第3話

 朝になれば、息子は学校に行き、俺は仕事に行く。

 日が暮れて、俺が仕事から帰れば、息子は家にいる。


 放課後に息子が何をしているのかは分からない。俺が帰るまでに誰かと遊んでいるのかもしれないし、真っ直ぐ帰ってきて好きに色々やっているのかもしれない。

 別に詳しく知りたいことでもないから、帰ってきたら手早く何か作り、共に夕飯を食べる。これでも十年、一人で暮らしてきたんだ、それなりに料理はできる。息子から味について文句を言われたことはないから、不味くはないんだろう。

 後は風呂に入って、寝るだけ。

 平日はいつもこうだった。


『前に住んでいた所に戻ります。日が暮れるまでには帰ります』


 暗い室内に首を傾げながら居間に行けば、そんな書き置きがテーブルの上に置かれていた。

 しばらく無言でそれを眺めた後で、ぐしゃりと丸め、荷物を放って外に出る。

 向かう先は最寄りの駅。改札の近くに突っ立って、そこから吐き出された人々の顔をじろじろと眺める。不快そうな視線は無視。小さな頭を探す。

 人波が減って、人波が増えて、それを何度か繰り返した末に、ゆっくりと歩いてくる小さな頭が目に入る。

 息子だ。

 駆け足に息子の目の前まで行けば、酷く驚いた顔をし、その目が潤み出す。

 無意識に、拳を握っていた。それを肩の辺りで掲げていた。

 俺は今、どんな顔をしているのか。


「……もうとっくに、日は暮れた」

「……ごめん、なさい」


 息子の目から一滴、涙が溢れる。

 それを見ていたら、また無意識に、拳を下ろしていた。


「帰るぞ」

「……はい」


 歩き出せば、息子は静かに俺の後をついてくる。

 作る気力がないから、夕飯は弁当屋で弁当を買い、家に帰ると、テレビも点けずに飯を食った。

 半分くらいまで食べた所で、息子に訊ねる。


「どうして、前に住んでいた所に行ったんだ」

「……」


 息子は食べる手を止めて黙り込む。いつもならそれでも良かったが、今日は駄目だ。


「俺は、お前の保護者なんだ。保護者として、子供が日が暮れた後も外を出歩いているのは見過ごせない。理由を話せ」

「……どうしても、言わないといけないですか」

「言え」

「……辰雄さん、その」

「何だ」

「その──猫は、好きですか」


 今、それは関係あるのか。

 そう思ったが、せっかく話そうとしているんだ、腰を折るのは悪い。

 猫、猫か。

 思い出すのは、路地裏の猫だ。

 好きか、好き……。


「普通、だな。可愛いとは思うが」

「そうですか。……僕は、好きなんです。好き、だったんです」


 この間聞いたから知っている。そうは思っても口には出さない。

 息子は口を何度か開閉した後で、意を決したように語り出す。


「前の家にいた時、猫を飼っていたんです。三毛猫でした」


 よりにもよって三毛猫か。


「僕が物心ついた時には傍にいて、この子は姉さんなんだよって、かあちゃんが」

「かあちゃん」

「……かあちゃんと、とうちゃんって、呼んでました」

「……」


 俺に、何かを言う権利はないし、今はそんな場合じゃない。──だというのに、思いの外、衝撃を受けている自分がいる。

 かあちゃん、かあちゃんか。

 叔母は自分をそのように呼べと、息子に言っていたのか。本来、そう呼ばれるべきは妻だった。

 俺は妻から、その権利を奪っていたのか。


「……続けろ」

「は、はい。姉さんは優しくて、僕、大好きだったんですけど……急にその、いなくなっちゃって。僕、探したんですけど、見つからなくて。二人に相談しても、一緒に探してくれなくて……そういう時期なのよって言われても、意味が分からない。何で姉さん探してくれないのかも分からなくて……ケンカしたら、そのまま、二人も……いなくなっちゃいました」

「……そうか」


 そりゃ、葬式にも出られないくらいショックを受けるだろうな。

 俯いた頭に、手を置くべきか。

 眺めていたら、息子は顔を上げ、俺をじっと見つめる。


「辰雄さんと一緒に住むようになってからも、ずっと、姉さんのことが気になって、気になって……辰雄さんからもらうお小遣い、けっこう貯まってきたから、僕、いてもたってもいられなくて……」


 息子の目が、潤み出す。

 妻とは似ていないと思っていたけれど、こうしてみると、泣き虫な所は似ているんじゃないだろうか。

 そんなことを考えている間に、涙が静かに溢れ落ちる。


「勝手に出ていって、ごめんなさい。辰雄さんが言うなら、僕……僕はもう、姉さんのことは忘れます!」

「何もそこまで言ってないだろう」

「でも、おばさんに言われたんです。辰雄さんに迷惑を掛けたらまた追い出されるよって」

「……は? おばさんって誰だよ」

「……僕を、辰雄さんの所に連れてきてくれた人です。二人がいなくなった後、色々お世話になりました。そのおばさんが、何回か、そういう風に」

「……」


 何も、言えない。

 事実として、俺は叔母に息子を引き渡している。──追い出している。

 もちろん、またそんなことをするつもりはない。

 手放して、押し付けられたとはいえ、息子は妻の忘れ形見、今度はきちんと成人するまで面倒を看るつもりだ。

 だが、それを息子に言った所で、信じてもらえるだろうか。

 傷心の所に差し込まれた言葉は、そうそう抜けない。

 俺が何を言っても、すり抜けていってしまうんじゃないか。


「……なあ」


 俺はそもそも、単なる種馬。

 ただの保護者で、父親だなんて名乗れる立場にない。

 これはただの、一人の偽善者がする提案だ。


「次の休みに、姉さんを探しに行かないか」


 家族を忘れる必要なんてないだろう。

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