白露

 ドアを開けるとシニガンのよい匂いが漂ってきて、槙野の腹が鳴った。

「あら槙野くん、また会ったわね」

 いつものカウンター席へ向かう途中、栄枝さんがソファからひらひらと手をふってきた。栄枝さんは郵便物を配達するタイミングでいつも庭の手入れをしている。今夜はどうも友達同士で飲みにきたみたいだ。みんな孫のいるお歳頃なのだが、頬を赤らめて楽しそうである。レイが戻ってきたことはあっという間に知れ渡り、もともと女性客も少なくなかった『エストレア』だが、最近ますます増えてきている気がする。

「何にする」

 カウンターの一番端の席に腰掛ければすぐに、おしぼりとお冷やが差し出される。一人でやってるのに手際が良くて驚きだ。タコみたいに手足がいくつもあるのを隠してるんじゃないかね、と槙野は眠たい頭で考える。

「シニガンとビールで」

 コンロにかかっている大鍋からシニガンを掬って白米にかける。ぴりりと酸っぱいスープは夏バテでも食欲を誘う。

「れいもん、ボトルもう一本!」

 ボックス席では町工場のベテランたちが出来上がっている。レイは男たちのテーブルに割り込むと、慣れた手つきで明らかに薄い水割りをつくり、次々と渡していく。

「これ飲み切るまでです」

「報奨金出たから、新しいの入れられるぞ」

「結構です。楽しく飲めなくなるまで売りたいとは思いませんね」

 熟練工たちは愉快に笑い、ごわついた指がレイの滑らかな髪をもさもさと掻き回す。本当、マリア・ママそっくりだ。あのイタズラ坊主がこんな立派になって帰ってくるなんてなあ。レイは渋顔で耐えている。昔から誰彼となくコミュニケーションが取れて、みんなから好かれる。槙野は横目で見ながらシニガンを啜った。

「美味いか」

 いつの間にかカウンターに戻ってきて、槙野の目の前に立っていた。背後の棚でウィスキーやジンのボトルが絞られた照明に瞬き、そのおぼろを纏うレイは凄まじく美しく見えた。まるで暗い海を泳ぐ人魚姫みたいだ。いやタコだっけ。

「うん、とても」

「マリアのレシピとは違うんだけどな」

「どっちも美味しいよ。レイのはすっきりしてるな」

 俺はあまり酒も飲めないから、こっちの方が好きかも、と付け加えると、レイは珍しく自慢げに破顔した。ちょっとだけ、子供の頃が思い出されて動悸が早くなる。レイくん、またレンピア頼んでもいい、と今度はご婦人方から声がかかる。レイは応えたが、槙野にもう一度振り向いた。

「今夜残れるか」

「……寝落ちなければね」

カウンターから身を乗り出し、槙野の耳元に囁いた。

「ウベのアイスがある。二人で食べよう」


 丑三つ時を回る頃には片付けも終わり、ゴミ出しを済ませて槙野が店内に戻ってくると、レイが冷凍庫からタッパーを取り出しているところだった。客席の照明は落とされて、カウンターだけがぼんやりと浮かび上がっている。この辺りは繁華街の外れなので、喧騒も届かない。

「マキノ、ウベのアイス好きだったよな」

 ウベとは紫芋のことである。フィリピンではポピュラーなデザートだが、果たして自分の好物だと誰かに言ったことがあっただろうか。意外に思ったのが顔に出たのか、レイはアイスを器に盛りながら苦笑した。

「小学生の頃、時々ウチに来て食べてただろう。覚えてないか」

 どうだろう、下校して学習塾に向かうまでの時間、店の準備中にマリア・ママが招き入れて、アイスやレンピアを食べさせてくれたような記憶がある。けれど、どうも曖昧だ。レイも一緒にいただろうか。

「……マキノはなんで戻ってきたんだ」

 アイスをスプーンで口に運びながら、レイが呟くように尋ねた。紫に濡れた唇と舌の動きからこっそり目をそらして、槙野は応える。

「挫折っていうほど、覚悟を持って仕事してたんでもないんだ」

 大学を卒業してから銀行に就職できたはいいが、毎日あくせく数字を動かすだけで、結局自分は何の役に立っているのか分からなくなってしまった。それに上司や彼女との関係がこじれて、逃げ出した。郵便配達は手に触れられるし、送る人受け取る人、一人一人の顔が見えるから、安心するんだ。自分が何をやっているのか、明確だろう。いつの間にかスプーンを強く握りしめていたらしく、レイに取り上げられる。

「また会えたら言いたいことがあったんだが」

 溶ける前に食え、と槙野のアイスをたっぷり掬うと、口に押し込まれる。冷たくて甘くて美味しくて懐かしい。確かに昔、食べたことがあるかもしれない。

「お前は覚えていないようだから、無効だ」

 なんだそりゃ、と槙野は抗議しようとしたが、口内はアイスまみれだし、星明かりもない巷間のバーで、陰ったレイの目元がどこか寂しそうだったので、タイミングを逸してしまった。

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