女の愛

ヱルダ ヱル

愛の正体

 女は、美しいものが好きであった。

 美しく、静かで、それでいて胸躍るようなもの。女にとってのそれは「太宰治の文学」であった。


 女は、何遍も首に縄をかけたことのある人間であった。そんな女が、の自殺マニアとも言うべき彼の生きざまに、共感しない訳がないだろう。至極当然の摂理、と言ってもいい。


 そしての周りにも、女のように「死」を愛する人間が何人もいた。その人間たちもまるで熱狂するフアンのように、口を揃え、好きな作家はと聞かれれば「太宰治」と答えていた。

 ので、私にとっての「太宰治が好きな人間」はそう珍しいものではなかった。


 私は、太宰治の私生活が、純文学に入るきっかけになるなら。と、一介の純文学好きとして肯定的にとらえていた。


 しかし女は、そんな人間たちを毛嫌いしていた。気の迷い、モラトリアム、美しくない信仰心。関わり合いたくないと、女はその人間らと一線を引いていた。


 こう書いては女に怒られそうでもあるが、私はその人間らと女の何が違うのか、ちっとも分からなかった。好きという気持ちは同じだろうに、なぜそれほど毛嫌いするのだろうかと。


 もしかして、嫉妬が形を変えたのではないだろうかと。


 だが、その疑問を口にしてしまえば、女は黒くて艶のある髪を乱し、息を荒げ、こちらに掴みかかってくるに違いない。


 大人しい人間ほど、いざという時の動きが恐ろしいのだ。おぞましい想像が脳裏に浮かんだので、私はただ「そうか。」と頷いて、その場をやり過ごしていた。


 る時、女はほろりと、涙をこぼすように私に告げた。


「私にとって、先生・・は特別です。愛しています。ですが、私がいだいている先生への気持ちは誰にも分からないのです。世界中の誰にも、それは先生本人にとっても。ですから誰かに分かってもらおうと期待するのも、とっくとうに諦めてしまいました。なのでこうして一人で、言葉と、命と、世界に向き合っているのです。」


 言い切ったのちに、うっそりと笑う女。その顔はこの上なく青白く、死人のようであった。


 その顔を向けられた私は、嫌な気持ちになった。まるでの先生の作品に出てくる、三葉の写真を見た時の気持ちをなぞっているような、薄気味の悪さ、おぞましさ、目をそらしたい気持ち。それらをぐちゃぐちゃと混ぜたようなもの。

 私は言葉を発せず、ただ、愛想を張り付けた顔で笑い、女に合わせることしかできなかった。


 そんな幽霊のような女は、一週間後に連絡をよこした。待ち合わせ場所は都内の某駅。私が到着してから数分後、女もふらりと駅へと現れた。


 女は真っ黒なパンツスーツを着込んでいた。見ているこちらも息が詰まるような正装。女にとっては「聖地」に向かうのだから仕方がないか。私はそう無理やり納得して、やや周りの目を引く女に連れ立って電車に乗り込んだ。


 私と女が向かう先は三鷹。

 女は「先生」と呼ぶ彼に会いに行きたいと言い、私も物見雄山にそれに付き添ったというわけだ。もしかしたら、女の「先生への愛」の正体が少しだけ分かるかもしれない、そんな期待を持って。


 六月ながらじとりと肌にまとわりつく熱気の中、私と女は歩を進めていった。


 静かな路地のアスファルトに、女の履いている黒いハイヒールが叩きつけられ、音が鳴った。あまりの甲高い音に、斜め後ろを歩く私も耳を塞ぎたくなるほどであった。

 あまりの音量に驚く通行人たちを気に留めず、女はただ前を見て歩いていった。普段はおろおろと周りを気にして生きている女が、こんなにも堂々とランウェイを歩くように進んでいくのを私は初めて見たので、それはもうひたすらに驚いた。


 早速先生へ会いに行くのかと思いきや、意外にも、女は途中でレストランへと寄った。東京ではどこにでも在る、名の知れたチェーンのレストラン。

 やや重たい硝子ガラスのドアを開くと、目を引く橙色の内装に、照明と脂で照りついたソファー。壁には大きな絵画が掲げられ、食い物の香りと紫煙が混ざった重たい空気が包んでいた。

 ついに色の欲よりも食の欲が勝ったか。腹の白くない私がそう勘繰ったのも束の間。どうやらそこは、の先生が住んでいた場所だったようだ。女は奥の席に座れたことへの喜びを噛み締めながら、私の方へ身を乗り出した。


「ここについてのお話をしても良いですか。」

「まぁ……いいでしょう。ただ、食事が来たらしまいにしてくださいね。」


 私の注意に臆することもなく、女は嬉々として頷いた。

 女はしばらく、この場所の説明を滔々とうとうとしていたが、私にとってはつまらない説教と変わりなかった。


 ただでさえ私の住む場所は集合場所まで距離があり、そこから三鷹までも距離があり、さらには混んでいた電車の中、立ちっぱなしでやって来たのだ。眠気との戦いになったのは仕方がないだろう。女は息継ぎをする間もなく、これでもかと言葉を並び立てるが、疲れ切った私の脳には一言も響かなかった。


 しばらくして私の瞼がゆっくりと降りてきたとき、いい香りを放ちながらやってきたランチセット。千円でお釣りがくるこの一皿に、これほどまで救われたと感じることはなかなかないだろう。


 ちなみに、会計は女持ちであった。ごちそうさまでした、と一言添えると、女は一度頷いた後、住所の書かれたレシートをうっとりと眺め、大事そうに財布へしまった。

 ああ、ただそれが欲しかったのだろうなと腑に落ちた。

 私はタダ飯ができたので、理由はどうであれ良しとしよう。


 またしばらく歩を進めていると、ぱらりぱらりと小さめの雨粒が降ってきた。女の着ているスーツに斑点模様が描かれていく。


 まぁ、と女は嬉しそうに声を上げた。


「先生が私を見ていてくださっているのです。」


 そう言いながら、女は踊るように身を翻した。女が言うには、先生が来てくれたと喜んで、涙を流してくれたのだと。その涙が雲となり、雨となり、この地へと降ってきたのだろうと。

 私は何とも言えずに口をつぐんでしまった。


 詩的だなと言っては馬鹿にしているようで、どう反応されるか分からない。否定するなんて尚更だ。しかし頷いてしまっては、再び言葉を並び立てられてしまうかもしれない。それはそれで、面倒である。

 いろいろな感情が交錯し、結局私は口をつぐんでしまった。


 いつもであれば、私が黙りこくると勘ぐってくる女であるが、浮かれている今は、全くと言っていいほど私のことを見ていない。そのおかげで追及されることもなく、女は再び歩を進め始めた。それにほっと息を吐いて、アヒルの子のように私も女に付き従った。


 女が玉川へと向かいたいと話すので、私は飛び込むんじゃないぞと口を酸っぱくして言った。すると女は神聖な場所を汚すつもりはない、と眉間にしわを寄せて答えた。


「真似事をするのは簡単です。それこそ簡単に先生の名前を挙げて、好きだ好きだと囃し立てる輩が、先生の真似をして薬を飲んだり、手首を切ったりするのと同じです。私は本当にそれが嫌いです。本当に好きなら、そんなことをしている暇があれば、先生の書かれた一言一句に思いを馳せ、背景にあった時代に思いを馳せ、そして先生の心の中に思いを馳せるべきです。」


 そのあまりにも当たり前だろうという強い口調に、私はははぁ、と声を漏らしながら頷くしかなかった。もう何も言うまい。触らぬ神に祟りなし。くわばらくわばら。女の気分を害さないように、私は再び静かに歩を進めた。


 私は女と共に玉川上水のほとりを歩き、解説の札を何度も読み、記念館で直筆の原稿を何周も見た。

 陽が傾きかけたところで、女は駅へと戻ろうと言いのけた。

「墓まで行かないのですか。」と私が尋ねると女は頷いた。


「私はもう十分です。」

「いや、でも、ここまで金と時間をかけて来たじゃないですか。なかなか来られないのでしょう、勿体もったいない。」

「よいのです。私は『私の立場』をわきまえています。だから易々やすやすと墓に立ち入って、まるで観光地にある寺社に手を合わせるように、先生の墓に手を合わせることなんていたしません。万が一、念のためにとスーツを着込んでは来ましたが、私の心は揺るぎませんでした。」

「そうですか。」


 私はもう、呆れるどころか面白いという気持ちに溢れていた。それこそ、この女の一言一句、一挙手一投足を文字に起こしたい気持ちに駆られるほどに。

 だから特に反論もせず、朝よりも混んでいない電車に乗り込んだ。女の方をちらりと見ると、満足したような、とろけたような、甘ったるい目をしていた。色んな人間がいるのだなと思いながら、私も車窓を静かに見つめていた。


 集合場所の駅へ戻ってくると、女は少しの挨拶をして身をひるがえした。雑踏の中に黒いスーツが消えていく。


 その背を見ながら私はやっと、少しだけ、女の愛を理解した気持ちになった。


 墓へは行かない。

 あれこそが、女の愛。

 信仰、崇拝、それに近しい、愛の正体。


 確かにあれは、ただ「死」を愛し、太宰治が好きだと囃し立てる人間とは違う。

 女の愛には、思いやる心がある。

 そしてその愛は、女の心を歪めることはなく、ひたむきに支え、女をまっすぐに立たせていた。

 いつもであれば出不精な女を、今日のように外へ連れ出したのもの「先生」のおかげなのだろう。


 こうやって筆を取り、何遍思い出そうとも、女の愛は汚れのない、ひたすらに美しいものだった。純粋、無垢、真白。やはり私にはひどく崇高なものに思えて仕方がない。


 女の愛がこれからも良い方向に進むことを願って、私は筆を置いた。

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女の愛 ヱルダ ヱル @zaida

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