秋麗

 配達途中に『エストレア』を通りかかると、換気のためかドアが開けっぱなしになっていた。店内から顔を出したのは、まだ脚を引きずっているマリア・ママだ。槙野は手を貸そうと伸ばしたが、小柄な背を仁王立ちにしたマリアにあっさり拒絶された。大袈裟なんだよ、まったくさ。と整えられた眉と紅い口紅が盛大にひん曲がる。そんなところもキュートなのだ、とても50歳代には見えない。

「レイモンドを助けてもらってるみたいで、有り難うね」

 槙野は仕事中なのだが、まあお茶でも飲んでいきなよ、と店内に引っ張り込まれてしまう。営業時間以外のバーの店内というのは、磨かれたテーブルと酒瓶が陽炎かげろうと埃の中に沈黙している不思議な空間だ。物語の中の、宝物が隠された古城みたいな雰囲気だな、と槙野は見渡す。

「元通りに歩けるようになるまで、もう少しかかりそうでね」

「お大事になさって下さい。レイがいるから大丈夫ですよ」

 マリアは溜め息を吐き、今まで寄り付きもしなかったくせにどういうことなのやら、とハイビスカス茶を淹れてくれる。きっちりと塗られたマニキュアが、躊躇いがちにカウンターの上を滑る。

「ここが嫌だから、船に乗ったのだと思ってたんだけど」

 怪我のせいか心労のせいか、元のはつらつとした輪郭が少しけてしまったようだ、と槙野は横顔を盗み見る。レイが“この土地“をうとんでいることは、少なからず想像できた。レイの実母はフィリピンから働きにきて、日本で知り合った男性との間にレイをもうけたが、男は結婚もしなかったし、レイを認知することすら散々渋った。母親には正式な労働ビザが無く、男性もスポンサーすることは遂になかった。強制退去を命じられて、見過ごせなくなったマリアが、幼いレイを引き取ったのである。実のところマリア自身の居留資格も曖昧なのだが、そこはそれ、専門に扱う人たちとのコネがものを言うのだと、『エストレア』の常連客たちは知っているし、地域住民になって長いのだからわざわざ調べて通報する者もいない。そのうち実母のフィリピンからの便りも、途絶えてしまった。学校では出自と家庭事情のために揶揄われまたは特別視され、それが気に入らず生徒にも教師にもよく食ってかかっていた。マリアの薫陶もあって、いじめられても落ち込むタイプではなかったが、表に出していないだけで本当は傷心だっただろうなと、今になって槙野は思う。自分は遠巻きに見ていただけだ。だから今更だけど助けになりたい。

「槙野くんのお陰かもね」

 ハイビスカス茶の色合いに光がちらちらと瞬くのを見ながら思考に耽っていた槙野は、我に返った。マリアが親しげな視線でこちらを向いている。

「私は短気だから、あの子のことちゃんと分かってあげられなかったかもしれない、と思うことがあるの」

 本当は泣き言いいたかったことも逃げたかったこともあると思うの、でも私は、大丈夫大丈夫、レイモンドならできる、っていつも励ましちゃうからさ。あの子も“いい子“だから、養母の私に気を遣っているだろうし。

「レイはマリアさんのこと、大切に思っていますよ。ただ頑張り過ぎるのは、そうかもしれませんね」

「うん。でも槙野くんには弱音を吐けるみたいだから」

 マリアの口元の黒子ほくろが意味ありげに吊り上がる。槙野はたじろきつつ茶を啜った。そうだろうか。どちらかと言えば、自分がレイに弱音を吐いていると思う。マリアはカウンターに頬杖をつき首元のクロスを弄りながら、夢見るような麗らかな声音で呟いた。それでもね、私をレイモンドの母親にしてくれたことには感謝しているの。あの子がいなかったら、私は一生親になれなかっただろうし、親としての幸せも不幸も知ることができなかっただろうから。


 道端のガードレール向こうから、虫の音が聞こえるようになった。風もだいぶ涼しくなってきたな、と思いながら槙野は坂を下り、『エストレア』のドアを開く。まだ長時間立ち仕事をすることはできないものの、フロアでお客さんたちの相手をしているマリアの朗らかな声が出迎えてくれるはずだったが、この日は様子が違っていた。

 いつも通りグラスのかち合う音とお喋りが聞こえるのだが、どのテーブルの視線もある一点に集中している。槙野はいつものカウンター席へ向かうことを躊躇した。妙に浮ついた注目は、カウンターに腰掛けた人物へとそそがれている。見事なしつらいのスーツに、銀髪が照明に浮かび上がっている。少しなで肩で痩せてはいるが身長は高く、低くよく響く声が丁寧な英語を話していた。

「マキノ!」

 出直そうと踵を返しかけ、レイの声に呼び止められた。やけに必死なように聞こえて槙野は振り返ったが、その男もこちらを見たタイミングだった。

「初めまして」

 視線が合って、槙野は男に見惚れた。それは美しい銀髪と碧の瞳、歳は60を越えているだろうが、にこやかな口髭も洗練された立ち居振る舞いも恐ろしく魅惑的だった。王子様だ、いや王子様というにはトウがたちすぎているのだろうが、槙野の語彙力では他に言い表せない。立ち竦んでしまった槙野にマリアが近づき、カウンター席へ押しやられる。一席跨いでいるものの、隣り同士に座ることになり、槙野は緊張で動けなくなる。格が違う男というのは、こういうものなのだろう。おしぼりとお冷を出しに目の前に立ったレイも、心なし青ざめているようだった。男は槙野の注文を待って、再び話し始めた。

「日本へは何度か来ているのですが、レイモンドが戻っていると聞きまして」

「お仕事ですか」

「リタイアして、気軽な身分です」

 槙野は一句絞り出すのがやっとだが、男は笑顔を絶やさずグラスに口をつけた。綺麗なマティーニだ。レイがつくったものに違いない。槙野はアルコールに強くない上に、自分にそういうものをオーダーする甲斐性は無いと思っているので飲んだことはないが、若いお客さんたちはいつもレイがつくるカクテルを絶賛している。男がカウンター越しにレイを見詰めている。槙野は何かが背筋をぞわぞわと這い上がる感触に、慌ててビールを流し込んだ。今夜の食事は肉じゃがと浅漬けとご飯だ。椀を差し出すレイの指が白く強張って見えたので、槙野は顔を上げた。

「どこか具合悪いのか」

 俯きがちに無言だったレイは、槙野を見て一瞬すがるような目をした。

「良い匂いだ。メインの椀だけ私にも貰えるかな」

 夕食を食べてきてしまったのですが、抗いがたいですね。と、男はまた傲然と微笑んだ。雪のように繊細で華やかだが、氷柱つららのように人の自尊心を抉る人物だ。槙野は知らず身構えた。

「レイモンドとは船で知り合いましてね、素晴らしいバーテンダーだったので、また会えて幸運です」

 男はハインリク・ノルガードと名乗った。出身はデンマークだが、仕事の関係でイギリスと行ったり来たりしている。旅行が好きで、国際旅客船を利用した際に、レイと出会ったのだという。それからハインリクは、日を置かず『エストレア』を訪れるようになっていった。

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