落葉

 どうも足元ばかり見ていたらしい。レターボックス越しに栄枝さんの顔が覗いていた。

「元気ないわね、大丈夫」

 夫に先立たれ、三人の子どもたちも独立している栄枝さんは一人暮らしだ。槙野が配達に訪れる時間帯、大概庭仕事をしているので、よく立ち話になる。

「そんなことありませんよ、寒くなってきたから」

 笑ってみせる槙野に栄枝さんは疑りの目を向ける。マドレーヌ焼いたから持っていきなさいよ、あ、でも仕事中だものね。

「『エストレア』に預けておくわ、行くでしょ?」

「最近忙しいので、暫くは、ちょっと」

「……それで元気無いのね」

 『エストレア』と聞いて動揺しているのを見透かされている。槙野は内心舌を巻いた。さすが元看護士、三人の母、婦人会の隠れメンター。

「確かにノルガードさんはスーパーイケおじだけど、槙野君は長い付き合いでしょ」

 レイが帰ってくる以前から、栄枝さんたちは時折『エストレア』で女子会(?)を開いていたみたいだが、レイは最早ご婦人方の間でアイドルのようになっている。“推し“って言うのよ、槙野くん。と、不条理にもこちらが呆れられるので、何も言えない。

「長くないですよ、10年近く連絡も取らなかった」

「でも槙野くんはレイくんのことをもっとよく知ってるでしょう」

 分かっているはずがない。再会するまでほとんど忘れていたのだ。ハインリクにエスコートされるレイを見ていると、自分とは違う世界に住んでいるような気がする。ハイ・ソサエティで優雅に振る舞う蝶のようだ。俺には届かないし、その悲しみや痛みも分からないし、分かった振りをする資格も無い。黙り込んだ槙野に、栄枝さんは溜め息を吐いた。

「単純なことなんだけどねえ」

 まあ、単純なことが一番難しいのは、私も知っているけれど。


 土日にも時間は短いが集荷と配達があるので、午後の遅い時間にスーパーでまとめて買い出しをする。槙野は実家からさほど離れていないアパートに一人暮らしをしている。また実家に住むという選択肢は無かった。大学進学で一度家を出ているし、新卒で入社した会社を辞めて地元に戻ってきたことを、多分黙っていてくれるだろうが、ご近所の目が気になったからである。我ながら肝っ玉が小さい、と肩身の狭く商品棚を曲がったところで、見知った背中に行き当たった。

「マリアさん、お一人ですか」

 花柄のワンピースを着たマリア・ママが、買い物カゴを下げてこちらを振り向いた。おかしいな、と槙野は咄嗟に思う。レイはマリアの脚を心配して、買い物や礼拝には必ず着いて来ていたはずだ。今日は『エストレア』定休の日曜日なので、なおさらである。槙野に気が付いたマリアは少し眉を顰めた。怒っている。腕を掴まれ、休憩コーナーへ押しやられた。

「私は平気、でもレイモンドと連絡を取らないのはどうして」

「だって『エストレア』はもう大丈夫でしょう?」

 昔からこんな感じだ、マリアはどこの子どもも関係なく悪いことは叱るし、善いことは褒める。なので、槙野も子どもっぽく言い訳じみてしまう。

「上客がいるからね、でもミスターは『エストレア』ではなくて、お気に入りのバーテンダーにお金を使っているだけだから」

「ですから、俺がいなくても」

「あのね、レイモンドの気持ちはどうなるの」

 私たちはホスピタリティ業で生きてる人間だから、お客様には最大限喜んでもらえるように考えて働くけれど、感情は別物なの。槙野くんだって、経験あるでしょう。プロフェッショナルこそ、仕事と私情は切り離している。

「けれど、ミスター……ほど紳士的で誠実な方はいませんよ」

「そう、だからあの子は拒絶できないの」

 よくできた客が私的な関係を求めてくることほど、悩ましいことは無いわ。人として好ましさを感じるし、だから悲しむことをしたくないのだけれど、己れを偽り続けることはできない。マリアは声を潜めた。

「……あの子今日同伴なの、帰ってこないかもしれない」

 槙野は烈火が脊髄を駆け上がったように感じた。が何を意味するのか、察せないほど若くもない。そういうことは、考えたくなかったし、考えてしまったら、あの二人を蔑むようで嫌だった。だけどもう理屈ではない、取り戻さなければならない。あの頃のように笑う友人を。


 レセプションに駆け込んできた男にスタッフはさぞや驚いたに違いないが、必死の様子を察してくれて、座敷席への仕切り向こうへと姿を消した。言ってしまってから羞恥と後悔で逃げ出したくなり、けれど動けず棒立ちになっていた槙野には、時間の流れがとてつもなくゆっくりと感じられた。身体の中は燃えるように熱いのに、冷や汗も出ない。ぐすりと鼻を啜り上げる。

「マキノ」

 足音も無くレイがレセプションに降りてきた時、衝動的に踏み出して手首を握った。

「ごめん、会食中に。携帯、繋がらなかったし」

 息が詰まるようで、言葉が続かない。道すがら、心の中で散々練習した嘘の台詞が出てこない。

「マリアさんが、腰が痛いって、帰ってきてもらいたいって」

 あまり説得力は無いかもしれない。マリアが二人の予約している料亭を知っていたのは、マリアからの電話にはレイは応えたということだろうし、マリアだったら自分で連絡してくるだろう。レイの大きく艶やかな瞳が静かにこっちを見ている。槙野は震えて唾を飲み込んだ。

「……俺と来て」

 自分の言葉に呆然として、槙野はレイの手首を離した。小さく息を零すと、まだ熱の残る手首を撫ぜて、レイは無言で頷いた。

「ミスターにことわってくる。待ってて」

 身を翻し、レイはもう一度奥の座敷へ戻っていった。槙野は今更、ハインリクに悪いことをしたと、自分には大それたことをしてしまったと、プレッシャーにえづきそうになる。ややあってレイがジャケットを羽織り降りてきたが、振り向きざま肩をとられて耳元へ告げられた。

「オレは帰るよ、でもミスターが代わりにお前を招待したいって」


 高級料亭には前職の頃何度か足を運んだことがあるが、かつて無いほどの緊張で、槙野は正座の上に添えた拳を握り締めた。目の前に座っている男の高貴さにひれ伏したくなるが、それも許されない。ハインリク・ノルガードはデンマーク貴族に連なる名家の出身であり、ヨーロッパでも指折りの海運企業において取締役を務めた男なのである。

「またお会いできましたね」

 ゆっくりだが威厳とたおやかさを隠した英語に、槙野は顔を上げる。座敷の柔らかな照明を弾く銀髪と、碧の瞳が優しく細められるが、槙野は思わず声を漏らしそうになった。どういう訳か、あの夜のレイに似ている気がしたのだ。泣かないで、そう言いたくなるような笑みだった。

「やはり私では役に立てそうにない」

 冷酒を勧められ、槙野は猪口を受けた。ハインリクはしなやかな獣の毛皮のような皺を少し歪めて言葉を紡ぐ。船の上で出会った時は、なんだか儚げで、放っておけない気がしたのです。けれど時間を過ごすうちに、甘やかされていたのは私の方であったと気付きました。妻を失ってから、昔は二人で楽しんだ旅行もすっかり味気なくなってしまった。私は孤独にんでいて、レイを同じような境遇と決めつけて、だから自分のものにしたかったし、してもよいのだと傲慢に思っていた。

「でも彼は一人ではありませんでしたね、君がいる」

「……自分は、レイが苦しんでいる間何もできませんでした」

 ハインリクと対峙していると、まるで魔法にかかったように言葉が零れてくる。槙野は混乱したが、同時にこんがらがった何かがほどけていくような気もした。

「アンデルセンの『人魚姫』をご存じですか」

 恋心の報われなかった人魚姫を私たちは憐れみますが、物語の本当の寓意は、異形のものが人に出会って、他のものの幸せを願う心を得、魂を手に入れることです。そしてみんなに祝福を贈り、天国に迎えられる。過去や距離は変えられません、ですがそれを超えても想っていられるならば、救われることができる。

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