私だけの星でいてくれ

 ママが亡くなったとき、パパは「ママはお星様になったんだよ」と言った。ママの魂は地上を離れ空に昇り、美しく輝いて地上の私を照らしてくれているらしい。だから私は夜が好きだった。毎晩、パパと一緒に家の庭から空を見上げて星を見つめた。そうして語りかけるのだ。ママ、今日も私は元気だよって。ママがいない生活は寂しかったけれど、星を見上げている間はその寂しさを忘れられた。

 ママが亡くなった三年後、パパも後を追うように亡くなってしまった。一人ぼっちになった私は遠くに住む叔母さんに引き取られることになり、家族で住んでいた街や通っていた小学校、友達に別れを告げた。この時は流石に寂しさを抑えきれなくて、私は叔母さんの家に引っ越してから毎日泣いて暮らしていた。新しい土地には馴染めないし、転校先の小学校で友達はできないし、私の唯一の家族となった叔母さんも私のパパやママと仲が悪かったらしく私の存在をいないもののように扱う。唯一の救いは、この街は前に私が住んでいた街よりも星がよく見えることだった。残念ながらあまりにも星が多すぎてパパとママの魂がどれかまではわからなかったけれど、星空の下にいる間は安心できる。私は一人じゃないんだって。

 だからその夜も、私は一人、部屋の窓から星を眺めていた。

 この街に来てから、私は眠ることが苦手になっていた。眠ればパパとママの夢を見る。それはとても幸せなことだったけれど、同時にとても恐ろしいことだった。だって、夢から目覚めてしまえば現実の酷さに余計に絶望してしまうから。夢の中で幸せであればあるほど、現実を思い知らされてしまうから。そういう時の夜は苦手だ。幸福な悪夢に飛び起きた夜。窓から差し込む月光も、澄んだ空気も、何もかもが冷たくて、孤独で凍えてしまいそうになる。だから私は眠らずに星空を見上げることが日課になっていた。

 ふと、雲ひとつない夜空に大きな影がかかった。大きな鳥のようなそれは夜の闇に紛れることなく、その真っ白な翼を広げて飛んでいる。月光に照らされるその影に目を奪われていると、ふとその姿が満月の中に入り、全貌が露わになった。

 鳥じゃ、ない。その姿はどう見たって、翼が生えた人だった。

 驚いて目を見開き、思わず窓枠から身を乗り出す。すると、視線に気づいたのかその人がふとこちらを見た。バチッと目が合う。その瞳は、その人が背中に背負うたくさんの星々と同じ金色に輝いていた。

 その美しい瞳から目を離せないでいると、ばさりという翼の音と共にその人が進行方向を変えた。その影はどんどん大きくなっていく。──近づいて、来る?

 私が現実を飲み込めずに微動だにできずにいると、その影が窓枠に降り立った。真っ白な翼が風を巻き起こしカーテンが揺れる。金の瞳が私を捉えた。

 ああ、星だ。きらきらと輝く瞳を見て、私はそう思わずにはいられなかった。

 星が私の元に降って来てくれた。


「やあ、こんばんは」


 喋った。その影は大きな翼を持っている以外は人間と造形が変わらず、つまりその顔には口もきちんとついているのに、私はその口から出た声になぜかとても驚いてしまった。


「こ、こんばんは……」


 なんとか挨拶を返しながら、じっとその姿を観察する。夜空に映える真っ白な翼と、それとは対照的に夜空に溶け込む藍色の髪。そして、星が二つ顔に嵌め込まれたような美しい金の瞳。恐ろしいほどに整った顔立ちは、人間に当てはめるならまだ十代後半と言っても通じる。肩まで伸びた髪から判断はつきにくいが、恐らく男性だろう。

 黙り込んで微動だにしない私が面白かったのか、彼はくつりと笑った。


「こんな時間に星空観察か? 子供はもう寝る時間だぞ」

「……寝たくないの」

「どうして?」

「夢を見るの。パパとママと毎日楽しく暮らす、幸せな夢」

「幸せなんだろ? 良いじゃないか」

「パパとママはもういないの。だから、そんな夢見ても虚しいだけよ」


 ぽろりと瞳から涙がこぼれ落ちる。この街に来てから、パパとママのことを誰かに話すのは初めてだった。

 そんな私に、彼は驚いたように目を見開いた後、そっと優しく私の頭を撫でてくれた。その柔らかな手つきはママの手によく似ていて、余計に涙が堪えられなくなる。


「すまない、辛いこと思い出させたな」

「ううん……大丈夫」


 なんとか泣き止もうと、私は慌てて手の甲で乱雑に涙を拭った。叔母さんは、私が泣いていたらうるさいと怒鳴りつけてくる。それが怖くて私は余計に泣いてしまうのだ。そしてまた怒られてしまう。そんな悪循環を繰り返す中で、私はいつしか息を潜めて泣くのが癖になってしまった。

 けれども彼は、私が泣いていても怒らなかった。代わりに優しい手つきで私の手を取る。


「ああ、擦るな擦るな。目が傷ついてしまう」

「ご、ごめんなさい……」

「別に怒ってないさ」


 そう言いながら、彼は棚の上に置かれたティッシュケースを手に取ると何枚かティッシュを抜き取り、そっと私の目元に当ててくれた。それとは逆の手で規則正しく背中を撫でられるとだんだんと心が落ち着いてきて、涙も引っ込んでいく。

 どれほどそうしていただろうか。私が泣き止んだのを確認した彼が、そっと背中から手を離した。咄嗟に離れていくその手を掴むと、彼が驚いたように私を見る。


「もう行っちゃうの?」


 せっかく星が私の元に来てくれたのに、もう去ってしまうのか。私はまた一人になってしまうのか。せっかく引っ込んだ涙がまた溢れて来たのを感じる。


「一人にしないで……」


 嗚咽混じりにそう言うと、彼は困ったように笑った。


「そう言われちゃ仕方ない、君が満足するまではここにいるよ。他に行くところもないしな」

「行くところ、ないの?」

「ああ。いつも適当にふらふら空を飛んで、気になったものがあれば地に舞い降りる。そうやってずっと生きてきた」

「じゃあ、今夜はずっとここにいて」


 そんな私の言葉に彼は驚いたように目を見開いた後、柔らかく目を細めて「いいよ」と頷いた。


「そうだ、じゃあ君が眠りにつくまで、寝物語に俺が飛び回ってきた世界の話を聞かせてやろう」

「本当?」

「俺は嘘はつかん」


 そう言って、彼は勝手知ったる様子で部屋の中を歩きベッドの横に置かれた椅子に座った。


「ほら、おいで」


 私は言われるがままにおずおずとベッドの上に寝そべり、肩まで毛布を被る。あれほど冷たかった部屋が、彼の輝きで温められていく気がした。


「なんの話がいいだろうか。そうだ、大昔に雲の上に住んでいた一族の話はどうだ?」

「それがいい」

「じゃあそうしよう。これは五百年ほど前のことだ、いつものように空を飛んでいた俺は──」


 毛布の上からぽんぽんと規則的に叩かれる。

 昔話を語るその穏やかな声を聞いていると、重い瞼がゆっくりと落ちてくる。緩やかな微睡みの中で、けれどもその二つの星だけは見失わなかった。その輝きを見ていると、宇宙に浮かんで星々の間を揺蕩っているような錯覚に陥る。


「あなたは、きっと星の精なのね」


 そう言うとその瞳が驚いたように見開かれた気がしたけれど、私はそう呟いてそのまま眠りに落ちてしまったから、彼がその後どんな反応をしたのか私が知ることはなかった。

 翌朝。私は未だかつてないほど清々しい目覚めを果たした。

 ゆっくりと瞼を持ち上げると、部屋の隅の椅子に座る人影が目に飛び込んできて思わず悲鳴をあげた。その悲鳴に驚いた彼と目があって、ようやく昨夜のことを思い出して落ち着く。すると次に湧き上がってくる感情は、起きた時に一人ぼっちではなかったという喜びだった。

 どうやら本を読んでいたらしい彼は、開かれていた本から顔を上げて「おはよう」と微笑む。


「私が寝たら帰ると思ってた」

「ああ、君が眠った時に帰ろうと思ったんだけどな。この本が気になって」


 そう言って彼が掲げた本は見覚えのあるものだった。確か、私の部屋の本棚に入っていたものだ。


「それ、面白い?」

「面白いな。時間が経つのを忘れて夢中になってしまった」

「そっか。私もその小説好きだよ」

「君は読書家なんだな」


 そう言いながら、彼は壁際の本棚に視線をやった。そこには本がぎっしりと詰まっている。


「パパとママが読書家だったの」


 そう、この本棚に入っているのは全部パパとママの遺品だった。

 パパとママは読書家で、前に住んでいた家には大きな本棚がいくつかあり、その全てに本がぎっしりと詰まっていた。そんなパパとママの娘である私もまた読書が好きで、中でもその本棚を眺めるのが好きだった。世界にはこれほど多くの本があるのだと思うだけで胸が高鳴る。毎日のように本を読んでいても、この世にある全ての本を読み尽くすことはできない。それはとても贅沢で、幸せなことのように思えたのだ。

 私は本棚に入れられた本を読みたがったけれど、小学生の私にはまだ難しいと言ってパパとママは新しく児童書を買ってくれた。そうして、私が中学生になったらこの本棚の本を読ませてあげると約束してくれたのだ。

 けれども、約束は果たされなかった。私が小学校を卒業する前にパパとママは死んでしまったから。私には多くの本だけが遺された。泣きながら独りで読んだその本は二人が言っていた通り私には難しい内容で、けれどもそれを読んでいる間はパパとママがそばにいてくれるような気がするから私はそれらをよく読んでいた。内容が理解できなくたっていい、その本が傍にあるということが重要なのだ。ひとりぼっちの放課後だって、孤独に震えて眠れない夜だって、本を読んでいればあっという間に時間が過ぎた。本の中の世界は私の逃げ場だったし、本棚は私の心を守る要塞だった。


「君の両親とは本の趣味が合いそうだ」


 ちらりと彼を見る。ぺらりとページをめくった彼の持つ本は分厚くて、まだまだ読み終えるには時間がかかりそうだった。次いで、壁にかかった時計を見る。短針はちょうど七時を指していた。そろそろ小学校に行く準備をしなくてはいけない。

 そんな私を見て、彼は「もう君は学校に行く時間か」と本を閉じた。


「じゃあ俺も出ていくよ」


 彼のその言葉に、私は少しだけ迷った。自分の気持ちに正直になるのなら、彼に出て行ってほしくはなかった。そばにいてほしかった。この星を、手放したくはなかった。

 だから、その金の瞳を見つめて言った。


「ううん、もう少しいてもいいよ」


 ここにいてほしい、とは言えなかった。けれども彼は私の心情を正確に読んだのかにんまりと悪戯っ子のような笑みを浮かべて「どうしよっかなあ」と言うものだから、結局私は羞恥に顔を染めて「……ここにいてほしい」と言う羽目になった。


「いいぞ、本の続きも気になるしな。留守番は任せておけ。いってらっしゃい」

「行ってきます、……ええと」


 名前を呼ぼうとして、そういえば聞いていなかったな、と思い返す。


「あなた名前は?」


 そう聞くと、彼は考えるように視線を彷徨わせた。


「名前がないの?」

「生まれた時にはあったんだが、誰も呼ばなくなって忘れてしまったんだ。人間たちはみんな俺のことを神様とか化け物とか好きなように呼ぶ。たまに仲良くなった人間にはその度に名前をつけてもらってるんだ。だから、君も君だけの呼び名をつけてくれ」


 いきなりそう言われても、と私は考え込む。じっと彼の金の瞳を見ていると、ふとある言葉が浮かんだ。この天から降ってきた星のような人にぴったりだ。


「じゃあ、シリウス」

「シリウス?」

「そう。この広い夜空で一等明るい星の名前だよ」

「良い名前じゃないか。今日から俺はお前だけのシリウスだな」


 そう言って、彼──シリウスは笑った。金の瞳は朝になってもその輝きを失わずにそこにあった。

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