短日 一

 年賀状の集荷が増えてきた。配達員が最も忙しいのは年末年始である。『エストレア』の前を通り過ぎると、甘い匂いが漂ってくる。マリア・ママと栄枝さんが、クリスマス用のケーキや焼き菓子を作っているのだ。レイはツマミやメシものはよく作るけれど、ペストリーは苦手だ、と言っていたから、マリアさんからいろいろ鞭撻されているのかもしれない。店内の様子を想像して、ちょっと笑ってしまった。

 ミスターが帰国して、レイと自分との関係が変わったかというと、表面上は穏やかなものである。また『エストレア』で夕食を摂ることも多くなったし(ミスターとは飲み友達になってしまった)、時々雑事を手伝うが、二人で飲んだり喋ったりという機会は減った。避けられているのかもしれないな、とも思う。あの時、自分にとってレイは特別なのだと自覚はしたが、それが自分たちの関係を脆くする危険性を潜めていることにも気付いていた。もしかしたら自分も、ハインリクが後悔していたような過ちを犯すのかもしれない。ただまた、元みたいに笑えるようになってもらいたいだけなんだ、と思っている自分と、自分だけにそれを向けてくれればいいのに、という昏い気持ちがせめぎ合う。


「おい、お前のこと知ってるぞ。”The Stars”に連れていけ(Hey, I know you, take me to “the Stars”)」

 バイクを停めて通り沿いの家々に郵便物を配っていると、突然背後から肩を掴まれた。驚いて振り向くと、ヘイゼルの髪に青い瞳をした長身イケメンが不機嫌な顔を近づけてくる。

「どなたですか、仕事中なんですが」

「お前、“マキノ“だろう、写真で見たぞ。The Starsはどこだ」

 傍若無人にも程が有る、こちらはお前なんぞ見たことない。と言ってやりたかったが、サラリーマンのさがか、何事もへりくだって対応してしまう自分が嫌になる。

「The Stars?場所の名前?」

「フィリピーノパブだ。知ってるだろう、レイモンド」

 あ、そうか。と気が付いた。『エストレア』はスペイン語で星の意味だったはずだ。青年は痺れを切らしたように槙野の肩を揺さぶった。

「時間が無い、クリスマス航海までに、あいつを連れ戻さないと」


 ドアを開けたレイは、粉だらけのエプロンにスカーフで髪を覆っていた。食品を扱う者としては正しい服装なのだが、槙野の隣りで青年は腹を抱えて笑い出した。

「……何しにきた、リチャード」

レイモンド・ナヴァルが可愛い格好してんなあ、おい」

 レイは冷ややかな表情一つ変えることなく槙野の腕を取って店内に引っ張り込み、その背後でドアを盛大に叩き閉めた。

「……いいのか」

 勢いでもわもわと小麦粉が舞う。槙野は呆れてレイを見、外から乱暴にノックされている扉を気の毒に見、思わず手を伸ばしてレイの解れた髪を直してやった。レイは憤慨して赤くなる。

「なんでお前がリックを連れてくるんだ」

「配達中に声を掛けられたんだ。『エストレア』はどこかって」

「何の騒ぎ?」

 ドアウェイで言い合っていると、栄枝さんがカウンターからやってきた。マリア・ママは『またやってる』というような視線をこちらに向けている。すみません。

「外の彼、レイくんのお友達?」

「元同僚ですが、仲が良かったわけじゃないです」

「レイ! お前、突然辞めるとかふざけんなよ!? たらし込んだ人数分、働けよなあ!!」

 栄枝さんに『外から何言ってるの?』と半分親切で半分面白がっている視線で尋ねられ、槙野は苦慮する。槙野は一応留学経験が有り英語を解するのだが、全て通訳しないほうがよいとみた。己れの保身のためにもだ。レイの目付きが剣呑である。とにかく、ドアを壊される前に入れてあげたら? と栄枝さんがにこやかに言い、それでもレイが渋るので、槙野が買って出るはめになったのだった。


 リチャードは旅客船でポーターとして働いているのだという。さすがと言うか、マリアと栄枝さんに対する態度は一変して礼儀正しい好青年になるので、槙野は感心する。訴えて言うには、一番船の忙しいクリスマス・シーズンにレイが戻ってこないと、いろいろと差し障りがあるらしい。『レイはクルージング業界でも人気のアテンダントなんです』とマリアに誠実そのもののように申し上げるが、マリアは『どうだかね、青二才が』というふうに、こちらもなんだが応酬が微妙である。槙野が配達に戻るために制帽を被り直すと、レイに袖を引っ張られた。

「今夜、来るなよ」

 エストレアに来るな、という意味だろうが、なんで? と小首を傾げて見せると、顎をしゃくってリックを指す。あいつ、きっと言いたい放題だから。船での仕事に関しては、オレが悪かったのは分かってる。全部放り出してきたんだ。どう後始末をつけるか、考えさせてくれ。物憂げに伏せられる瞳を、槙野は疑わない。船でどんなことがあったのか、想像できないし、したくもないが、レイを信じる覚悟くらいならできている、と自分で思っている。うん、何かあったら言ってくれ。と『エストレア』のドアを出た。


 ジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま、槙野は夜道を歩いていく。終業時間に丁度、実家から電話がかかってきた。早めに届いたお歳暮のお裾分けという口実で呼ばれ、母はふらふらしている息子の安否を確かめようとするし、父の晩酌に付き合って、ついで説教である。大学までの学費を負担してくれた両親には申し訳ないと思っているが、槙野は今の生活の自由さが割と気に入っているのだ。定時出勤・定時退勤。同僚とも良い距離感が保てていると思う。しかし父からしてみれば、優良企業の労働環境だか人間関係だかに耐えきれず逃げ帰り、安アパートに篭って結婚する気も無いアラサーの息子に、一言言いたくもなるのだろう。はあ、と夜空に向かってアルコール臭い息を吹くと、白く流れていく。頭を冷やすために、もう真夜中過ぎなのだが、槙野は見知った街をぶらぶらしているのだった。今夜は星もよく見えるな、と思ったところで、携帯が鳴った。

「レイ? どうした」

 電波が悪いのか、声は小さく、揺れている。マキノ、と呼びかけられると、今しがたのモヤモヤした気分が少しだけ落ち着くような気がした。

「あのな……リックの奴、ホテル取ってないんだ。所持金もほとんど無くて。だから、ウチに泊めるつもり」

「困った奴だけど、らしいって言えばらしいな」

 横柄で図々しいが、あっけらかんとしているせいか憎めない青年である。槙野は思い出して笑った。

「それでな、オレは、お前のウチに泊まってもいいだろうか」

 槙野は一瞬何を言われているのか分からなかったが、思考が追いついて動揺した。

「ええと、リックにはソファ一つで充分だろう?」

「駄目ならいい」

「いや、駄目じゃない! 俺も今外だから迎えにいく」

 心音まで聞こえてしまいやしないかと心配になる。じゃあ、『エストレア』近くの公園で待ってる、と小さな声が答えて、槙野は駆け出した。


 さびれた公園の古いベンチに、レイは腰掛けていた。傍らの街灯が斜めに差し込む横顔は険しいが、月のように冴えて秀麗だ。槙野はここまで来てなお挫けそうになった。踏み込んでしまうのが怖い。互いにもっと知ることが、失望を招いたら、どうすればいいのだろう。レイの問題ではない。レイを理解できないかもしれない自分が嫌なのである。

「この公園、放課後よく遊んだよな」

 近づくと、こちらを見ずにそう呟いた。槙野は改めて見渡す。闇夜に沈黙する遊具は、確かに昔、よく触れたもののはずだが、やはり思い出はどこかぼやけている。明るい水底を見ているように朧ろに瞬き、確かに掴み取ることができない。槙野はレイの隣りに腰掛けた。

「よく覚えていない。ごめん」

「非難してるんじゃない、逆だ。オレはお前が覚えていないことを確かめるために、こんなこと言ってるんだ。オレこそ、ごめん」

 レイの艶やかな目元が歪む。オレはお前の良い友人だったか? 違う。あの頃は身の回りのもの何もかもに怒っていた。オレを認めなかった実の父親にも、オレを置いていった実の母親にも、問題児扱いする学校にも、疎外する生徒たちにも、周囲の腫れ物に触るような視線にも、……身元の保証されない“外国人“で“水商売“のマリアとその養子であるオレに、“普通の“居場所をくれなかったこの世界を、憎んでいた。マリアが毎年ニューイヤー・カードと『エストレア』で撮った写真を送ってくれていて、今年の初めそこにお前を見つけた。また会うことができるなんて思わなかった。お前に思い出してほしいのと、あの頃のオレのみっともなさを忘れてほしいのと、もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。しなやかな指が口元を抑え、嗚咽を噛み殺す。

「もう隠せない。ミスターとのことも、リックの言いようでも分かっただろう?」

 オレは、空虚な自分を埋めるために、船客や船員たちに自分を差し出した。その都度彼らを愛しく思っていたし、彼らがオレに本当の居場所を与えてくれるのだと信じていた。だけどそれは船旅の間だけの夢だ。陸に降りれば、オレに帰れるところは無い。

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