短日 二
連なった屋根の稜線を夕日が染めている。その上では水色と橙の境に白い千切れ雲が靡いていて、坂を登りつつ槙野は嘆息を吐いた。
「マキノ、おい」
感傷に浸る隙も与えず、横道から長身を現したのはリックだった。
「仕事終わったろ? 晩飯行こうぜ」
そんなに親しい間柄だったろうか、と思うが、
「おごりで」
前言撤回、こいつは所持金が無いのだった。慣れたものだな、そうやって船の上でも生きているのだろうか。と槙野は意地悪く考える。今日は一日、何をしても上の空だった。がしりと腕を掴まれ、繁華街の方向へと連れていかれる。引き戻したくてもポーターの筋力には敵わない。やれやれと何とか横に並んで歩き出すと、腕を離された。
「朝と昼は食べたのか?」
「マダムが作ってくれた。
そういう配慮は俺には無いのか、とツっ込みたくなるが、マリア・ママを敬うのは正しい。
「それで、レイとはどうだったんだ」
踊るような歩調に合わせて、ヘイゼルの髪が黄昏を弾いて揺れる。大きな青い瞳がぴかりぴかりと下世話な好奇心に輝いている。何とも俗っぽい天使だな、と槙野は苦笑した。
「もう店に出てるはずだ」
「あいつ、誘わなかったの」
槙野は明後日の方向を見る。言っている意味は分かるが、昨夜は誓って、一緒に帰ってベッドと布団で寝ただけだ。実家から客用の布団を借りておいてよかった。リックは天を仰いで呆れている。失礼な奴である。
「アジア人は言葉やカラダでなくても、気持ちは通じるとか思ってんだね」
高架線脇の焼き鳥屋台に案内したら、『すげえ(Awesome)!』ともの凄く喜んだのでこちらが気恥ずかしくなる。随分とチューハイが気に入ったらしくグラスを離さず、焼き鳥もメニューの端から端まで試す勢いだ。顔見知りの店長もリックのこぎみ良い食べっぷりに、笑うしかない。
「まあ……そうかもね」
元カノにも、言葉で大切だ愛していると伝えてもらわないと分からない、と言われたことがある。その彼女が、他の男性に惹かれていたのも気が付かなかった。彼女を信じていたというより、表面上何も問題が無いことに安穏としていたのだ、仕事の忙しさにかまけて関係を続ける努力を怠り、彼女にも口にできないことがあるのだと気付けなかった。努力と言っても多分、もっと言葉を交わして触れ合って、互いに甘えて甘やかせばよかったのだ。自分の情けなさを見せてもよくて、受け入れられる相手でなければ、ずっと一緒にはいられないだろう。
「サン・ファンで焼き鳥屋やったら、儲かるかな?」
ころころと話題が変わるので今度は何の話かと相槌を打ったら、何杯目かのグラスを空けたリックはご機嫌に槙野の肩へ腕を回してきた。
「プエルト・リコがホームなのか」
「そう。豚焼いた料理知ってる? 焼き鳥も絶対受けると思う」
ビーチでも食べやすいしさ、チューハイもカラフルでいいよな! とお喋りの止まらない酔っ払いの頭を、槙野は雑に撫でた。絡まれて動けず、面倒なのだが放っておけない。国際旅客船で働いているのに金を持ってない、今の話からしても恐らく故郷に送金しているのだろう。プエルト・リコの経済に占める海外送金の比重は大きい。以前の職務が銀行での小口融資だったせいか、店を出すなどとと聞くと心無しわくわくしてしまう。
「あんた面白いよね。オレにしない?」
やっと会計を済まして、リックを担ぐようにして店を出る。人通りの無い裏道は、古ぼけた街灯がまばらに点滅しているだけで薄暗い。アルコール臭い息に『何言ってるんだ』と誤魔化そうとしたが、寄りかかってくる長身でくるりと槙野を抱え込んでしまった。耳元で熱された凪のように低い声が囁く。
「マキノなら、どっちでもいいよ」
「あのな、お前たちもう少し自分に優しくしてやれよ」
形の良い眉が下がり、頬をふくらませて不満そうな顔に、槙野は笑いを堪えきれなくなった。ホント鈍いね、あんた。と目の前で呟く唇が妙に
「何してやがる(Bloody hell)、離れろ!」
リックの襟首を掴み、槙野から引き離したのはレイだった。そろそろ『エストレア』も閉まる時間だろうが、なぜここにレイがいるのか槙野は表情筋が引き攣りそうになる。突然首元を圧迫され、リックは咳き込んだ。
「いい加減にしろ、船に戻れ」
「はっ、尻拭いなんざご免だね。オレはお前の代用品じゃねえんだよ」
言い争いでは腹の虫が治らないのか、レイの腕が優雅にしなるとリックの頬を平手で打った。リックはよろけるが、憤怒と興奮で青い目が燃えるように輝いているのを見て、槙野はぞっとする。姿勢を戻しがてら振りかぶり、レイの
「止めろ、二人とも! レイ、手を出すな」
「お前、客からも船員からも紹介料取ってただろうが」
「チップだろ? お客様の要望を叶えるのがオレらの仕事なんでね」
自分より上背の有るリックの胸元をレイは鷲掴みにする。稀に見るハンサム二人が怒りを露わに対峙している様というのは、終末の鐘の響くが如く壮絶で、非常に割り込みにくい。が、槙野はヤケクソにレイの肩を押し留めにかかった。
「大体お前、ゼータクなんだよ! 養母に可愛がられてて、こんな豊かで安全なところで育ったくせにさあ。何で自分はカワイソウみたいになってんの?」
リックが吠える。国際旅客船を利用する客は中所得層から富裕層だ。彼らとの恋愛ごっこなんて大したリスクも無い。みんな陸上社会における約束ごとを弁えているからだ。お前は結局、お前のことしか考えてないし、危ない橋は渡らない。マキノのことだってそうだろ? 拒絶されるのが怖いから本当のことを言わないんだ。オレの方が大事にできるに決まってんだろ、バーーーカ。爽快なほどに罵られ、槙野の腕の中で、レイは俯き脱力してしまった。槙野は却って慌てる。
「レイ、完璧な人間なんていない」
「そいつは完璧を装ってるから、もっとタチが悪いよ、マキノ」
平手で打たれて口の中を切ってしまったらしく、リックは唇にこびりついた血を舐めた。畜生、また振られた。
「とにかく、『エストレア』に戻ろう。タクシー呼ぶから」
「あ、じゃあ空港まで乗せてくれないかな」
取り敢えず気力を取り戻したらしいレイはリックを睨んでいたが、当人はやっと思い付いたように指を打った。
「明日のフライトなんだ。いやもう今朝か」
チェックインが終わり、槙野はほっとする。時間に間に合ったのもそうだが、リックが顔に真新しい青タンをつくった上に、映画に出てくるマフィア並みの美丈夫なので、警備員に引き留められたり、何か問題になったりしないだろうか懸念していたのだ。まだ通関も手荷物検査もあったっけか……
「なあ、マキノも一緒にくれば、レイもまた船に乗ると思うんだけど」
ぎゅうとハグされ、リックの胸筋に埋もれそうになる。いらいらと腕組みをしてこちらを監視しているレイの視線が痛い。槙野はリックの背を叩いてやり、溜め息を吐いた。
「俺には別世界だよ、豪華客船なんて」
「あそこは一つの移動する
無いのは自由だけだ。海を渡って、生活に必要なものも娯楽も何でも揃っていて、どこにでも行けるけれど、『どこにも帰れない』んだ。故郷のある者はいい、旅行をひとときの夢として楽しむことができる、けど『属する場所の無い者』は閉じ込められてしまう。夜中、暗く波打つ海面を見つめていると、本当にこの世界に独りっきりになったように感じる。金の心配も家族のことも、みんな頭から抜け落ちて、ただ永遠に漂っているのが怖くなるんだ。だから快楽で繋ぎ留めようとする。感触が欲しくなる、オレが存在しているという証が。
そうだ、と
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