのなら、それほど嬉しいことはない」
そうして、シリウスは毎晩私が眠るまで昔話を語って聞かせてくれた。
シリウスの語る昔話はどれも面白かった。人外であるシリウスは私の想像もつかないほど長命で、その長い人生(?)の中で様々な土地を旅してきたらしい。どれほど語ろうとも彼の引き出しが尽きることはなかった。まだたった十年しか生きていない私からは想像もつかない世界の話はとても面白く、逆に眠ってしまうのが勿体無いと思ってしまうほどだ。
もう孤独に震え涙で枕を濡らすような夜は来ない。
「シリウスがそばにいてくれるのなら、他に何もいらないよ」
ベッドの上でまどろみながらそう言うと、彼はそれはそれは嬉しそうに笑った。
シリウスと過ごす日々を手放したくはなかった。けれども、本棚にある本を全て読み終えれば、彼は窓から飛び去ってしまうだろう。
私はどうすればシリウスを引き止められるか考えた。叔母さんからお小遣いをもらっていない私は本屋で本を買い足すこともできないし、図書館は小学生が一人で行ける距離にはない。小学校の図書室に置いてある本は子供向けのものばかりで、シリウスの好みからは外れるだろう。彼は私には難しいパパとママの蔵書を好んで読んでいるのだから。
どれほど考えても良い案は出てこない。私は焦った。早くしないと、シリウスが本棚にある本を全て読み切ってしまうかもしれないから。
そんなある日のことだった。小学校の国語の授業で、小説を書いてみるというものがあった。
「どんなストーリーでもいいのよ。長くても短くてもいい。自分が書きたいものを書いてみて」
先生はそう言って、私たちに原稿用紙を配った。その緑色の枠線を眺めているとふと思いついたのだ。小説を買うのが難しいのなら、私が小説を書けばいいんじゃないかって。
それから国語の授業中も、休み時間も、放課後も、私は小説を書き続けた。家でも書いていたものだから、どうやら私が小説を書いているらしいと気づいたシリウスは内容が気になるらしく何度も後ろから覗き込もうとしてきたけれど、私はそれを必死で阻止した。
そうしていたから小説はクラスで一番長くなってしまって、ようやく書き上がった時には原稿用紙は分厚い束になっていた。それを見て先生は驚いていたけれど、「すごいね」と褒めてくれたからとても嬉しかった。
そして、放課後。私は自分の部屋でシリウスと向き合っていた。
緊張した面持ちで、原稿用紙の束を握りしめる。いざシリウスに読んでもらおうと思うと、途端に汗が吹き出てきた。自分が書いた小説を誰かに読んでもらうのはこんなに勇気がいることなのかと思い知る。
ふとシリウスを見ると、その顔は私の書いた小説への期待でいっぱいだった。その顔を見ると肩の力が抜けていくのがわかる。
「はい」
私はシリウスに原稿用紙の束を渡した。そうして小説を読み始めた彼の横顔をそっと観察する。原稿用紙の上に書かれた文字を目で追っていく姿に緊張して、私は鼓動が早まるのを感じていた。
どれほど時間が経っただろう。最後のページを読み終わったシリウスが原稿用紙を机に置いた。そうして顔を上げる。
「ど、どうだった?」
「すごく面白かった。あかりは才能があるな!」
「えっ、ほんと?」
「本当だよ。きっとたくさん本を読んでるから、物語を作る能力が長けてるんだな」
真っ直ぐな瞳でそう言われると照れてしまう。それと同時に、私が書いた小説をシリウスに気に入ってもらえたという事実が嬉しかった。だって、これで私はシリウスを家に引き止めることができるのだ。
「じゃあ、また書くね。できたらまた読んでもらってもいい?」
「うん、楽しみにしてるな」
それが、私が小説を書くようになるきっかけだった。
私が小説を書き、シリウスに読んでもらう。その間はシリウスがいなくなることはないから、私は必死に小説を書き続けた。
「あかりが書く小説はどれも面白いな」
私が書いた小説を読むたびにシリウスがそう目を輝かせるものだから、私は嬉しくて、いつしか小説を書くこと自体に熱中するようになっていった。頭の中に私が創った世界が溢れ、色づき、鉛筆を通して原稿用紙の上で文字として形になる。
「私、小説家になりたいな」
シリウスを繋ぎ止める手段に過ぎなかったはずなのに、いつしかそれが夢になった。
「絶対なれるぞ、あかりが作る物語はすごく面白いからな」
シリウスにもそう応援されて、私はさらに夢に向かって走るようになった。
しかし現実はそう上手くはいかなかった。コツコツ書き上げた小説を何度文学賞に送っても落選してしまう。私は中学生になり、そして卒業し、高校生になった。その間ずっと小説を書き続けたし、シリウスはずっと私のそばにいてくれた。
けれども、心が挫けてしまうことはある。
その日も新人賞の最終結果発表だった。私は当日は朝からそわそわしており何も手についていなかった。それはシリウスも同じのようで、いつもよりうろうろと動きがうるさい。
授業が終わり、足早に高校から帰宅すると、私はドキドキしながらパソコンを開いた。発表が行われるサイトに入り、画面に表示された文字を目で追う。
そして、そこに自分のペンネームが書かれていないことを確認するとそっとパソコンを閉じた。
「私、小説家に向いてないのかな……」
一度そう思ってしまうともうダメだった。私はスランプに陥り、小説を書けなくなってしまった。あれほど豊かに頭の中に溢れていた世界はすっかり色を失い、もう何も思い浮かばない。
このままじゃだめだと自分を急かす声はいつだって聞こえた。だって、小説を書かなければいつかシリウスは私を置いて飛び去っていってしまう。
そんな私をシリウスは心配そうに見つめていたけれど、書かなくなった私に小説の話題を振ったりはしなかった。ただ、昔のように、ベッドの上で丸くなる私に寄り添ってそっと昔話を語ってくれる。その穏やかな声を聞いていると不安な気持ちは薄れていくし、安心して眠ることができる。幼い頃から何度も私の心を救ってくれた、魔法の声だ。
そんな日々がしばらく続いた、ある日のことだった。
いつものようにベッドの中でシリウスの語る昔話を聞いていると、ふとその昔話からインスピレーションを得た物語が思い浮かんだのだ。
私はベッドから飛び起き、思いついた小説の設定やストーリーをノートにまとめてシリウスに見せてみた。もしこの物語をちゃんと書くなら、シリウスの許可は必要だと思ったからだ。彼にとって大切な過去だと言うことは、昔話を語るその口ぶりや瞳に滲む感情などからよく伝わっていたから。
「ええ、俺の昔話が元だなんて照れるな」
シリウスはノートを読みながら照れたように笑った。この小説を書いて良いかという私の問いには、二つ返事で頷いた。
「俺が経験したことがあかりの役に立つなら嬉しいよ」
許可を得た私は早速小説を書き始めた。私は普段遅筆な方だけれど、今回は主人公がはっきりとイメージできているからかスラスラと筆が進んだ。それはあのスランプが嘘のようだと思えるほどで、私はあっという間に小説を書き上げた。
そうして、それが小説の新人賞を獲った。高校三年生の冬のことだった。
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